第一話 ペテン師を飼う
五月の青い風を置き去りにして、自転車は颯爽と駆け抜ける。
手には地面を蹴る、心地の良い振動。
海の香りを運ぶ春の風は、これから梅雨を連れてくるとは思えないほど、爽やかに僕の鼻先を掠めていく。
2つほどの長い坂を上り下りして、平坦な道路を突っ切ると、海の見えるノスタルジックな風景は、一気に都会の喧噪へと変貌する。
自宅から学園までは、自転車で約20分。
高い塀に囲まれた中に、白くてデカいそれはそびえ建っていた。
珀桜学園―――。総生徒数約1000人。広大な敷地の中には、校舎とは別に部活棟や寮などの施設が複数あり、生徒の自主性を重んじる今時珍しい校風を持つ学園。
と、聞いていた。
何気にすごい学校なんじゃね? という感情を、実物を目撃するまで抱かなかった僕は、口をポカンと開けたまま立ち尽くしてしまう。
もう何度目になるのか分からない、親の仕事の都合上での転校であるため、学園情報など一切の興味も持たなかった。
学園の手続きも、親に勝手に進めてもらったし、学園については親から聞いた些細なことしか知らない。
まあ、興味を示さなかった僕も悪いけど、さすがに広くないか。この学園。
転校を繰り返した学校の中で、群を抜いてナンバーワンだ。
僕の想像を遙かに超えたスケールに、今すぐ帰りたい気分に陥る。
しかし、転校初日にばっくれるのは、手続きを進めてくれた父親にも、期待だか希望だかを抱いて待っているかもしれない、担任の先生にも申し訳が立たない。
生徒が校門を次々とくぐり、まだ桜の色香が残る並木道を歩いて行く。
僕は深くため息を吐くと、駐輪場に向けて、自転車を押し始めた。
ロードローラーが一台丸々通るんじゃないかと思うほどの、広さを有する、綺麗な廊下をまっすぐ行ったところに職員室はあった。
学園内はホームルーム前だからか、静まり返っている。
僕が職員室の扉にあるガラスから顔を覗かせると、一人の女教師と目が合う。ジャージに身を包んだ彼女は、ぱあっと表情を明るくすると、こちらへ走ってくる。
多分この人が、僕の担任だ。なんか面倒臭そうな先生だな。
彼女は、扉を勢いよく開けて、元気良くこう言い放つ。
「グットモーニンっ! 君が、天使 倫平くんかな?」
ほらドンピシャ、面倒くせっ。
という感情を顔に出すことなく、にこりとした表情を僕は作る。
「はい。今日からお世話になります。天使 倫平です。よろしくお願いします」
と言って、一礼。
何のことはない。慣れ親しんだ、スタンダードな挨拶。
「やっぱり、そうなんだね。私は担任で現代国語を教えてる、鈴木 佳奈だよ。こちらこそ、よろしくっ!」
そう言って左手を差し出してくる。
……ああ、握手か。いちいち、暑苦しい。本当に現国担当かよ。絶対体育会系だろ。ジャージだし。
僕は笑みを崩さないまま、浅めに握手をする。
ショートカットに大きめの瞳、なるほど、取っ付きやすそうなイメージを抱ける。
「あっ」と言い、先生は僕の首元に手を伸ばす。
「ネクタイ曲がってるぞ?」
先生は、上目遣いで僕のネクタイを直し始める。
多分、普通の男子生徒なら、ころっと落ちてしまいそうな破壊力は秘めているシチュエーション。
この天然、これまで何人の純情少年たちを落としてきたんだ? 侮れない。
先生はネクタイを直して、満足げに微笑む。
「ありがとうございます」
「気にするな、少年よ。ネクタイは鏡を見てから、ちゃんと着けるんだぞ?」
「……はい、気をつけます」
「うむ、よろしい。それにしても、天使くんって……」
そう言いながら、僕の顔をのぞき込んで来る先生。
僕の顔に何かついているだろうか。
まさかとは思うが、一五年かけて作り上げた、完璧な作り笑顔が見抜かれたか?
「んー、やっぱり……童顔が抜けてないよねっ。天使って名字だけに、なんか可愛い顔してるっ。女装とか似合いそうだよっ!」
そして、親指を突き立てる。
……それは褒めてるのか? 貶してるのか? それに名字は関係ないでしょ。
男に向かってなんて失礼なことを言いやがる
ていうか、声がデカいよ。ほら、他の先生たちの視線が集まってきてるし。
確かに昔は、女の子みたいと、からかわれることもあったけど、今は普通の男子高校生に見えるはず。
……見えるよね?
