寂しいウサギのように……【後編】 瞭&遙
「よし、あと少し」
恐ろしく時間をかけて、ようやく瓶を引き抜いたと思った瞬間、強い力で腕を捕られ、瞭の不安定な身体が前のめりに傾ぐ。
「わっ!?」
危ない、と思った時には、押し潰す筈の遙の胸に抱き止められて。 息が――止まりそうになる。
期待に掠れた声で、愛しい名を囁きかけた瞭の言葉は、意外にはっきりとした遙の声に遮られた。
「もうっ瞭、じたばたしないで、朝までここで大人しく寝てなさい」
「はっ?」
じたばた……ですか?
感じる違和感に、右腕で体重を支えるようにして、僅かに身体を起こすと、間近に見える遙の顔を覗きこむ。
至近距離で見る碧の瞳は、いつもの鮮やかさを失くし、けぶるような色合いを醸し出していた。
にこっ。
眼が合った途端、幼子に向かってするように、顔中で微笑んだ遙の態度に、正気の色は見えなくて。
「遙?」
恐々かけた瞭の声に、遙は更に微笑を深くすると、抱き止めていた両手を解放し、今度は頬へと掌を宛がった。
その一連の覚えがある動きに、思わず全身で抗うが、加減のない遙の力は、瞭の抵抗を物ともしない。
「さっきのお返しだ、瞭」
言葉が終わらぬうちに、眼元や鼻筋に遙の唇が降って来る。
幼少期、嫌がる子供を羽交い締めにして、恭と遙は暇さえあれば、繰り返し瞭にキスをした。 まるで競い合うかのように、二人から顔中に落とされたキスの思い出は、瞭が大人になっても深く記憶に焼き付いて離れない。
その記憶と辿るのと同じ順番で、柔らかい口付けは頬から伝うように唇へ――
「遙!」
突発的に『力』を使って引き剥がした遙の両手を捉えて、瞭が吼える。
「ふふっ」
「こっ……のっ、酔っ払いっ!」
思わず毒づいた瞭にも笑うばかりで、遙は現状を正しく認識出来ていないようだ。
酔いが与える一時の痴態に、冷静さを欠いては駄目だと知りながら、無防備な姿から目が離せない。
「……どうした? 瞭は私にキスされるのは嫌いなのかい?」
上目遣いに流された視線と、ほんのりと淡く色付く目尻に。 しっとりと濡れて潤んだ碧の瞳に。
――何より誘うように開かれた唇に、抗う暇もなく理性は壊されて。
「遙……」
華奢な顎を残った掌で捉え、互いの吐息を感じる近さまで、そっと顔を近付ける。
抵抗のない遙の、甘く震える禁断の紅い蕾に触れようとした瞬間――
『カクン!』と音がしそうな程の勢いで、遙の頭が後ろへ仰け反る。
「!?」
とっさに伸ばした腕の中。 酔いの成せる業か、瞭の胸で気前良く意識を手放した遙に、それ以上何も手出しは出来なくて。
「なっ……何なんだよ、いったい」
思わず口を衝いて出る言葉の真相は、安堵か後悔か。 同時に吐き出した嘆息に、意外な緊張を知って、瞭は苦く笑った。
『まいったな。本当は私も、いつまでも貴女が望むような子供ではいられないんですけどね』
――それでもまだ、何も理解出来ない遙の為に。 表面に溢れ出た愛しい想いは、再び胸の奥深くに沈める必要が有るのだろう。
「……でも貴女が愛情を理解出来るその日まで、師匠達と同じ様に待ちますよ」
遣る瀬無い想いを、わざと言葉に出して、客観的に心に言い聞かせる。
瞭は大きな深呼吸を行いながら、感情を律し、極めて事務的な手つきで遙に触れた。
意識の無い遙を寝台に改めて寝かせつけると、疲れた身体で部屋の端にあるソファーへと移動する。 そのまま横になろうとして、瞭の視線がふと、床に置いた果実酒の瓶に注がれた。
「酔いたい時に限って、肝心の酒は無い、か。……いや待てよ」
まだ中身が残っているかも知れないと考えて、床から持ち上げると瓶の口を開けてみる。 がしかし、遙は全量を飲み干したようで、覗いた口からは液体は見えなかった。
「やっぱり残ってないか……あれ?」
鼻先をくすぐる、甘い果実の匂い。 開けた瓶を前に漂う違和感を覚えて、瞭は怠けがちな頭脳を何とか働かすと、結論を出した。
「酒の匂いが全くしない。……果物の匂いだけだ」
軽く混乱する思考の中、可能な限り瓶の中に何を入れたのかを、思い出して見る。
そういえば遠征へ向かう直前に、イシェフに住む友人が、酒にする果実をわざわざ屋敷まで届けてくれたのだ。
普段目にしない珍しい果実を、忙しい瞭に変わって瓶一杯に詰め込みながら、「自然醗酵はしないから、後できちんと手を加えるように」と友人は言っていなかったか?
