筆頭聖女補佐ダフネ(30)の聖婚
聖婚。
それはこの国の筆頭聖女と聖騎士団長が神託によって結ばれる、文字通りの「聖なる結婚」である。
新たに就任した教皇の受けた神託により、二十数年ぶりに行われることになった聖婚の三日前。
筆頭聖女ソフィアが出奔した。
聖騎士団長クリストフもまた、出奔した。
「一体どうなっているのだ…!!」
頭を抱える幹部クラスの神官達の側に典礼用の資料を積み上げながら、筆頭聖女補佐ダフネは「でしょうね」と胸の中で呟いた。同じく会議用の書類やら何やらを運び込んでいる聖騎士団長補佐役の男性も、やれやれと言った顔をしている。
ぴりぴりした空気の中でお偉方の怒号が飛び交う。やれ教育が、管理体制が、若者の信仰心の著しい欠如が云々。信仰心はともかく家柄と見栄えのいい聖女や聖騎士を重宝して祭祀に活用するのが近年の神殿の方針だったろうに、お偉方は責任を取るのがお嫌なようで。お茶の用意をしながらダフネがため息を噛み殺していると。
「筆頭聖女補佐、ダフネ!」
新教皇ヨアヒム卿にいきなり名前を呼ばれ、ダフネは飛び上がりそうになった。会議で「ああ」とか「そこの君」以外で呼ばれたのははじめてである。
「聖騎士団長補佐、ヴィンセント!」
聖騎士団の補佐役らしき男もびっくりした顔で硬直している。この男の名前がヴィンセントだとダフネは今知った。彼もまた「ええと」とか「おい、お前」とばかり呼ばれていたのである。
単純にびっくりしているダフネ達に、教皇はやけくそ気味に告げる。
「こうなったら君らが聖婚しなさい」
「「はい?!」」
ダフネとヴィンセントは、思わず調子をそろえてしまった。
◇◆◇◆◇
神殿の総本山である大聖堂。その庭園の四阿で、ダフネはさっき名前を知ったばかりの聖騎士団長補佐ヴィンセントとお茶を飲んでいた。お偉い神官様がたによる「あとはお若いふたりで」作戦である。
「まあ、聖婚なんて言われても、今の若い人達は困りますよねえ」
ヴィンセントはそう言って、紅茶をひと口飲んだ。ダフネもつられてひと口。芳しい茶葉の香りがふわりと立ちのぼる。さすがにいいものを用意してくれたらしい。
このハシュガル王国はかつて、魔物の脅威に晒されていた。国境沿いの森からは定期的に魔物があらわれて国土を襲い、穢しては去っていく。魔物を退治するのは聖騎士の、穢された土地を浄化し人々を癒すのは聖女の役目。だから聖力の強い家が尊敬と権力を集めて貴族となり、神殿と結びついて今のハシュガル王国が成立したのだという。
魔物の脅威から民を救うことは貴族の誇りにして義務。だから貴族の子供達は8歳になると、神殿で聖力鑑定を受ける。そこで基準以上の聖力が認められると、女子は聖女、男子は聖騎士にスカウトされる。とはいえ危険を伴うお役目なので、受けるかどうかは本人達次第のため、大貴族や跡取りは辞退し、俸給や出世目当ての中位以下の貴族、しかも次男・次女以降が多くなるのだが。
ダフネが子供の頃、魔物の脅威は身近なものだった。魔物避けの護符はどの家にも貼ってあったし、森には決して近づかないよう大人たちは子供に厳しく言い含めていた。魔物にやられた傷のある老人はそこかしこにいたし、魔物に勇敢に立ち向かい負った傷を聖女に癒された自慢話は祖父の十八番だった。
しかしそれも今は昔。
「魔瘴滅却機の発明と普及以降、大規模な魔物の襲撃もずっとないですからね。20年でしたっけ」
「正確には18年ですが、死者が出るような襲撃となると25年です」