「は、ははっ、からかわないでくださいよ。先生もすごくお美しいですよ? 先生の彼氏が羨ましいくらいです」
と腹癒せに常套句を言ってみたりしたら、容易に引っかかりそ―――。
「な、ななな、なに言ってるのよっ。年上をからかったらダメなんだからっ! そ、それに彼氏なんてまだ……」
……思いっきり、引っかかった。
先生は顔を赤くし、体をモジモジさせながら、ぶつぶつ呟いている。
その照れている姿も、男心をくすぐったりするのかもしれない。
ただ一つ分かったことは、この人を恋愛関連でからかうと面白そうということ。
僕は職員室の時計を見やる。
まあ、ファーストコンタクトはこのくらいで良いだろう。
「先生、もうそろそろ、ホームルームが始まるのでは?」
はっと、我に返った先生は、慌てて自分のデスクに出席簿を取りに行く。
取り乱したところを見られて恥ずかしいのか、気まずそうに僕を見て、こう言うのだ。
「……じゃあ、教室行こっか」
* * *
自己紹介なんてものは、自分を簡易的に説明するものであり、名前や好きなものを述べるだけの単なる形上の儀式だ。
しかし、転校というイベントの中では、かなり重要なターニングポイントである。
この自己紹介のクオリティによって、この先その人間に関わりたいかどうかがハッキリと決まってしまう。
僕もアマチュア転校生だった頃は、よく試行錯誤したものだ。
だけど、数々の転校、修羅場をかいくぐってきた僕は、もはやアマチュアではない。
プロ転校生だ。
……ダメだな、この学園のインパクトに押されて、思考がアレな痛い人みたいになってる。
僕は『1-D』と書かれた教室の外で待たされる中、そんなくだらないことを考えていた。
先生はというと、「さっきは恥ずかしいところ見られたから、汚名挽回だよっ! 教室の空気は温めておくから、首を温めて待っててっ!」という現国教師にあるまじき、失言を数々と残して教室に入っていった。
汚名を挽回してどうする。あと、『首を長くして待つ』と『肩を温める』という言葉が、錬金されてキメラが出来上がっちゃってるけど、大丈夫か?
……本当に現国担当かよ。
先生への呆れで、目眩がした。
教室からは、先生と生徒の声が漏れてきている。
「今日はみんなの新しいお友達を運んで来たよっ!」
『先生、運んで来たという言葉は、どうかと思います』
「え? そう? じゃあ・・・・・・誘拐してきたよっ!」
なんでそうなるっ!
ていうか、誰だ、あの人に教員免許許可した人。
「細かいことは気にするもんじゃないぞ? あー、そうそう、転校生を連れてきたんだよ」
転校生というワードに、教室中から歓喜の声が鳴り響いてくる。
おいおい、まずいな、この展開。
まさか、転校生でこんなに盛り上がるクラスがあるなんて。
僕の額をじわじわと嫌な予感がよぎっていく。
『こんな時期に転校生ですか?』
「そだよ。親御さんの事情かな」
『男の子ですか? 女の子ですか?』
「うーん、男の子だね」
『イケメンですか?』
「ええと、うーんと、イケメンってよりは可愛い系かな?」
『攻めですか? 受けですか?』
「受けだよっ!」
先生と生徒の問答で、各々(おのおの)の想像上の僕が、出来上がっていき、教室はどんどんヒートアップしていく。
温めるなんてぬるいもんじゃないぞ、これ。
しかも、嘘を吐かないという先生のイメージが、生徒たちをさらに煽っていくため、たちが悪い。
ていうか、最後の問答はなんの話?
「まあ、質問はこのくらいで、そろそろ外で待たせてるのもなんだから、紹介するよ」
先生の足音が近づいてくる。
な、なに? ここでバトンパスだと?
