第二十九話:弱すぎて反吐が出る
ヒトと魔物の関係、その現実の一つの話。
この世界において誰も叶わぬ絶対強者にして各種族の頂点に立つ魔王。
しかし、その魔王に、果敢に立ち向かい、戦う事ができる魔物がいる。
本来なら戦いにすらならないはずの強さの隔たりを超えて、魔王に相対する魔物。
何かの間違いの様な強さを携え、理不尽を覆さんとする者達。
ヒトはそんな魔物を畏敬を込めて、こう呼ぶ。
勇者、と──。
「なるほど、こりゃ確かに魔王とやりあえそうだな……!」
こちらを完全に圧倒する程に膨れ上がった、もはや殺気と呼ぶのも生温い程の威圧感を纏った四本腕の一つ目巨人、勇者、キラージャイアントは凶悪な笑みを浮かべていた。
嫌でもあの美青年の時を思い出してしまう程の強大な気配に心臓の鼓動が早くなる。
言葉では強がったが、はっきりと分かってしまう。
今の俺じゃ、生存本能を使おうが、親竜の助力があろうが勝てないと。
脳が、身体が今すぐ逃げろと危険を訴えてくる。
『早く逃げるぞナオト!! 相手はストームドラゴンなんかの比じゃない!! 万に一つの勝ち目もないぞ!!』
『分かってる』
しかし、まだ引く訳にいかない。
今、引けば俺に向いている注意がまたミニや親竜に向いてしまうかもしれない。
そうなればこの親子は終わりだ。
そんなの認められるか。
「親竜、まだ飛べるか?」
〔……ええ、何とか〕
俺の囁きに少し間をおいて、親竜は肯定する。
ちらりと様子を横目で見ると、未だ満身創痍ではあるが、傷は治りつつあるようだった。
その身に流れる竜の血の効果だろう。
「偉そうに啖呵切っておいて悪いが、アレを倒すのはちょっと厳しい。だから俺が時間を稼ぐ。その間にミニを連れて、飛んで逃げろ」
〔バカな! そんな事を貴方にさせられる訳……!〕
「いいからさっさとしろ。奴が動く……!?」
キラージャイアントはこちらに近づきもせず、その場で拳を構えていた。
攻撃が来る。
それを理解した瞬間、全身が総毛立つのを感じた。
間髪入れず、アルベルトが隠れている曲がり角へ全速力で走り出す。
かかる負荷に耐えきれず身体中から血が噴き出し始めるが構っている余裕はない。
俺の持つあらゆる感覚が今、大音量で警鐘を鳴らしていた。
『ナオト、一体何を!?』
困惑するアルベルトを抱きしめる様に覆いかぶさる。
次の瞬間、世界が激震した。
全てを押し潰す様な衝撃が全身を駆け抜ける。
身体がその場から吹き飛びそうになるが、腕の中の存在の為に渾身の力で耐える。
粉々に砕けそうな激痛に逆らいながら、意識だけは失わない様にしながら、全てが過ぎ去るのを待った。
そして感じるものが熱い血液に濡れる感覚と気を抜けば悲鳴を上げそうになる苦痛だけになった時、自分が岩石の山の中に埋まっている事に気づいた。
身体が上げる悲鳴を意思の力で抑えつけて、残る力を振り絞り、飛び起きる勢いで上に積もっていた岩石を砕き割る。
差す光に一瞬、目が眩む。
頭上には雲一つない青空が広がっていた。
「マジ、かよ……」
洞窟は完全に消し飛んでいた。
草花のベッドも、奥に続く通路も、何もかもが無くなっていた。
あるのはその残骸だろう岩石と土塊の山だけ。
あの巨人と獣人達の姿も近くには見えなかったのは不幸中の幸いだった。
「アルベルトっ!」
信じられない光景に絶句した後、自身の下にいる身を挺して守ったアルベルトの存在を思い出す。
アルベルトは目を閉じて黙ったままだった。
しかし、傷も所々に小さな擦り傷があるだけで特に目立った外傷もない。
瞬時にその胸に耳を当てる。
心臓の鼓動が聞こえてきた。
無事に生きている。
どうやら気を失っているだけの様だった。
〔無事、でした、か〕
途切れ途切れの小さい声が耳に入った。