瘴気の吹き溜まりから魔物は発生すると解明され、それならば瘴気のうちに消してしまおうという装置が開発され、あっという間に普及したのが今から大体20年前。解明した科学者と装置の開発者は救国の大英雄となり、聖女と聖騎士はあっという間に「貴族令嬢令息の名誉職」となった。
また、魔物という国難が減ったことで、国体のため家門の聖力を守るべしという圧力も力を失った。聖力の強い令息令嬢の掛け合わせが大切だった貴族の婚姻も、今では当人同士の相性こそ大事という風潮に変わっている。
平たく言えば、恋愛結婚が政略結婚に取って代わったのである。
今や王室や高位貴族すら「恋愛によって結ばれました」と公言する時代。よく知らない同士が神託により結婚するなんて、若者にとってみればそりゃ嫌だろう。
しかも筆頭聖女である。
名誉職となってからの聖女は、顔よし家柄よし人柄よしの三拍子揃ったご令嬢が選ばれると相場が決まっていた。そういうご令嬢は大変モテる。聖騎士団長も似たようなものだろう。モテの権化の若者が、いきなり「神託だからよく知らない相手と結婚しなさい」と言われたところで聞き分けられまい。
「筆頭聖女様の『行き先』に心当たりは?」
「…ソフィアは東の辺境伯閣下の末っ子長女ですからね」
遅くにできた待望の娘にメロメロと噂の東の辺境伯である。「聖婚なんてイヤ!」と泣きつかれたら、パパは何でもするだろう。出奔に手を貸し、ほとぼりが醒めるまで匿うのは序の口。偽の身分くらいは簡単に用意するに違いない。
「そもそもソフィアは、聖力…帝国語で言うところの『光魔法』を帝国魔法アカデミーで学びたいがために聖女になっています。聖婚はさぞ意に沿わなかったでしょう」
ダフネの言葉に、ヴィンセントは目を丸くする。
「最近はそういう女性もいるんですね。いや、聖騎士には元々多い志望動機なのですが」
「では、クリストフ卿も?」
そう尋ねると、ヴィンセントは首を横に振る。
「クリストフは意中の女性に求婚するために聖騎士になったと聞いています。なんでも、難しい事情のある娘だとかで」
「なるほど」
そりゃ聖婚なんかしたくないわけだ。
「それで、僕らの『聖婚』ですが」
ヴィンセントの言葉に、ダフネは小さくため息をつく。
「まったく、神託がこんな扱いでいいのでしょうか」
「それは同感です。『聖騎士団長に役割を継続し難い特段の理由があるときは、後任が決まるまで補佐役が団長代理を務める』と規約にはありますが、それにしたって」
「聖女規約も同じくですが、何より見栄えがよろしくない」
ダフネが自分を指差すと、ヴィンセントは眉間に皺を寄せた。
「そういう自虐はよしてください。僕が何を言っても角が立つ」
「失礼しました。けれどこればかりは。聖女らしい輝くような金髪銀髪ではなく地味な黒髪ですし。歳だってもう30ですし」
「それは僕も同じです」
「あら、失礼」
「僕らが同世代なのは、薄々わかっていたでしょう。何しろ10年以上、補佐として顔を合わせていたのですから。聖女ダフネ」
「名前も知りませんでしたけれどね、聖騎士ヴィンセント卿」
そう言って、黒髪黒眼の地味な三十路女と、茶髪茶眼のこれまた地味な三十路男は、ふた口めの紅茶を味わうことにした。
◇◆◇◆◇
こうなった以上は仕方ない、というのがダフネとヴィンセントの結論である。ダフネは今年で30。この国の女性の平均結婚年齢は20歳前後だから、今や立派な嫁き遅れ。