「……忘れてた」
友人の話を虚聞きした瞭は、醗酵させる為の下準備を忘れて、何もせずに屋敷を出たのだ。
『じゃあ、中身は酒ではない筈では?』
感じた疑問に、甘ったるい匂いを放つ酒瓶を逆さにし、ぽんぽんと無造作に掌に叩き付けた。
落ちた少量の雫を、掌から直に舐め取って、瞭が小さく呻く。 若干舌に妙な刺激はあるが、やはりただ甘いだけの飲み物だ。
「遙。まさか貴女、こんな物で酔ったの?」
寝台で健やかな寝息を立てる遙をしばし言葉も無く見つめてから、瞭は更に疲れた身体を鞭打ち、傍らのソファーに横たわる。
「……師匠。何か色んな意味で挫けそうです」
それでも萎えた精神に、眠気は直ぐに訪れて。
芽生えた虚しい考えを放棄する事に決めた瞭は、訪れた優しい暗闇に意識を委ね、束の間の眠りに落ちた。
翌朝。 窓から柔らかく差し込んだ日差しと、頭に響く鈍い痛みのせいで、遙は眼が覚めた。
『ここは……瞭の部屋か?』
どこか薄ぼんやりとした記憶で、昨夜の行動を思い返してみる。
皓や恭の不在時にしていた事と同様に、なかなか帰館しない瞭の部屋で、寂しさを紛らわす為に、彼の匂いを探した。
気に入った人間の匂いに包まれると、とても安心出来るのだが、瞭は皓達と違って、大きくなってからは、何故か遙を抱き締める行為を一切しなくなった。
『いったい何故、瞭は私を避ける?』
巧妙に振舞ってはいるが、二人きりになるのを敢えて避ける瞭の態度に、気付かない遙ではない。
鬱々(うつうつ)と考えながらも探し出した瞭の服に、それでも僅かな温もりを感じられる気がして、遙は素肌に直に纏うと、更に匂いに溢れた寝台へと足を向けた。
『瞭は私が嫌いなのかもな』
幼い頃は無条件で懐いていた瞭が、齢を重ねるにつれ、次第に手元から離れていく。
胸を占める寂寥感に苛まれながらも、当然の反応かと、遙はぎこちない笑みを浮かべた。
『申し子は卵と違って、私に魅了される事はない。……だから仕方が無いね』
小さくて可愛い幼子は、もう居ない。 瞭に対する認識をいい加減改める時が来たのだろう。
『でも瞭』
出来ればいつまでも子供のままでいて欲しかったと、整理のつかない感情に、精神が揺れる。
『ああ――私はこんなにも欲張りだ』
誰からも好かれたい、そんな考えは持ってはいけない。 申し子は契約の破棄すら、可能なのだから。
『皓……恭』
閉じた瞼に鮮やかに浮かぶ二人の姿に。 ――まだ大丈夫。私は耐えられる――
「ね……眠れない。何故だ?」
堂々巡りの思考が、穏やかな睡眠の邪魔をするのか。
何か安眠の手助けになるものはないかと、暗闇で眼を見開いたまま、遙は周囲を見渡した。
『あれは酒、か?』
確か皓か恭が、眠れない晩には少量の酒を飲むと良い、と言っていた覚えが有る。
迷いも無く引き寄せた瓶の中身は、甘く美味しそうな匂いが漂って、嫌な感じはしなかった。
大きい瓶なので、少し貰っても構わないだろうと飲んだ一口は、舌に妙な刺激こそ有ったものの、遙の好みの味だった。
「美味しい」
それからついつい手が止まらなくなって……そして。
……何故か朝から、頭が痛い? いつの間に眠ってしまったのか、記憶にないのは何故なのだろう?