目の前の岩石の山が粉々に砕け散り、親竜の姿が現れる。
その身体は満身創痍を疾うに過ぎて、もはや瀕死の体だった。
顔は半分潰れ、全身の鱗は見るも無残に剝がれ落ち、尾も先端の方は千切れ、右の翼に至っては完全に折れてしまっており、二度と飛べない事は明白だった。
〔ママぁ、ママぁ!〕
親竜の下には目から大粒の涙をボロボロと零して泣いているミニがいた。
特に傷ついている様子はなく、無事なようだ。
どうしていいか分からず、ただ母親の名前を呼び続ける事しかできないのだろう。
「悪い……、あんな啖呵、切っといて、この様だ」
〔いえ、いいんです。私は貴方が、この子を守って、くれただけで、十分、嬉しかった〕
息も絶え絶えに、会話をしつつ、親竜は瀕死の身体を引きずって、俺の前に出た。
〔だから、貴方になら、任せられる〕
「おい、何を……!」
ふと親竜の身体の向こう側にあの獣人と巨人の姿が見えた。
こちらに向かって来ている様だ。
それを認めた瞬間、親竜の身体から強風が吹き上がった。
凄まじい風の奔流が親竜を中心に渦巻き始める。
同時に俺とアルベルトとミニの身体が宙に浮く。
〔この子の事、よろしくお願い、します〕
〔嘘っ、嫌、嫌だ、ママっ!!〕
「よせ、やめろ! こいつ残して逝くつもりか!?」
親竜は何も答えず、迸る風を操り、作った不可視の球体に俺達を包む。
そして目を細めて、ミニを見つめる。
〔強く、生きなさい。貴方はこの私の、竜の、子なのだから〕
〔マ‶マ‶あああぁぁっ!!〕
ミニは泣き叫びながら身体を必死に動かして、球体から逃れようとするが、どうにもならない。
巨人の姿はもうそこまで迫っている。
〔さようなら。私の大切な愛しい子〕
次の瞬間、俺達は凄まじい速度で天高く舞い上がった。
子達が空の彼方へと消えたのを見送った後、ストームドラゴンはついに追いついた巨人と獣人の親子に向き直る。
「ああっ、クソッ、逃げられたか。まさか風竜も無事だとは」
「もうっ、父さんがキラージャイアントに本気で超力無双を使わせなきゃ、洞窟を吹き飛ばさず、見失う事もなかったのに!」
「すまん。まさか伝説の人間が何の抵抗もないどころか、逃げるのは予想外だったよ。少々、過大評価だったな。伝説は所詮、伝説か」
「おまけに竜の子にも逃げられるし」
「すまんすまん。代わりにこのストームドラゴンで我慢してくれるか?」
「……しょうがないなあ」
「よし、キラージャイアント」
ひとしきり獣人の親子は何かを言い争った後、ストームドラゴンへ巨人を差し向けた。
巨人は無言でゆっくりと近づいてくる。
ストームドラゴンは最後の力を振り絞り、嵐の様な風を身に纏う。
きっと天地がひっくり返ろうとも勝てないだろう。
しかし、このままむざむざとやられる訳にはいかない。
竜として、母として、一矢報いなけば気が済まない。
〔来い!! この身を賭けて貴様に一撃与えてくれる!!〕
〔無駄。諦めろ〕
ストームドラゴンは腹の底から全力で咆哮し、荒れ狂う竜巻と化して巨人へ突撃した。
────ああ、そういえば貴方との再戦の約束、もう果たせそうにありませんね。
────申し訳ありません、人間さん。
血飛沫が舞った。
深い森の奥。
そこに存在する陽光を受けて煌めく湖。
そのほとり。
木々が少なく、少し開けたその場所に俺達はいた。
俺達はあの球体に包まれて、空に飛ばされた後、そのまま滑空して空を往き、ここに無事着陸したのだ。
〔うあああああ!! ママああああ!!〕
ミニは空を飛んでいる間も、ここに着いてからも、ずっと母を呼んで泣き続けていた。
大きな瞳からボロボロと涙を零し、喚き続けている。
一応、警戒で付近に危険な存在はいない事は確認したが、それでもここがいつまでも安全である保障はない。