ダフネだって、初めから三十路だったわけではない。田舎男爵の末っ子として産まれ、魔物の被害補償や討伐労役に頭を悩ませる両親を見て育った。神殿の洗礼式で聖力を認められたのが8歳のとき。聖女になれば給金も出るし、仕送りできれば跡取りの兄にも嫁がくる。家族のためならはい喜んで、と聖女見習いになったのが10歳のとき。黒髪黒眼で中肉中背、聖女にしては華のない外見で、聖力もそこそこだが真面目さが評価され、筆頭聖女の補佐を任ぜられたのは15歳のとき。
それから何人も筆頭聖女は変わった。結婚したり実家に錦を飾ったり、アカデミーに留学したり、果ては王子妃になった筆頭聖女まで。ダフネは真面目に15年間「筆頭聖女補佐」であり続けた。その結果、婚期は見事に逃した。最近では同期の産んだ娘が聖女見習いとしてやってくる始末。ちなみにダフネの実家は仕送りをこつこつ貯めて魔瘴滅却機を購入し、魔物被害から無事解放されたらしい。今更実家に帰っても、扱いづらい嫁き遅れ小姑確定である。
自分は情熱と縁遠い女だと、ダフネは常々思っている。
運命の恋やら愛に期待するほど若くもない、修道女として生涯を神への奉仕に捧げるほどの信仰心はない、さりとて実家に戻るのも気まずい。
だったら一旦「聖婚」とやらに乗ってみるのも悪くない…というのが彼女の結論だった。
その結論は、ヴィンセントも同じらしい。
「僕は引退した元子爵とメイドの間に産まれた恥かきっ子でして。だいぶ前に両親も亡くなりましたし、子爵家に今更戻ったところで居場所はないでしょうから」
聖婚によって結ばれた聖騎士と聖女は巡礼の旅に出て、各地の大神殿で祈りを捧げる。二十数年前に聖婚を挙げたふたりは、巡礼の後に聖女の実家の伯爵領の神殿を管理しながら睦まじく暮らしているらしい。
婿を連れて実家に帰っただけじゃないか、という思いはダフネの胸にしまっておく。
「まあ、それなりのお手当がいただけるそうですし、後のことはまた考えましょう」
ふたりはそう言い合って、聖婚の巡礼をはじめることにした。
◇◆◇◆◇
聖婚の巡礼の手順。
まず大神殿にて聖騎士は剣舞、聖女は聖歌を民衆の前で披露する。
その後、神殿では三日の祭りが行われる。聖女と聖騎士は昼間は民と交流し、夜は貴族と聖職者との晩餐である「聖餐の儀」に参加する。
祭りが三日間続いた後、大神殿の最奥にある運命の女神像に聖典から聖句を奏上し、聖騎士は彫刻を施したキャンドル、聖女は刺繍のタペストリーを捧げる。
この一連を移動・打ち合わせ・本番等々含めてひと月で行いながら、ハシュガル王国全12の大神殿を回る一年間。
「これは大仕事ですねえ」
ダフネは改めてため息をついた。ちなみに現在はひとつめの大神殿がある北の辺境伯領に向けて移動途中の宿場である。ダフネとヴィンセントは道中同じ馬車に乗せられ、宿も同室だ。さすがに国の認めた聖婚なので、広くていい部屋にベッドはふたつ、適切な大人の距離感は保たれている。何しろ礼拝のために考えることが多すぎて、甘い空気になることもなく、ふたりはお互い資料をめくっているのだが。
「聖歌隊と合わせられる聖歌のリストアップですね。剣舞は神殿音楽隊あわせですか?」
「そうですね、神殿音楽隊も地方によってレパートリーは色々ですから。それよりタペストリーですよ。どれくらい時間がかかるものなんですか?」
「基本はその土地のご婦人方が作ったものに、聖女が刺繍を入れるだけなので、図案さえ決まれば一晩ですみます。とはいえどんなタペストリーかわからないと図案も決められないんですけど、まあ土地柄とかで予測はつくので候補は決めておけますね」
そう言ってダフネは自作の図案集を取り出す。ヴィンセントがそれを覗き込み「なるほど」と呟いた。