「私は何を――」
「目が覚めましたか?」
思わず漏らした呟きに、後方から慣れた声が返って、遙は顔を綻ばせた。
「瞭? 帰ったのか!」
「遙、大人しくした方が貴女の為ですよ」
瞭の言葉に怪訝な思いを抱くまでもなく、勢い良く振り返った遙を襲う、猛烈な頭痛。 それが、いわゆる二日酔いだと言うことに、知識のない遙は気付かない。
「なっ?!」
「……やっぱりあれで酔ったんですね、遙」
溜息と共に意味の解らない独り言を呟きながら、瞭が手にした何かを乱暴に差し出した。
「これは?」
仄かな湯気をたてた薬湯の臭いに、遙が整った眉根を寄せると、瞭は有無を言わせず器を押しつけ、声を低めた。
「頭痛によく効きますから、飲んで下さい」
「もし嫌だと言ったら?」
私が大の薬湯嫌いなのは、お前も知っているだろう? 続けた遙の言葉に、瞭は一層感情のこもらない無機質な声音で脅すように答えた。
「無理矢理に飲ますだけですが」
瞭から微かな怒りの波動を感じて、遙は渋々薬湯の器を受け取ると、一息に飲み干した。
「朝から何をそんなに怒っているんだ、瞭は?」
疲れているのかと、器を返しながら重ねた言葉に、瞭は大袈裟な溜め息を零して見せる。
「昨夜貴女が、私が置いておいた緑の瓶の中身を、全部飲んだからです」
「そんな事は無い。少し貰っただけだ」
瞭の一方的な言い分に、即座に強く言い返した声は、脳内を反響し、頭痛となって遙に跳ね返る。
「確認しましたが、瓶の中は空でした。遙が患っている症状は、その中身の所為ですよ」
「……」
『割れるような頭痛が、あんなに美味しかった飲み物の副作用だったとは、知らなかった』
瞭は普段から嘘や冗談を気軽に口にする性格ではないから、多分本当の事なのだろう。
確かな記憶が残っていないので、遙には何とも言えないが、
『成る程、瞭は大切にしていた酒を全部飲まれたから、機嫌が悪かったのか』と結論付けて。
――しかし記憶障害までもたらす危険な飲み物を、人間は何故飲みたがるのだろう?
首を傾げながら、そう瞭に質問しようとして、結局遙は言葉を発する事なく黙り込んだ。
答えを聞いたところで所詮、理解出来ないに違いない問いに、要らぬ頭痛を誘う必要はない。
「瞭……」
「もう少し眠ると良いですよ。次に目が覚めた時には、恐らく頭痛も取れていますから」
詫びを含んだ呼びかけに、いつもの優しい表情を取り戻した瞭が、再びゆっくりと遙を寝台に寝かし付ける。
「瞭は、寝ないのか?」
「私は、隣で報告書でも作成しますよ」
「だがお前も昨夜は余り眠ってないのだろう。久しぶりに私と一緒に朝寝坊をしてみないか?」
言葉上はあくまでも問いかけで。 だが寂しいのだと、上目遣いに訴える遙に、瞭はしばし考える。
「そうですね。……たまには良いかも知れません」
微笑みを交えて告げられた瞭の言葉に、遙の表情が得意げに変わる。 瞭が子供の頃と同じ様に、直ぐ傍らをポンポンと叩いて、ここに入れと促した。
「……ったく子供じゃないんですがね」
ぼやきながら寝台に潜り込む瞭に、遙は無視を決め込むと、代わりに腕枕を要求した。 薬湯が効いたのか、程なくして遙の規則的な寝息を耳にし、瞭も眠りに誘われる。
太陽はさほど高くなく、差し込む光は柔らかい。
周囲の静けさに誘われて、瞭は小さく欠伸を噛み殺すと遙を抱えたまま、何時の間にか深い眠りに落ちて行った。