一刻も早く泣き止ませるべきなのだろうが、止める事などできなかった。
「う……ぐ……、ここは?」
ミニの泣き声で目覚めたのか、アルベルトが気が付いた。
すぐに起き上がろうとするが、身体の痛みに顔をしかめた。
その後、ゆっくりと立ち上がり、座り込んだ俺に近づいてくる。
「おい、大丈夫か。全身血濡れじゃないか。早く手当てしないと。ほら、服を脱げ」
言われたままに上の服を脱ぎ、肌を晒す。
血を吸って赤黒く染まった服がずっしりとその重みを伝えてくる。
アルベルトは手早く麻袋から薬と包帯と柔らかい手拭と水入れの応急処置一式を取り出し、手当てを始めた。
「近くに反応がないのを考えると、勇者から逃げ切れた様だが、何があった。何故ミニゴンがいる?」
アルベルトは水で濡らした手拭で血濡れの俺を拭きながら、俺に問う。
「親竜に、助けられた。奴らから逃す為にここまで飛ばしてくれた。俺にミニを託して」
「……そうか」
それだけ言うと、アルベルトは黙って俺の手当を続けた。
血を拭き取り、多少綺麗になった傷だらけの皮膚にくまなく薬を塗り込んでいく。
両者無言の中、ミニの悲痛な泣き声だけが響く。
「……なあ、アルベルト。あれが、当たり前なのか?」
「ああ、大して珍しくもない事だ。毎日、世界のどこかで似た様な事が起こっていると考えても間違いじゃない」
「あいつらは自分達の行いに何の疑問も……」
「持たないさ。魔物は従えるモノ。それが常識。そもそも魔物の感情は従えた時に初めて生まれるモノだと考えられている。野生の魔物は全てが本能で動いているというのが、世の認識。既にヒトと同じ様な心を持っているなんて夢にも思わないだろうさ」
「……何でお前はそれを知ってんだ?」
俺の言葉にアルベルトの手当ての手が一瞬、止まった。
けれども、すぐにまた動き出す。
「以前、たまたま知る機会があった。それだけだ」
それ以上の事を話すつもりはないのか、また黙って俺の手当てに専念し始める。
薬を塗り終えた身体に丁寧に包帯を巻いていく。
また沈黙が続く。
まだミニの泣き声は止まない。
刺す様な声が脳内で反響する。
けれども、俺には何もできない。
何もしてやる事ができない。
無力。
それが今の自分だった。
「……俺は、何もできなかった」
ぽろりと口から言葉が漏れた。
「あんな啖呵切っておいて、守るどころか、その守るべき奴に逆に守られ、命を救われて」
一度漏れてしまえば、もう止まらなかった。
拳を握り締め、濁流の様に溢れる言葉を吐き出し続ける。
「挙句、泣いているガキ相手に何もできず、ただ途方に暮れるしかない」
拳を思い切り叩きつけた。
地面が抉れ、腕から血が噴き出す。
「なんて……! なんて情けねえっ……!!」
口から出たのは、どうしようもない感情だった。
憤怒、悔恨、失望、様々な負の感情がない交ぜになったそれは、今もなお俺の中で肥大化し続けていた。
しかし──、
「ムカつく奴の面一つ殴る事もできない!」
どれほど怒りを募らせようとも──、
「助けたい奴一人、満足に助ける事もできない!」
どれだけ悔しさを滲ませようとも──、
「何が伝説の魔物だ……! 弱すぎて反吐が出る……!!」
──全てはもう終わった後。
できる事はただこうやって胸の内に溜まった感情のまま、嘆く事のみ。
あまりにも無様な敗者の姿だった。
「だったら、強くなれ!!!」
裂帛の叫びが俺を貫いた。
「そこまで怒るなら、そんなに悔しいなら、強くなれ! 誰にも負けないぐらいに!!」
アルベルトが、鋭く厳しい目つきで俺を見据えていた。
「……当たり前だ! 意地でもなってやる……!!」
アルベルトの射抜く様な瞳を真っ直ぐに見つめて、俺は誓った。
もう二度とこんな無様を晒さない様に。
