01・上司と部下
夜会ほどではない。けれどほんの少しおしゃれをして、キャロルは店へとやってきた。
派遣先の一件が片付き、しばらく振りの休暇をおもいっきり楽しんでいたときだ。残念なことに上司からの呼び出しがかかり、キャロルは準備をしてここに来ることになった。
休みは嬉しいのだが、普段の仕事着でもあるメイド服を着ていないだけで落ち着けないという。いかんともし難い状況だったので、むしろちょうどよかったのだろうけど……。
職業病ってこう言うことなのかしら? キャロルは胸のうちで、こっそりため息をつく。
もっともあの屋敷自体がメイドを必要としていないのだから、仕事着がメイド服というのもおかしい。
それになにより、キャロルはメイドとして雇われたわけじゃない。やっていることはメイドと変わらないが、あくまでも“元”メイドの、事務員だ。――特殊業務専門の。
ここは王都、女王陛下のお膝元。支配階級である貴族の煌びやかな生活と、労働階級の汗が流れる生活が混じる場所。静寂と喧騒に溢れ、人は絶えず動き、留まることなく時間は進む。
鉄馬車とまで言われた自動車が走る通りには、二頭立ての馬車の、黒馬が蹄の音を立てその存在を主張していた。
国の中心、王都での生活は楽じゃない。仕事は選んでいられない。選り好みができるほど、自分が有能であるとキャロルは思っていないのだから。
元が付いても、キャロルのメイドとしての能力に問題ない。名家に代々仕える使用人の一族として、キャロルはその家名に恥ずかしくないように生きてきたのだから。
――だが時として、忠実な使用人といえども、主人の不興をかってでも諌めなければならないこともある。
そして以前の職場から離れ、親友に頼み込んで部屋をシェアしてもらい職を探す。望んで離れたわけではないと、親友にだけは事情を話したところ、その親友が烈火の如く怒ってくれたことが、キャロルの溜飲を大いに下げた。
早く見つかるとは思っていなかった職探しは、流れた家名の噂で思った以上に難航していた。いつまでも親友のところにいるわけにもいかない。気持ちは焦るばかりで、月日だけが過ぎ――
「君が、キャロル・ヴィオリス? 使用人一族、ヴィオリス家の」
四ヵ月後、あの男に出会った。
ふてぶてしい顔は嫌味なくらい綺麗で、面白い物を見つけたような目は、支配階級者に多い無邪気な残酷さに溢れていた。
丁寧になめされた皮手袋が包む手を、男はキャロルに伸ばし――
あれほど難航していた職探しは、なんともあっけなく、そして奇妙な終わり方を迎えた。
強くなってきた日差しを遮るように、蔦の絡まるアーチを抜ければ、少し抑えた臙脂色の屋根が印象的な建物が現れた。
自分と同じ方向に向かう人はいないらしい。誰ともすれ違うことなく、すんなりと店の入り口へ来てしまった。あれだけここに来る前に、間違いがないように確認してきたのに、まったく披露する場がなかった。あったとしたらそれは車の中だが、非常に残念なことに、その運転手は同じ職場の仲間である。
いつもは結い上げている髪も下ろし、ゆるい三つ編みに。時間をかけて洗い梳かしたので、指どおり良くまとまった。キャロルの癖のある黒みがかった茶髪は、すぐに絡まってしまうのでこの作業は毎日の苦行だ。
着ているのは恐ろしいほど肌触りのいい服で、しかもオーダーメイドでの仕立て。上下とも同じ若草色の2ピースのドレスに、小さめの帽子を頭に飾る。
この手の服は、何度袖を通しても借り物な気がして落ち着かない。全てが上司からの支給品で、しかも返品不要なのだから気前がいい。それとも成金貴族の金の使い方とは、こう言うものなのだろうか?
