4.スリッパ(出会い)
財界のパーティーは本当は嫌いだ。
アンジュはそう思いながら、シャンデリアの光の下で微笑んでいた。
完璧な笑顔。
完璧な姿勢。
完璧な挨拶。
財界令嬢とはそういうものだ。
だが。
ピンヒールが痛い。
ものすごく痛い。
(もう無理)
アンジュは人の流れからそっと離れ、廊下のソファに腰掛けた。
足を脱ぐ。
じんじんする。
「……いたい」
小さく呟いた。
そのとき。
影が落ちた。
顔を上げる。
黒髪の背の高い男が立っていた。
整った顔。
だが。
無表情。
全ての感情を排除したような無機質な灰色の眼差しをアンジュに向けている。
アンジュは瞬きをした。
何度か屋敷で父と商談しているのを見かけた事がある。
男は何も言わない。
ただ近くのウェイターを呼んだ。
「スリッパを」
短い言葉。
ウェイターが慌てて走る。
数分後。
柔らかいスリッパが届いた。
男はアンジュの前に膝をついた。
アンジュは驚く。
男は何も言わない。
ただ、男は静かにスリッパを履かせた。
まるで当然の作業のように。
終わると立ち上がる。
「歩けるか」
低い声だった。
アンジュは頷いた。
男は腕を差し出した。
アンジュはそれにつかまる。
無言のまま。
車寄せまで送ってくれた。
冷たい夜風。
アンジュは振り向いた。
男はもう帰ろうとしていた。
男の名前は…ヴァルハルト商会のアレクシス・ヴァルハルトだったはず。
そのとき。
後ろから声がした。
「会頭!」
別の男が走ってきた。
秘書らしい。
眼鏡。
整った顔。
二人は小声で話している。
距離が近い。
妙に近い。
アンジュはぼんやりそれを見た。
その瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
(あ)
(これ)
(……いい)
無表情な男。
その隣にいる美形秘書。
距離が近い。
声が低い。
空気が静か。
アンジュの脳内で、何かが始まった。
(これは……)
(最高では?)
想像が広がる。
冷たい商人。
忠実な秘書。
二人きりの執務室。
緊張。
沈黙。
そして――
でゅふ
アンジュは奇妙な声でほくそ笑んだ。
その夜。
ローウェル邸。
父が言った。
「アンジュは知ってるかな。ヴァルハルト商会のアレクシス・ヴァルハルトだ。最近よく我が家に来ている商談相手なんだが、なかなか骨のある男だ。まだ独身だ」
アンジュは紅茶を飲んでいた。
父が続ける。
「どう思う?」
アンジュは少し考えた。
今夜のパーティーの男だ。
無表情の男。
スリッパ。
車寄せ。
そして。
秘書との距離。
アンジュは言った。
「結婚します!」




