そりゃねぇぜ、姫様?
来るアデリーナ様二十四歳の誕生日パーティーの祝いの一席で、なんとアデリーナ様は来賓達を前に衝撃のスピーチをなされた。
「私ことサヴォイ国の第一王女アデリーナは、今夜の二十四歳の誕生日を期にこの位階を我が妹であるフェルミーナに譲り、その後は紅茶の研究に精を出したいと考えております。ゴルドー国のジルベルト様は、このまま妹のフェルミーナの婚約者としてお迎えしますわ」
当然、この突然のスピーチに王は頭を抱え、王妃は倒れた。招かれた諸侯はこの事態に早速新しい働きかけ方を模索しているのか、第二王女の姿を探している。
右往左往する親戚のオッサンやオバサンに見える重臣達は、必死で壇上のアデリーナ様に撤回を求めたが、聞き入れられなかったようでうなだれていた。
ただ一人、壇上から離れたカーテンの影で、妹君であるフェルミーナ様だけが感慨深そうに何度も頷いている姿が目端に映る。
その訳知り顔に場違いな嫉妬を抱きながら、俺は早々に退場しようとしているアデリーナ様の後を追った。
バルコニーに出られたアデリーナ様の背中に追いついたものの、何を話しかければ良いのか考えていた訳ではない。なのでふと視線の先にあった、素肌を晒したデザインのドレスから覗く丸い肩のラインに見惚れてしまう。
小麦色の肌に良く似合う若草色のゆったりとしたドレス。夏場に入ってからさらに良く焼けた素肌は、近付けば食欲を刺激する香ばしい香りが漂ってきそうなほどだ。
まぁ――俺の欲求は食欲のそれではないが……。
と、そんなことはどうでも良い。俺は大股に近寄ってその肩に手を置いて、無礼だとは思ったがアデリーナ様の顔を覗き込んだ。
「あら、まだパーティーは終わっていないのに……貴方ったらついてきてしまったの?」
そう柔らかく微笑まれたエメラルドグリーンの瞳は、ほんの少しだけ驚きに見開かれた。
「俺は、アデリーナ様の専属騎士ですから。貴女様のいらっしゃる場所であれば、そこがどこであろうともついて行きます」
こんな時だけは、少しだけ――五年前の出逢ったばかりの頃の口と頭の悪さが欲しくなる。
「そうね、では、専属騎士でなくなれば貴方は私を追っては来ないのね?」
言葉を選ぶように泳いでいた視線が、ひたりと定まれば、アデリーナ様はどこか寂しそうにそう呟いた。
「いえ、アデリーナ様そうでは……」
咄嗟に口に出しかけたが、もしもここで“ない”と言えば、俺はどうなるのだろうか?
いや待て、何をした訳でもないのだから、怯える必要はない。俺の身はまだ潔白だ。そう、あくまでも、まだ。
そもそもが騎士として雇い入れられた理由も、争い事に慣れていて、給金が正規の騎士見習いを一から育て上げるよりも安くつけられるからだった。
例え俺がこの国から明日いなくなろうとも、フェルミーナ様のご結婚の際に婿であるジルベルト様の国から、結納ついでに正規の騎士もついてくるはずだ。
だからこの場で俺が処理しなければならない案件はたった一つ。この決して抱いてはならない大それた想いを、どうやって釈明したら良いのだろうということだけだ。
俺が足りない頭をフル回転させている間に、アデリーナ様は肩に置いた俺の手からすり抜けると、月を背にして一層深く微笑む。
その姿はまるで本物の豊穣の女神のようで……幼い頃いつも腹を空かせては盗みを働いていた孤児の俺が、冬の寒さを凌ぐ為に忍び込んだ教会の宗教画に似ていた。
いついかなる時でも、かの豊穣の女神はその温かな微笑みを絶やさない。
五年前、アデリーナ様が馬車の扉を開けて顔を出した時、俺は――この方に豊穣の女神の面影を見た。
微笑んで、甘やかして、その女神としては質素なドレスの裾に縋る者には惜しげない慈悲を与えて下さる。そんな存在。
けれど……いま俺の目の前に立っている女神は、微笑みながら、泣いているように見えた。
「うふふ、ロンバルトはさすが私の騎士だわ。今までずっと、十も年下の小娘相手によく遣えてくれて……本当にありがとう」
せっかく美しく整えられていた金色の髪が、風をはらんでその形を乱す。肩に置いていた手は、まだアデリーナ様の熱を残して俺をどうしようもなく切なくさせた。
「アデリーナ様、それは……どういうことでしょうか?」
俺は一度でも瞬いてしまえば、目の前から消えてしまいそうなアデリーナ様から目を離すことが出来ない。壇上でのスピーチ同様、突然の別れの挨拶のような言葉を耳にして喉がひりつくように渇いた。
「どうということはないわ。ずっと考えていたことなのよ、私の騎士様。貴方はもうずーっと前から私には勿体ない人なのよ。努力を惜しまず、出自に膿まず、誰よりも優しく私に接してくれたわ」
「っ、いえ、アデリーナ様、それは……買い被りすぎです!」
「いいえ、違うわ。それだけじゃなくて……今まで数十回、婚約者として紹介された男性に“デブ”だ“豚”だと罵られた私に――貴方だけは、淑女を扱うように私に接してくれたわ」
「あの屑どもがアデリーナ様の魅力に気付かなかっただけです! 真っ当な目を持っていれば、貴女様の素晴らしさが分かるはずなのに!」
