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左利きの苦悩

左利きの苦悩


「佐山先輩、左利きなんですね」


 図書館で勉強をしていたある日、一つ歳下の川上陽子がぽつりと言った。

 その名の通り、底抜けの明るさを持つのが彼女の特徴だった。


「何を今さら」


 ノートに走らせたペンを止めて、僕も小声で返した。


 思わず左手に目をやる。

 僕は、この左利きというのが好きではなかった。いいや、嫌いだったと断言しても良いかもしれない。


 小さい頃、僕はたぶん利き手という概念を周りの子供たちよりも早く理解していた。そして、世界にとっては右利きこそが自然なのだと知って絶望した。


 僕は周りとはズレているのだと突きつけられたような気分だった。幼少期の強烈な負の体験がのちの人格形成に影響を及ぼすのは、わざわざ言うまでもあるまい。おかげで僕はやや捻くれたヤツになってしまった。


「いえ、あんまり利き手を見る機会ってあんまりなくないですか?」


 確かに、利き手を確かめる手段はそれほど多くない。それこそボールの投げる手やペン、箸の持ち手に注目していなければ気付かないだろう。


 川上は僕の左手をじぃっと眺めていた。僕はなんとなく照れ臭くなってペンをくるくると回した。


「なんか、カッコいいですよね。わたし、憧れます」


「そんなにいいもんじゃないさ」


 右利きの人にはわからないが、左利きというのはそこそこ不便だ。小学生の頃からマイナス体験は始まる。右利き用のハサミは左手ではまともに切れたものではないし、鉛筆でノートを取ると決まって左手の裏が真っ黒になった。


 基本的にこの世界は右利きの人間が道具を使うことを前提として設計されている。当然だ。右利きの人間の方が圧倒的に多いのだから。


 たとえばズボンの右側のポケットにはコインポケットと呼ばれる小さなポケットが別に存在する。これは文字通り小銭や切符などを入れておけるスペースなのだが、右側にしかない。

 切符といえば、駅の改札もそうだ。右手で切符やICカードを扱えるように、右側に設置されている。


 食事の時なんて最悪だ。右利きの人が左側にいると、席の近さによっては高確率で肘がぶつかる。僕だって狙ってぶつけているわけでは無いのに睨むのはやめてほしいものだ。


 最近では両開きのものもあるが、多くの冷蔵庫は右手で開くようになっている。電子レンジは左開きだが、これは左手で開けて力のある右手で中のものを出し入れするためだろう。


 眼下のノートに目をやる。書き慣れた日本語の漢字であるが、「跳ね」や「払い」を左手で書くのは実は難しい。右手であればペンが右手側に近づくからペン先が安定するのだろうが、左手で同じことをするとペン先は手から離れていくのだ。


 学校の小テストではよく左側に問題が、右側に解答欄のあるプリントがあった。これも自分の手が邪魔で仕方がない。


 パソコンのテンキーやマウス。これらも多くが右手でマウスを使うようになっている。


 大学によくあるサイドテーブル付きの椅子。あれなんて完全に右利き用だ。もはやいじめのように思えてくる。急須やお玉もこのカテゴリだろう。全人類は明日から左手を使って生活をしてみてほしい。


 ……などなど、自分でも知らぬ間に、いかに左利きが不便なのかを僕は語ってしまっていた。

 しかしそれを聞いていたにも関わらず、川上は事も無げに繰り返した。


「でも、カッコいいじゃないですか」

「……」


 左利きに関して、一時期、父に矯正されそうになったことがある。こう書くと僕が抵抗したように思われるが、そうではない。できなかったのだ。未遂に終わったのである。


 矯正を始めたのは小学三年生の頃だった。僕は利き手に関して途方も無い疎外感を感じていた。みんなが普通にやっていることが僕にだけはできないのだと思えたのだ。


 もちろん、今までの短い人生の中でも、左利きの同志と会ったことがある。けれど、わざわざ不便不満を共有するほどの憎しみがあるわけでも無い。不満を吐き出したところで、どうにもならないのだ。


 何を思ったのか、川上が左手でペンを持ってノートの余白に何かを書いていた。ミミズのようなよれよれの線は、もはや文字でも絵でもなかった。




 しかし興味深いことは、古今東西を問わず、常に左利きの割合が10パーセント前後存在するという点だ。古代の壁画を見ても右利きの方が多いことがうかがえる。現在も、千年前も、左利きは少数派なのだ。


 僕はこれを知った時、矯正をやめた。もともと大してうまくできなかった。

 右手で箸なんて使った日にはごはんのほとんどをこぼしたし、ペンは幾何学模様を生み出すことしかできない。三つ子の魂百までというが、それ相応の努力がなければ癖というのは変えようが無いのだ。



「先輩、見てください」川上は歌うように言った。


 汚い文字で僕の名前がノートに書かれていた。ギリギリ読めなくも無いが、三歳児のほうがまだ上手に書けそうだ。


 時計を見ると午後六時を回っていた。いささか長く居座りすぎたかもしれない。


「そろそろ帰るか」

「ん、そーですね」


 帰り支度はすぐに終わった。川上はやはり右手で教科書やノートや筆箱をカバンにしまい込み、僕は左手で同じことをした。かといって、かつてのような疎外感はない。大人になったというよりは、諦めがついたというほうがより正確かもしれない。


「でもやっぱり、左利きの先輩は好きですよ、わたし」


 図書館を出ると、川上が上機嫌にそう言う。


「どういう意味だそりゃ」


 こういうことですよ、と川上が微笑む。彼女の右手が僕の左手を取る。暖かい五指が絡まって、しっかりと握られる。


「利き手同士で手を繋げるのって、なんだか素敵じゃないですか?」


 ああ、確かにこのときだけは、左利きでよかったかもしれないな。

 僕も優しく握り返した。


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