霧の町の少年
霧深い町の中。
夜をガス灯が仄かに照らす。
一人の男性が道を歩いていた。
スーツにコートを羽織り、帽子を目深に被っている。右腕につけた時計を確認すると、その足は速くなった。
「くそっ、こんな日になんでタクシーが無いんだ!」
いつもならまだ何台か車が走っている時間なのに、車道には影すらない。
男の額に汗が滲んだ。
「お兄さん、お困りかい?」
それは、道脇からの誘いだった。
家と家との境目、裏路地の入り口に、声の主は立っていた。
「場所によっては、近道を教えられるかもしれない」
体躯はひどく小さく、華奢で、触れれば壊れてしまいそうな危うさまで感じさせるのに、その高い声は自信と自尊を醸している。
「……本当にか?」
「疑っても仕方ない。目的地が分かれば、あるいは」
男は急いでいた。この約束に遅れれば文字通り首が飛ぶのだから。
「よし、目的地はな……」
目的地を伝えると、少年は「ついてきて」と言って裏路地を早歩きで進んでいった。
迷いなく次々に折れ曲がる裏路地を進む中、
「おい」
「ん?」
男が少年を呼びつけた。少年は足を止めることなく返答する。
「お前、俺を殺したりしないだろうな?」
「……なんで?」
「お前がサイレントだっていう可能性があるからだ」
「サイレント、ねぇ」
サイレントというのは、最近巷を騒がせている通り魔である。音もなく人を殺し、音もなく去ることからその名が付いた。故にその容貌を知るものはおらず、現在似顔絵なしで指名手配されるという異例の事態を引き起こしている。
「人を殺すことなんて、とても簡単だからねぇ」
「なに?」
男の背筋に冷たい汗が流れる。
「でも僕は、人を殺すことに興味はないよ」
そうか、と言い捨てて、少し大きく息を吐いた。
「儚い命を逞しく燃やしている様子を見ている方が、幾分楽しいと僕は思うのさ」
身の丈に合わないことを言う子供だ、と、男は少年を見下ろしていた。
「さぁ、着いたよ」
言われて辺りを見回すと、いつの間にか目的の建物の前に来ていた。
「助かったよ、少年。お礼をしよう」
「いいよいいよ。それより早く行った方がいいんでしょ?」
「……そうだね。お言葉に甘えるよ」
無駄金を使わずに済んだ。そう思いながら男はドアの取っ手を掴んだ。
「あ、お兄さん。最後に一つだけ」
少年が何か言ってきた。
男は首だけ向けて、「なんだい?」と問いかける。
「サイレントは、悪い人のところに現れるらしいから、お兄さんは悪いこと、しないようにね」
……。
「わかったよ、助言ありがとう。もう夜も遅い。君も気を付けて帰るんだよ」
「うん。じゃあね!」
元気よく霧の中に消えていく少年の背を、影がなくなるまで男は見送った。額の汗をハンカチで拭ってから、男はドアの取っ手を引いた。