11 忍び寄るもの
帆沼さんとは、かれこれ二年ぐらいの付き合いである。オレが高校生の時に、彼が道端でピアスを落としているのを一緒に探してあげてからの縁だ。
『友達になろう。これからも仲良くしたい』
オレの差し出した泥まみれのピアスを見た帆沼さんは、マスクをずらし、唇を緩めてみせた。
『……こんなにいい子だとは思わなかった』
それから、家に遊びに行ったり漫画を借りたりといった仲になったのである。帆沼さんはオレの五歳年上で、その頃から小説を書いては公募に送る生活をしていた。
だから、彼が賞を取ったと聞いた時はとても嬉しかったのだ。でも肝心の小説はまだ読んでいない。オレは怖い話が苦手だった。
「……慎太郎」
オレの頬に手が添えられて、ハッと意識が現実に戻る。何事かと思ったが、どうも汚れがついていたらしい。親指でくすぐるように拭われた。
「家に上がってけば?」
「あ、いえ。大学の授業が一限からなので、すぐに出ます」
「……そう」
ピアスのついた唇が、哀しそうなへの字になる。それを見たオレは、慌てて大きな手振りでフォローした。
「だ、大丈夫ですよ、今日の午後は空いてるので! 何かご用ですか!?」
「用……というか、漫画の感想を聞きたいと思ってさ。直接」
「そうなんですか? 分かりました。でしたら帰りに寄りますね」
「……ついでに泊まってく?」
「いえ、今日は本の仕入れもあるみたいなので……」
「本の仕入れって何」
怪訝そうな声色の帆沼さんに、あれと首を傾げる。そういや、まだ檜山さんのことを話してなかったっけか。
「実はオレ、最近住み込みでバイトを始めたんです。昔お世話になった人がやってる古書店で」
「へぇ……」
「あ、店主さんはすごくいい人ですよ! お値段とかも良心的で、もし帆沼さんが欲しい本とかあれば相談していただければすぐに……」
「それってもしかして、現世堂のこと?」
ズバリと言い当てられて、ドキリとする。けれど帆沼さんはそんなオレの動揺を見透かしたように薄く笑うと、首を横に振った。
「……こう見えて、この辺りの本屋には詳しいから。大学に行くついでにうちに寄れて、かつ自転車の移動圏内の古書店といえば現世堂ぐらいだろ」
「な、なるほど」
「でも、心配だな」
帆沼さんの両手が近づき、頬を掬い上げられる。「え?」と思う間も無く、オレの顔は彼の眼前まで近づけられていた。
自分の唇に彼の吐息がかかる。ツヤのあるアッシュグレーの髪の毛が、すぐそばまで迫っていた。
「さっき住み込みって言ったけど、それってほんと? 慎太郎、すごくお人好しなとこあるじゃん。……お金が欲しいのなら、俺があげるよ? 慎太郎が来てくれたら嬉しいし、うちの方が大学にも近いし」
「え、え?」
「……なぁ、慎太郎。俺と一緒に住もう? 使いきれないくらいのお小遣いをあげてもいいし、欲しいものだってなんでも買ってやる、から」
「い、いえ! オレ別にお金が欲しいわけじゃ……!」
「じゃあ何」
少し伸びた爪が、首筋に刺さっている。痛みに顔をしかめたら、彼はすぐに気づいて手を離し、指の腹で撫でて労ってくれた。
「……ごめん。でも俺は、本当に慎太郎が心配なだけなんだ」
「え、と……理由を聞いてもいいですか?」
「ああ。現世堂の店主……檜山正樹は、あまり良くないと思って」
その返答を聞いた瞬間、一気に自分の顔が凍りついたのが分かった。こうなるともう頭に血が上ってしまってダメである。オレは、つい帆沼さんに食ってかかっていた。
「な、なんでそんなことを言うんですか!? 檜山さんはいい人ですよ! オレにいつも優しくしてくれるし……!」
「落ち着いてくれ。……誰だって、いくつも顔を持って生きているだろ。つまりそれだけだ。彼も、慎太郎にだけ見せていない顔があるってだけで」
「それってどういう……!」
「聞きたい?」
突然の問いに、思わず口をつぐむ。
……僅かに開いた口の中に、小さくて真っ黒な宝石が嵌め込まれたピアスが見えた。舌は、まるで一つの生き物のように蠢いている。
そうして数秒迷ったあと、オレはふるふると頭を振った。
「……いい、です」
「……なんで」
「聞いちゃダメだと思うからです。確かに、檜山さんの良くないとこは気になりますけど……。でも、オレが自分の目で見て考えようと思います。それに、ここで聞いちゃったら、帆沼さんに陰口を言わせることになりますし」
「……」
「……そういうの、オレは嫌です」
「……あー?」
帆沼さんは、心底不思議そうな声を上げる。それからまじまじとオレを眺めたかと思うと、嬉しそうに微笑んだ。
「……やっぱり優しいな、慎太郎は。いつもこっちのことを考えてくれてる」
「……え?」
「陰口を言わせたくなかったって、それってつまり俺を気にかけてくれたってことだろ? 嬉しい」
そう言うと、帆沼さんは満足げにオレの手の甲に頬ずりした。流石に少し抵抗があったけれど、されるがままになるしかない。
こういう時のこの人は、オレからの拒絶に何より傷つくからだ。前から距離が近過ぎる所があったけれど、一方とても繊細で脆い部分がある。
けれど時間は誰にも平等だ。ふとあることを思い出したオレは、腕時計を確認して飛び上がった。
「うわー! 大学!」
「おっと」
「すいません、帆沼さん! 遅刻しそうだからもう行きます! また帰りに寄りますから!」
「……ああ、待ってる」
最後にもう一度オレの手に頬ずりし、彼は口元だけで笑う。
「絶対、来て」
強い念押しに怯みながらも、オレは頷いた。……最近、というかここ一ヶ月、帆沼さんは頻繁にオレに連絡をくれるようになっていた。前はせいぜい一ヶ月に二、三度だったのに、今は三日空けば珍しいほどで。
(……そういや、昨日と一昨日は連絡が無かったな)
まあ、そういう周期なのかもしれない。帆沼さんって結構かっこいい感じだから、他に恋人とかいるのかもだし。
そんなことを考えながら、大学に間に合うようマンションを飛び出した。その時一人の女性にぶつかりかけて、慌てて謝りまた急ぐ。
彼女の残した花の香りだけ、しばらく鼻腔の奥に残っていた。
「……イイ。やっぱり、慎太郎はすごくイイ」
空気のこもった薄暗い部屋の中、唇のピアスに触れながら帆沼は笑っていた。
「モノにしたい。落としたい。……だが、それには檜山サン。檜山サンをどうにかしないと」
ピアスを弄りすぎたせいで、唇に血が滲む。それを舌で舐め、また彼は笑った。
「次はどうするかねぇ……」
彼の周りには、赤いインクで殴り書きされた原稿が散らばっている。それを踏みつけ、彼は振り返った。
「……いらっしゃい」
鍵のかかっていないドアが、躊躇いがちに開く。そこには、花の香りをまとった女性が立っていた。