結局最後まで盛り上がりっぱなしで、僕のハードルも上がりっぱなしなんだけど。
教室の扉が開く。
先生は親指を突き立てながら歯を見せ、「空気は温めておいたぜ」的なウィンク。
熱いよ、沸騰させすぎだよ。
僕は大きく息を吐く。
……仕方ない。やるしかないか。
僕は意を決して、大きく息を吸うと、チョークの匂いで緊張を紛らわした。
人の印象というのは、大体八割が第一印象で決まるという。
初めて会う人には好印象を与えるような、服装や言動を心がけなければいけない。
高校入試時の面接練習でも、よく言われることである。まあ、そんなことは小学六年生くらいに、僕はすでに理解していた。
確かにその通りなのだ。
第一印象が悪い人とは、その後の関係性というのは大きく違ってくる。
折り紙の最初の一線を合わせずに折るのと、きっちり合わせて折るのとでは、完成品の出来が全く違ってくるようなもの。
そこで第一印象を良くするための『武器』というものを人は皆、平等に持っていたりする。
その武器とは、『笑顔』。
この笑顔というのは非常に万能な武器だ。外見で簡単に伝わる感情表現。
それ故に扱いが非常に困難である。
人の感情というものは顔に出やすく、作っているものかどうかは案外感じ取られやすい。
そこで笑顔を作る上で、大事なことが三つある。
まず一つ目は、表情。
口角や目尻を上げること、頬をしっかり左右バランスよく上げること。
この表情をしっかり作れることが、最初の段階であり、一番の土台になる。
次に二つ目は、気持ち。
心から楽しいとか嬉しいとかの感情がないと、それはそのままの形で表情に反映されてしまう。
自分は笑っているように思っていても、相手が持つ印象は、無理しているような苦しそうな、そんな印象になってしまうのだ。
そして、三つ目に目線。
笑いかけるときは、絶対に相手の目を見ること。
これが案外難しい。あんまり見つめ続けると相手に違和感を与えてしまうから。
相手の目元から口元の間で、時折目線を動かすのがポイント。
この三つをしっかり分かった上で作る笑顔は、必ずと言っていいほど、相手に好印象を与える。特に三つ目の目線はマンツーマンの時、切り札になる。
当然、これを使って僕は、自己紹介をした。
このクラスに入った時に、最初に感じたのは女子の比率が高いということ。
男子は僕を合わせても、一〇人いくかいかないかというくらいの人数しかいなかった。
ここですでに、作戦は立てられた。
生徒たちの何とも言いがたい空気を肌で感じたときは、罪悪感のあまりダッシュで逃げ出したくて堪らなかったけど、僕の口が回り始めたら、そんな突き刺さるような空気も和らいでいった。
何度も転校を繰り返していること、親が父親しかいないこと。
まずこの二つで、地盤を固める。
それから、料理などの女子には取っ付きやすそうで、比較的男子には意外な趣味を挙げる。
そして、「このクラスでは、一生残るような思い出を作れたら良いなと思っています」という一言で締める。
安い不幸自慢で同情を誘い、親しみやすい一面を披露、トドメの一言で同情を誘った人の良心をえぐる。
我ながらえげつないほどの、人の優しさにつけ込んだ、話の構成。
―――ホント僕は、バカみたいな……ペテン師だ。
* * *
四時限目のチャイムが、数学教師の口から出る電波を遮断する。
僕はうな垂れて、机に塞ぎ込んだ。
・・・・・・やっと、昼休みか。
なんで数学なんてものが、この世に存在するのかが理解できない。
数学なんて、足し算、引き算、かけ算、割り算の四天王さえ覚えていれば、いいじゃないか。まあ、それは数学とは言わないだろうけど。どれがYでどれがXかなんてどうでもいいし、人生じゃ使わないじゃん。いっそのこと、数学を専門教科にすれば、もっと勉強で苦しむ清き学生らがいなくなると思うんだけど、どう思う?
