9
どうやら、亡き妻との馴れ初めが、フレッドの絵を気に入ったというところから発展したそうだ。
これほどの画力だ。彼の亡き妻が気に入る理由はよく分かる。
「これを生業にはしなかったのか?」
「ただの趣味ですので。私はただ絵を描くことが好きで筆を握っているだけです」
謙虚に答えているのだと思ったが、本心なのだろう。
絵の中にある繊細なタッチや光の表現、すべての技法がプロ級のものだった。宮廷画家を目指せたほどの腕前と言ってもいいだろう。
俺はそんな素晴らしい絵画を眺めながら、ふと疑問に思っていたことを口にした。
「人物画は書かないのか?」
フレッドは俺の質問に一瞬口をつぐみ、少し間をおいて口を開く。
「妻が亡くなるまでは描いていました。とはいっても、描くのは妻ばかりでしたが」
フレッドはそう言って、小さく口角を上げた。俺たちは黙って彼の話を聞いた。
「彼女がいなくなってからは一切描かなくなりました。誰かを描きたい、という強い気持ちを失ってしまったのです。これから先、よっぽど心が動かされることがない限り、描かないでしょう。もうこんな老いぼれですので、そんな日が来ることはないでしょうが……」
フレッドはまた小さく笑った。
妻をどれほど深く愛していたのか、その話し方でわかる。
王宮騎士団に入団した時はまだ若かったはずだ。再婚もせずに、生涯独身であろうとする彼の愛に尊敬を覚える。
「とても良い絵だ」
「……ありがとうございます」
俺の言葉にフレッドはその場で目を伏せて、頭を下げた。
フレッドは俺たちがこの家に泊まることを快く受け入れてくれた。
俺は、かつて妻が使っていたという部屋を使わせてもらえることになった。簡易的なベッドとサイドテーブル、そして女性的な花柄の模様が入った背の低い本棚があった。
幸運なことに、狭いゲストルームが一部屋あり、リラと双子たちは一つのベッドで一緒になることになった。
いきなりの訪問だったのにも関わらず、寝泊まりできる場所を提供してくれたフレッドに感謝をする。
「恩に着る」
「いえ、またお役に立てることができて光栄です。まさか殿下がこんな場所に現れるとは思いもしなかったので……。そういえば、何用でこの町に足を運ばれたのですか?」
今更だが、フレッドは俺たちにシュレス町に来た目的を聞いた。
俺は少しだけ躊躇って、嘘を言うことにした。
「あの教会の調査だ」
フレッドを疑っているわけではない。ただ「イーヴィアの書」が機密情報なのだ。誰にでも話していい内容ではない。
秘密保全に関しては、元騎士であるフレッドに対して信用できる。……だが、わざわざシュレス町を訪れた本当の理由を教えなくてもいいだろう。
「教会の調査ですか……?」
俺の回答に怪訝な表情を浮かべるフレッドに俺は「ああ」と頷いた。
リラは俺に向かって「何言っているの!?」と目で訴えている。
突然思いついた嘘だった。ずっとエルリィという女の子のことが頭から離れなくなっていたからだろう。
「あの山奥にある教会は、随分と昔のものだろう?」
「ああ、ルーヴェ修道院のことですね」
フレッドは俺の話している内容を理解したように、ハッとした顔をする。俺は「ルーヴェ修道院」とフレッドの発した名前をオウム返しする。
「はい。ルーヴェ修道院はすごく歴史的な建物です。あそこでは、シスターたちが孤児たちを引き取って育てているんですよ。シュレス町の人々はあまり行く機会がないので、またお話を聞かせてください」
どこまでも丁寧な男だ。
「ルーヴェ修道院……、ルーヴェ、どっかで聞いたような……」
リラが修道院の名に何か引っかかるところがあるのか、眉をひそめながらボソボソと呟いている。
「本日はゆっくりとお休みください」
「おやすみ。助かった」
俺が部屋の中に入ろうとした次の瞬間、「ああ、それと」と何か思い出したように彼は口を開いた。俺はフレッドの方へともう一度視線を向けた。
「『何者か』と町の人に聞かれましたら、私がかつてお世話になった団長の子、ということにしておきましょう。それで怪しまれないはずです。……ですが、フードの方はお忘れなく。殿下は大変お美しいので目立ってしまいます」
俺はフレッドの最後の一言にハハッと軽く笑みを浮かべて、部屋に入った。
フレッドとリラ、そして双子は、俺が部屋に入る最後の瞬間まで深くお辞儀をしていた。




