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プロローグ

シャンデリアの光が、グラスの中のワインを赤く揺らしていた。

弦楽器の柔らかな音。

控えめな笑い声。

香水と花の匂い。

財界の夜会は、いつだって同じ空気をしている。


だが、この夜のそれは――少しだけ重みが違った。


ここはアルセリア連邦。

山脈に守られ、深い湾を抱く港湾都市リューベル。


背後の山々から流れ込む雪解け水は、豊かな森と肥沃な大地を育て、やがて湾へと注ぐ。

その養分をたっぷりと含んだ海は、銀鱗をきらめかせる魚群と、重厚な交易船を同時に抱え込む。

天然の要塞にして、交易の要衝。


古来より奪われ続け、それでもなお繁栄し続けた都市。

そして今、その富と安定を象徴するかのように、夜会は開かれている。


広間の奥では、旧家の貴族たちがゆったりとグラスを傾けていた。

血筋と格式を誇りながらも、今やその多くは資産運用と政治的影響力で生きる存在だ。


その周囲には、連邦各地から集まった商人たち。

天然ガス、鉄鋼、船舶、情報。

それぞれの利権を背負い、笑顔の裏で静かに値踏みをしている。


さらに目立たぬ位置には、保険業者たち。

海難事故、積荷の損失、そして戦火。

この都市の「もしも」をすべて金に換える者たちだ。

彼らは決して声を荒げない。ただ、最も冷静に利益を拾う。


壁際には、連邦府の役人たちが控えている。

軍港の使用権、関税、航路の安全保障。

ここで交わされる一つの握手が、数千人の生活を左右することを知っている顔だ。


そして、そのすべてを包み込むように、音楽と光と、完璧に整えられた社交の仮面。


その中心に、アンジュはいた。

背筋を伸ばし、非の打ち所のない微笑みを浮かべて。

女王のように嫣然と。

誰もが彼女を視界に収め、

誰もが彼女を測り、

誰もが――無意識に、距離を測っていた。

この夜会で、最も美しい存在が誰か。

そんなことは、議論するまでもない。

だが同時に。

最も「価値のある」存在が誰か。

それを見誤る者は、この場所にはいない。


「アンジュ様、例のプロジェクト大成功でしたね。」

「ええ。その節はお世話になりました。」

柔らかな声で答えながら、彼女の頭の中は別の計算で動いている。

父のファンドが投資している企業。

この男の会社は二次サプライヤー。

あの婦人の夫は政府系金融。

来月の再編で株価が動く。

──使える。

アンジュはグラスを軽く揺らしながら、会話の合間に情報を拾い上げていく。


幼い頃からそうだった。

「アンジュは天使みたいね」

そう言われて、誰からも可愛がられて育った。

天使は微笑むだけでいい。

人は勝手に心を開く。

だから、商機も自然に見えてくる。

今夜も成果は上々だった。


けれど。


(疲れた)


心の奥で、ぽつりと呟く。

その声を誰にも聞かせないまま、夜会は終わった。


屋敷に戻ると、アンジュは真っ先にヒールを脱ぎ捨てた。

静かな廊下を歩き、ドレスのファスナーを下ろす。

鏡の前の自分は、もう財界人ではない。

長い廊下の奥の夫婦の寝室。

そのまた奥。


指紋認証。

カチ、と電子音が鳴る。

ここは本来、緊急時のためのパニックルームだった。

だが今では、アンジュだけの隠れ家だ。

扉を開ける。

温かな照明。

ブルーグレーで統一された優美なファブリック

スイゼル工芸の手編みのレース。

蘇海州の精緻な刺繍が施されたクッション。

柄青磁の壺。

クリスタルの動物たち。


選び抜かれた、可愛く優雅なものたち。

誰にも見せない、もう一つの世界。

「ただいま……」


小さく呟き、アンジュはバスルームへ向かった。

湯船に体を沈める。

ほっと息を吐くと、ワインボトルを傾ける。

星の雫ワイナリーの辛口。

人前では絶対に飲まない銘柄だ。


アンジュは酒が好きだ。


グラスを空けながら、ぼんやりと考える。

このあと何を飲もうか。

ワインの次は──

強くて、こっくりした酒。

すっと喉をとおり、冷たく華やかな後味を残す酒が良いわ。

思い浮かべるのは、アルセリア連邦国の南西部でしか栽培されていないコメからできた酒だ。


湯上がりの体に薄いナイトウェア。

頭にはうさぎ耳のヘアバンド。

足元はふわふわのうさぎのルームシューズ。

ほろ酔いのまま、アンジュは「表」のキッチンへ向かった。

冷蔵庫を開ける。

物色。

そして、にやりと笑う。

一升瓶。

ひよひよイカの干物。

夢見ヤギの半月チーズ。

戦利品を抱えて戻ろうとした、そのとき。

背後で、低い声がした。


「……何をしている」


アンジュの体が固まる。

ゆっくり振り向く。

そこに立っていたのは──

3ヶ月前に会ったきりの夫

アレクシスだった。

無表情の男。

色彩の薄い灰色の瞳が、一瞬だけ驚愕に揺れる。


次の瞬間。

その視線は、鋭く細められた。

刺すような眼差し。

感情を乗せないはずの薄い唇が、わずかに震えている。

アンジュは、一歩も動けなかった。

腕には一升瓶。

脇にはイカの干物。

足元はうさぎのルームシューズ。

沈黙が落ちる。

夏の夜はまだ、始まったばかりだった。


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