店のドアガラスに映りこんだ自分の顔に、キャロルは笑顔を貼り付ける。あまり手を入れないまつ毛も今日はくるりとカールをさせて、いつもより大きく見える紅茶色の瞳に、小さな唇に薄く引いた口紅。
確かに、これは仕事でするメイクではないのだけれど、必要とあればフルに駆使して化けるのだ。それが楽しくないと言ったら嘘になる。
特に同僚とどう化けるか試すときは、はしゃいでしまうぐらいには。ただし体形補正の服選びのときは、気づきたくない現実にこっそり涙を流しながら。
……今はあくまでもオフ。恋人と待ち合わせをしている令嬢の体を装う。たおやかで、繊細で、静かに微笑み品良く歩く。
けしてお客さまの前で無愛想な顔をしてはいけない。幼い頃から使用人として仕えていた家で、教えられたことだ。それが効を奏したのか、十六歳の時にキャロルは客間メイドになっていた。
貴族階級の客人のために作法と言葉遣いを覚えた、それが今の職場で絶大な効果をもつとは……人生とはどう転がるか分からないわと、キャロルは本気で思っている。
ドアベルの音を鳴らしながら中に入れば、ぴしりと糊のきいた、汚れのない白いシャツを身に纏うウエイターがキャロルに笑顔を向ける。
ダークブラウンの落ち着いた雰囲気の店内。昼間だからだろうか、店内の客席はまばらだ。
愛想のいいウエイターに、待ち合わせの旨を伝えると、どうぞこちらへと案内される。一番多く客がいるのが、店が売りとしているフラワーガーデンに続くテラス席だ。
食事を終えたらしい恋人だろうか? 腕を絡ませた男女が二組、庭園を散策している。
そんな花に溢れた庭園が見える店内の、他の客達から離れた席に、待ち合わせ相手の男はいた。実につまらなそうに、その光景を眺めている。
「待たせてしまったかしら? ジャック」
ウエイターが去ってからキャロルが声をかけると、まるで今気が付いたと言わんばかりにジャックはこちらに振り向く。キャロルを案内してきたウエイター以上に愛想の良さそうな笑みを浮かべ、慣れた動作で向かいの席の椅子を引く。
その無駄のない自然な動きは、間違いなく上流階級出身者のもの。
「いいや。フラワーガーデンを眺めていたから、退屈しなかった」
今しがた、もの凄くつまらなそうな顔でいた人間のセリフではない気がする。
からかうようにキャロルを見つめる、澄んだ緑色の瞳。窓から差し込む日差しに輝く、色素の薄い金髪。北の地方特有の白い肌は、世の女性を敵に回しそうなくらい綺麗だ。
ぜひとも肌のお手入れ方法を教えて欲しいと、キャロルは恨めしく思う。私は毎晩あんなに頑張っているのに!
「こういう時は、もっと気の利いたセリフを言うものだ思っていたわ」
「これは失礼。君がいつ来るのだろうかと、今か今かと待ちわびて全く落ち着けなかったよ」
「……まあ嬉しい」
「キャロル、君もまったく感情がこもっていないじゃないか」
二人とも、ありえない位の棒読みだ。舞台ならば間違いなく金を返せと言われるくらいの。ただここはまだ、キャロルたちの『舞台』ではないのだから、このくらいのお遊びは見逃して欲しい。
クスクスと笑いを堪えるジャックを、キャロルは半眼になって睨む。
ジャックのすっと通った鼻筋に、人懐っこさを与えるやや垂れた目元。美麗な顔は、良く言えば涼しげな、悪く言えば腹の中で何を考えているか判らない部類のもので。つまるところ、ジャックは上司としては頼れる男だが、一個人としてみると不安を抱かずにはいられないような存在だった。
事実、彼のその名は偽名だ。
――ジャック・スミス。
よくある名前に、よくある家名。スミス伯爵家当主で、キャロルの上司。
偽名が服を着て歩いているようだわ。逆にここまで堂々としていると、いっそ清々しい。
昼間だというのに白ワインを嗜む上司を眺めつつキャロルは思う。
偽名で、はたして爵位が取れるものなのだろうか? と。
「さて、キャロル。美味しいランチでも食べながら、仕事の話をしようじゃないか」
ああ、そうだった。彼はそういうタイプだった。
きっと空気を読まない男とは、彼のような人を指すのだろう。おそらくこの上司、読んだ空気をあえて読まなかったことにした。
オフのハズなのに。美味しい食事を、『見た目だけは』綺麗な上司と楽しく(楽しめるかは分からないが)食べるはずだったのに……。
まあ、何の理由もなくこの上司が呼び出すことはないと知っているだけに、期待のしようもないのだけれど。
運ばれてきた果実酒に、キャロルは諦めたように口を付けた。
グラスの中身は、今のキャロルの気分を表したかのごとく、酸味の強い味だった。
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