誰が相手であろうと己の意地を通せる様に。
俺は、絶対に強くなる。
「ああ、それでいい」
包帯を巻き終え、既に先程、血が噴き出た腕の処置も終わらせたアルベルトはそれだけ言うと、手当て道具一式を袋へしまった。
「今日はもう動けないだろう。ここで野営する」
「いや、そんな事」
「この湖、恐らくシルク地方の隣、カルタ地方にあるカルキ湖だ。仮にこの場所を特定されて追手がかかっても、一日二日じゃここには来れない。だから、今は休め」
無理して動こうとする俺を制して、アルベルトは立ち上がると、アイアンを呼び出した。
「私が野営の準備をしている間に、貴様は休みがてら、そいつの相手をしてろ」
アルベルトが顎で俺の隣を指した。
いつの間にか泣き止んだミニが顔に涙の跡を残しながら、そこにいた。
〔ん、何やこの状況。どういう事なんやご主人!〕
「貴様が託されたんだろう。そいつをどうするかは貴様自身が決めろ。行くぞ、アイアン」
アルベルトは喚くアイアンを連れて、この場を離れて行った。
ミニは何かを言いだそうとして迷っている様子だった。
ならば先にこちらから言うべき事を言わねばならない。
「ミニ。お前の母ちゃん、助ける事ができなくて、すまなかった」
〔お兄ちゃん……〕
「俺が弱かった所為で巣も親も、何一つ守る事ができなかった。許してくれ」
「そんな、お兄ちゃんは悪くない! 悪いのはあの……!!」
ミニは俺の謝罪を受けて、何かを言いかけた後、激情を抑える様に歯を食いしばった。
そして少し落ち着いた後、決意に満ちた表情で、俺を真っ直ぐに見据える。
〔僕も、僕も強くなりたい……! お兄ちゃんと一緒に強くなって、ママを酷い目に合わせたあいつをやっつけたい!!〕
まだ産まれて間もない子供の大きな決意に、静かにしっかりと耳を傾ける。
〔だから、僕を一緒に連れて行って! お兄ちゃん!!〕
ミニの放った言葉に対する返答は当然、決まっていた。
「当たり前だ。俺はお前の母ちゃんに頼まれたんだ。お前が嫌って言っても連れていくぞ」
俺の言葉に萎れた花が元気を取り戻す様にミニは笑顔を開花させる。
〔うん! ありがとう! お兄ちゃん!〕
「あててて! 怪我に響くから甘噛みするな!」
嬉しさのあまり、肩を甘噛みするミニを、俺は引き剥がすのにしばらく苦闘した。
アルベルトはそんなウインドミニゴンとナオトのやり取りの一部始終を、野営の準備をしながら見ていた。
ミニゴンの言葉は分からないが、ナオトの言動から察するに、改めて自分を連れて行って欲しいという様な事を言っていたのだろう。
ナオトがミニゴンにじゃれつかれている。
本来、意思が通じない魔物と心を通わすその姿がいつかの日の光景と重なる。
──彼らはね、私達ヒトと同じかそれ以上に思い、考え、日々を生きているの。
悲しい事があれば涙を流すし、腹が立つ事があれば声を上げて怒る。
勿論、嬉しい事があれば喜びもする。
だからちゃんと話せば友達になれるし、こんな指輪なんかで従えなくても力を貸してくれる。
それに彼らにとってこの指輪はあまり良いモノではないみたいだし、あんたも使うのはやめなさい。
大丈夫、代わりにこの姉の私が、彼らと友達になる方法、教えてあげるから──。
ふと足を突かれた感覚が現実に意識を引き戻した。
見下ろすとアイアンが足元でこちらを見上げていた。
右手の指輪を通して、こちらを心配している意思が伝わってくる。
無理して身体の痛みに耐えている事がバレたらしい。
労わる様に足をさすり始めた。
そんなアイアンを礼代わりに撫でながら、アルベルトは呟いた。
「姉上。結局、僕は貴方の様には、なれませんでした」
中指に嵌まった支配の証である指輪が、陽光を浴びて鈍く輝いていた。




