10 帆沼さん
「……はい、檜山です。莉子さんですか」
『どうも、朝早くに失礼します』
丹波のハキハキとした声は、いっそ清涼ですらある。檜山は少し胸の内が澄み、背筋が伸びる心地がした。
『昨日は遅くまでありがとうございました。慎太郎君は大丈夫でしたか?』
「そうですね……。大丈夫とは言えませんが、引き続き様子を見ていこうと思います」
『ええ、それがいいですね。人に殺意を向けられるのは、尋常ではない体験です。とても怖かったでしょうから』
「はい……本当に」
彼女の何気ない言葉に、ズキリとこめかみが痛む。同時にしまいこんでいた記憶の一部がフラッシュバックし、その切片を皮切りに次々と別の忌まわしい記憶が脳の奥から引っ張り出され――。
檜山は、強く目を閉じた。それから三秒数えて、ゆっくりと開ける。
忌まわしい光景は消えていた。これは、深く陥りそうになった思考をシャットアウトさせる為の彼なりの手段だった。
『……正樹さん? どうしました?』
「あ、いえ大丈夫です。問題ありません」
『そうですか。では、本題に入ります』
深入りしない丹波に、檜山はこめかみをさすりながら安堵のため息をつく。
『正樹さん、あなたは例の本を読む際に、汚れた手で触った覚えはありますか?』
「汚れた手で? いいえ。うちは職務上、本を取り扱う時には手袋をしていますが」
『そうですか……』
「……そう尋ねるということは、妙な汚れでもついてたんです?」
『え? ええ。名前が書かれていたページについてなのですが、あれは実際に犠牲になった一名を除き、全て一人の血液で書かれているとお伝えしましたよね?』
「はい」
『そこに一箇所だけ、赤いインクの擦れた跡があったんです』
「赤いインクの?」
『はい、少し鉄分を含んだインクです。恐らく古典インクの類だと思うのですが……』
はて、それは確かに妙である。檜山は眼鏡のズレを直して、少し考えた。
……普通、インクといえば黒と相場が決まっているものだ。加えて、うっかりついたような汚れだとしたら尚更。
つまり、赤インクが付着しているならば、それを使わなければならない目的があったと考えるのが自然である。
「……その点について、鵜路さんは?」
『心当たりは無いそうです』
「本に指紋は?」
『鵜路さんと正樹さんのものしか残っていませんでした』
「なるほど」
とすると、このインク跡をつけたのは、この本を書いた人物か、もしくは鵜路さんに本を紹介した人物だと推測できる。
だとすれば、その者が赤インクを使っていた理由が何かあるのだろうか。普段から使っていたから? 同ページに何か書くつもりだったから? あるいは……。
――あえて、自分の痕跡を本に残すために?
そんな馬鹿な。
『……では、正樹さんはこのインクに心当たりが無いということでよろしいですね』
そして、自分から情報が得られないと判断した丹波は、早々に会話を切り上げようとしていた。檜山としても多忙な彼女を引き止めることはしたくなかったので、すぐに「ええ」と肯定する。
『……あ、そうそう。最後に、古書店屋さんに一つおまけの情報です』
「なんですか?」
だが電話を切る直前、思い出したように彼女は教えてくれた。
『本に埋め込まれていた宝石の件なのですけどね。ほとんどイミテーションだったんですが、実は一個だけ本物のブラックダイヤモンドだったそうですよ』
「……え」
『とはいっても、背表紙に埋め込まれていた本当に小さなカケラです。気づかれなくても無理はありませんが』
「……」
『それでは、ご協力ありがとうございました』
驚きのあまり固まる檜山を残し、一方的に通話は途切れた。もはや何の音も発さなくなったスマートフォンを握ったまま、檜山は立ち尽くしている。
現世堂に初めて訪れた時の鵜路の姿を思い返す。流暢に、ブラック・オルロフの呪いについて語っていた彼の姿を。
――『この宝石は、呪われています。まるで魔性の女のように、見る者を魅了し食ってしまう。欲を持った人である限り、決してその呪いに抗うことはできないのです』
「……いやいやいや」
檜山の心臓は、痛いぐらいに音を立てていた。嫌な汗が伝い、手は震え、こめかみはズキズキと痛んで。
「……そんな、呪いなんてあるわけが……痛っ」
だが、思わず口に出していた言葉は、滑り落ちたスマートフォンが足の小指に激突したことで遮られた。足を押さえてうずくまり、檜山は小さく呻く。
痛い。
とても痛い。
「……あー、もう」
深く息を吸って、長く吐く。それからスマートフォンを拾うと、店のシャッターを開ける為に檜山は立ち上がった。
そうだ、仕事をしなければ。この事件は一応終わったのだ。これ以上引きずられて、日常生活に支障をきたしてはならない。
そう、何度も言い聞かせていたというのに。
「……」
こめかみに触れる。足の小指の痛みといえど、ここの痛みを打ち消すには足りないようだった。
少し複雑な道の先にある、何の変哲も無いマンション。その場所こそ、今のオレの目的地であった。
「帆沼さん、オレです。慎太郎です」
入り口のインターホンを鳴らし、挨拶して待つこと数秒。滑らかに自動ドアが開いた。
その奥にあるエレベーターへと向かう。この時間だと、上る人より降りる人の方が多い。すれ違う人を横目に、オレは6と書かれたボタンを押した。
そうしてエレベーターを降りたオレは、隅っこの部屋の前へとたどり着く。だけど、いざドアレバーに手をかけようとしたその時。
「……いらっしゃい、慎太郎」
ドアが開き、バッシバシにピアスが開けられた不健康そうな男の顔が覗いた。一瞬ビクッとしたが、何も驚くことはない。オレはこの人に会いに来たのだ。
彼の名前は帆沼呉一。つい半年前に名のある文学賞を取った、新進気鋭の作家である。得意ジャンルは小説の他、童話や詩などと幅広い。けれど、全体的に暗く重たい雰囲気なのが特徴なのだそうだ。
薄く笑うその人に、オレは小さく頭を下げる。
「おはようございます、帆沼さん。これ、借りてた漫画です。返しに来ました」
そう言って、鞄の中から漫画を取り出す。帆沼さんは完全に目を隠してしまっている前髪を少し揺らすと、「ああ」と頷いた。
「……それ、どうだった?」
「とても面白かったです!」
「だと思った。読んでもらえて、俺も嬉しい」
「でも、流石人気作家の帆沼さんですね! オレ、こんな面白い漫画があるって知らなかったです!」
「まあ、職業柄色々知る機会も多いから」
微笑する唇にはシルバーのリングピアスが光り、チラチラ覗く舌には丸いピアスが埋まっている。初めて会った時は怖い人かと怯えたけれど、慣れてしまえば馴染んでしまうものだ。
「あ、そうそう、帆沼さん。漫画に汚れがついてましたよ」
「汚れ?」
「六巻の最後の方のページなんですけどね。ほらここ、インクで汚れてます」
「……あー、気づかなかった」
「もー、一瞬血かと思ってびっくりしましたよ。オレが帆沼さんが赤インクで小説書いてるって、知ってたから良かったものの」
「はは、本当に」
該当箇所を指差して伝えると、彼は低い声で笑っていた。
「……悪かった」
その目は、やっぱり前髪で隠れてよく見えなかったのである。