と、行く当てのない馬鹿馬鹿しくどうしようもない屁理屈を「頭の悪いお前が悪い」と自己完結する。
虚しくて、涙が出そうだ。
ていうか、この学校のレベルが僕には少し高いと思うんだよね。
勉強について行けないのはいつものことだけど、今回はいつものそれとは違う。
・・・・・・全く手も足も出ないのだ。
転校生でクラス順位最下位って、結構格好悪いんだよね。
中学二年生の転校して間もない中間テストで、最下位を叩き出したときの、周りの氷塊を投げつけるような冷たく痛い哀れみの視線は、今でもトラウマである。
五月なのになんか肌寒くなってきた。
周りの生徒は皆、机を囲んで弁当を広げている。
男子も一目散に購買へと走って行ったようだ。
僕も購買に行くとしよう。
「あれ? 天使くんもパン買いに行くの?」
購買に行こうと立ち上がった時、一人の女子生徒が話しかけてきた。
メガネでお下げで広いおでこをさらした、その女子生徒はみんなから委員長と呼ばれている女の子だ。
このクラスにはクラス委員長が別にいるのだけど、それを忘れさせるほどの圧倒的存在感を放つ、人物。
成績良し、先生からの信頼良し、プリントを率先して配るのも、率先して発表するのも、率先して司会をやるのも、この人。
見た目からもそうだが、この人は委員長をやるためだけに生まれてきたんじゃないかと思うほどの、委員長肌。
きっとこの人の家系はみんな視力0.1以下の代々メガネ装備一族に違いない。
・・・・・・八割方、僕の想像で、単なる失礼な偏見です。
みんなから委員長と呼ばれているのと、別のクラス委員長がいるのは本当のこと。
話をするのはこれが初めてだ。
「ん? 天使くん? 聞いてる?」
「え、ああ、ごめん。考え事してた。・・・・・・えっと、なんだっけ?」
「だから、パン買いに行くのって、聞いてるんだけど」
「う、うん。そうだけど?」
「へえ、そうなの。料理するって言ってたから、てっきりお弁当だと思ってた」
「あー・・・・・・」
そういえば、そんなこと口走ってたな僕。
料理はできないわけでもないけど、得意ってこともない。
別にできないわけじゃないから、嘘ついてることにもならないし。
適当に誤魔化すか。
「引っ越しの片付けとかで、今日は作る余裕がなかったんだよ」
「へえ、そうなんだ。引っ越しも大変なんだね」
「まあね」
とりあえず、誤魔化せたか。
でも、言葉に現実を被せるためにも、たまには作らないいけないな。
「そういえば、勉強はついていけてるの?」
「え? ああ、うん、そうだね、なんとか」
「そうなんだ」
ここは別にハッタリ咬まさなくていいだろ、僕。
素直について行けないと言えよ。どうせ、後でばれるんだしさ。
まあ、いいや。折角話しかけてもらえたんだし、購買の場所でも聞いておくかな。
「あのさ、購買ってどこにあるの? 一階?」
「ん? ああ、そうよね。天使くんは来たばかりだから、知らないのよね」
委員長はメガネを中指で押し上げる。
ホントに現実でこんな仕草する人いるんだ。
「この学園って、元々女子校で去年から共学になったらしいの。だから、パン屋さんなんて来なかったらしいのよね」
なるほど、だから、このクラスも女子の比率が高いのか。
って、ちょっと待てよ。パン屋さん?
「購買じゃないの?」
「そうよ? ほら、校門の前にワゴンがあるでしょ?」
委員長の指さす方を見やる。
三階の窓からしっかりと見える、見るからにパンを売ってそうなワゴンとそれに群がる大勢の生徒。
まるで、人がゴミのようだ。おっと、失言。
これじゃあ、パンもすぐに売り切れるだろうな。
「ほら、早く行かないとパン売り切れちゃうよ?」
「あー、うん。そうだね」
僕は委員長にお礼を言うと、財布を持ったか確認し、急に押し寄せた気怠さと一緒に重たい足を持ち上げる。
すると、背中の方から委員長の声が僕を再び引き留める。
「パン買ってきたら、一緒に私たちと食べない?」
「え・・・・・・」
視線を隣に移すと、二人の女子が僕に微笑んでいた。
なんと、お昼のお誘いだ。まあ、返答は決まっているけど。
僕は一度考えるフリをして、困ったような笑顔を作る。
「ごめん、この後、先生に呼ばれてるんだよね。待たせるのも何だから、また今度、お願いするよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、仕方ないね。また今度だね」
そう言って委員長は快く手を振ってくれた。
僕はもう一度謝ると、教室を後にする。
・・・・・・委員長には悪いけど、この距離を縮める気は、僕にはない。
人間と人間の距離感というのは、非常に大事だ。
これは僕の短い人生で得た、一番の教訓。
人との距離感を正確に計る『ものさし』があれば、どれだけ楽だろうと思っていた。
そして、僕は、いつの間にか手に入れてしまっていた。
距離感を正確に計るものさしなんて大層なものではないけど、僕にはその距離を感覚である程度見極めることができる。
別にこんなものさし、欲しくて手に入れた訳じゃない。
でも、まるで四季のように移り変わる人間関係の中で、このものさしを手にすることは必然のことだった。
それと、僕の中に―――ペテン師を飼うことも。
感想やアドバイス、誤字・脱字などの指摘お願いします。