「あら、まぁ、駄目よロンバルト。せっかく褒めているところなのに“屑ども”だなんて――言葉遣いが出逢ったばかりの頃に戻っているわ。それに私は姫らしいものを何も持っていないのよ?」
月明かりの下でそう悲しげにご自身の身体を見つめるアデリーナ様は、今までの心無い言葉に「面白いから良いわ」と笑われていたお顔の下で本当は泣いておられたのか。
「いつも、何を言われても微笑んでいられたのは、妹やお父様お母様が大好きだったのも勿論あるけれど……そうでもしないとやっていられなかったのよ。あの日、初めて貴方に出逢った日もそう。十四回目の顔合わせに失敗してヤケになっていたから、貴方達を勧誘したの。幻滅したでしょう?」
――あぁ、そう言えばあの時、少しだけ鼻声だった。あれは、馬車の中でひっそりと泣いた後だったからなのか……。
「お見合い相手に見せる姿絵に、若い頃のお母様に似せた私を描いて送ったらしいから、当然よね。フェルミーナは若い頃のお母様に瓜二つなのよ。そんな姿絵の女性を期待していたのに、現れたのが私よ? 相手はどれだけ傷ついたかしら。姿絵の女性に焦がれて私のような女が現れたら!」
血を吐くような声を上げて、アデリーナ様が顔を覆った。
「第一王女のアデリーナでいる限り、私はずっと笑われる。畑を広げるしか脳のない女だと、美しい妹の肌が焼けないように働くだけの女だと……!」
俺はアデリーナ様の言葉を聞きながら、剣帯を握る手に力を込める。使い慣れた大振りのナイフから持ち替えた『貴方は専属騎士になるのだから、剣帯に収まるものでなければね?』と仰って誂えて下さった剣。
その柄に指の跡が残るほど強く、握りしめる。
そうでもしないと、今からパーティー会場に戻ってどの国の人間に虚仮にされたのか炙り出してやりたくなるからだ。
顔を覆ったままのアデリーナ様の震える肩を見ていると――怒りで頭が煮えたぎりそうだった。
のうのうと毎日の幸せに浸りきっていた自分に。
婚約まで取り付けられなかったことを喜んでいた自分に。
吐き気がするほど、怒りがこみ上げた。
「でもねぇ……紅茶の研究は本当に好きなのよ。手間をかければ美味しくなるし、香りも良くなる。大国との商談で国が潤えば、こんな国に居てくれる民にも少しは楽がさせられる」
そう言って顔を覆っていた手をのけて微笑むアデリーナ様は、やはり、とても美しかった。
「――アデリーナ様」
「ふふ、ロンバルトったら怖い顔して何かしら?」
名前を呼んで、呼ばれて……この時間が今日で潰えるだと? そんなことは認められないと、頭の中で声がする。
「アデリーナ様、貴女がいないのであれば、俺がこの国に騎士として留まることはありえない。俺は貴女の専属騎士です。貴女以外を守る気はない。貴女が王女を止めることに関しては賛成出来ても――俺は、貴女と離れることは絶対に出来ない」
待てよ……これは、考えようによっては最初で最後のチャンスかもしれない。王女という肩書きに尻込みしていた男も、もしかして王女でなくなったアデリーナ様なら俺のように慕う男がいるだろう。
だったら――もしや今夜のスピーチを一番最初に会場で耳に出来たのは幸運なのか? 頭の中で複数の俺の声がする。
どうする? どうするんだ俺! と。
「あの……本当にどうしたのロンバルト?」
不思議そうに、心配そうに。そしてどこか、不安そうに覗き込んでくるエメラルドグリーンの瞳の豊穣の女神。
小麦色のその健康的な肌からは、いつも、どんなに天気が荒れる季節でも陰ることのない太陽の香りがした。
「アデリーナ様……いや、アデリーナ。五年前に馬車から攫い損ねたあんたのことを、今夜このバルコニーから俺が攫っても良いだろうか?」
元があまり良くない頭で色々と考えすぎて熱に浮かされた俺が、そう懇願するようにみっともなく声を絞り出せば――。
「まぁ、ロンバルト……本当に? 本当に私のような体重の女を、ここから攫えると思っているの?」
涙声のままアデリーナ様……いや、ただのアデリーナがそう楽しそうに囁くものだから。
「あまり俺のことを舐めるなよ、お嬢ちゃん。俺にはあんた二人分だって軽いもんだ。物音一つ立てないで、ここから攫ってやりますよ」
間近にあるエメラルドグリーンの瞳を覗き込めば、そこには五年前のままの自分の本性が映っている。
「あの日、一目見たときから、いつか攫うんだと決めていたんだ」
「あら、それなら私、貴方みたいな悪い男にモテるのかしら?」
「…… かもしれねぇな」
「うふふ、だったら王子様なんて元から合うはずがなかったのね」
「かもしれねぇな……」
彼女の軽口に付き合いながら、少しだけ屈んでそのまま腰と膝裏に手を差し込む。グッと軽く屈んでいた背を伸ばせば、あっという間にその身体がバルコニーの上から浮いた。
「――あら、まぁ。私ったら本当にそんなに重くなかったのかもしれないわね、ロンバルト?」
首に抱きつくその柔らかさに目を細めて、心底幸せな気分で俺は答えた。
「だから、最初から俺はそう言っていたでしょうが。俺の豊穣の女神様」
少しは良い雰囲気になりそうな言葉を用意してみたかったが、俺にはそれが精一杯で。
「――えぇ、そうね。私の愛しい山賊騎士様」
そう言ったアデリーナに落とされる額の口付けの方が、よっぽどよっぽど、浪漫があった。