「北なら白鳥、リラ、りんご、雪の結晶あたりが予測できそうだということですね。北の辺境伯家の家紋の白頭鷲はどうでしょう?」
「タペストリーは奥方様の領分のことが多いので、あまり勇ましいものは好まれません。キャンドルの彫刻はどうなんです?」
「それならこちらに」
そう言ってヴィンセントは自前のノートを取り出した。キャンドル彫刻のスケッチが細かく書かれている。
「図案では残せないのでスケッチですが。家紋のモチーフ、北はわりとお好みだったかと」
「…ヴィンセントさんってまめで器用なんですね」
ダフネは感心して思わず口走る。スケッチには奉納した場所と日付も記されており、モチーフ集としても記録簿としても重宝しそうだ。
「ダフネさんの図案集だって大したものでしょう」
「私の図案集はモチーフだけなので。完成品と日付もスケッチで残しておけばよかったなと…いやでも私あまり絵心はなくて」
「僕も人並みですよ。まあ、それでも聖騎士になるような男性は、手先が器用でないことも多いので、団長の補佐役としてはこういうのは重宝されましたね」
ヴィンセントはそう言ってページをぱらぱらとめくる。その横顔を眺めながら、ダフネはこう思った。
この人とだと、めっちゃ仕事しやすいな?
その思いは、巡礼を続けていくうちにどんどん強まっていった。
知識が豊富で、閃きよりも蓄積を大切にするタイプ。補佐役歴が長いだけあって、根回しが得意で他人への気配りも上手。各地からの要望にもすんなり応えられるし、何よりメンタルが安定している。
あとは食べ物の好き嫌いが少ないのも地味に素晴らしい。ハシュガル王国はさほど大きな国ではないが、それでも土地ごとに食文化は様々である。元筆頭聖女のソフィアは魚が苦手で、海の街での祭祀に呼ばれると辛そうにしていた。何代か前の聖女は昆虫を食べる地域の料理を見て卒倒してしまい、そのフォローが大変だった。
それがヴィンセントと一緒なら、彼のフォローはほぼ不要。自分のことだけしていればいいので大変気楽だ。
大役にピリピリする筆頭聖女の顔色を見て飲み物を差し出したり。緊張で泣き出したらハンカチや胸を貸したり。苦手な食べ物をこっそり避けたり。お偉い方との会合に当たり障りのない話題を提供したり。終わらなかった刺繍を代わりに完成させたり。
そういうのがないってめっちゃ楽だなー、とダフネは思う。
そして意外なメリットが、またひとつ。
「あ、そこです、そこっ…ふあぁ、ヴィンセントさん、しゅごいぃ…っ!」
ダフネが情けない声をあげる。ヴィンセントは「仕方のない人ですねえ」と含み笑いをしながら、彼女の肩をぐりぐりと揉む。
「皆の前ではあれほど楚々として振る舞っているのに…」
「あっ…だってヴィンセント様がお上手だからっ…!」
ヴィンセントによる聖騎士団秘伝のマッサージは、ダフネの身も心もほろほろに解していく。補佐役として筆頭聖女にマッサージを施す側だったダフネは、すっかりヴィンセントのテクニックに骨抜きにされていた。
「いやー、毎度ありがとうございます。私が富豪ならこのためだけにヴィンセントさんを雇いたい…」
「お褒めに預かり光栄ですが」
ヴィンセントはそう言うと、ベッドの上にあぐらをかいた。
「ダフネさんもなんというか、随分と解れましたよね」
「もう終盤ですからね、巡礼」
最初はそれなりに気を遣いあっていたダフネとヴィンセントだが、今やすっかりくつろぎ合う仲になっている。ダフネはすっぴんだしヴィンセントの髪はぼさぼさ、ふたりともゆるゆるの部屋着姿だ。
「これ食べます?リシューの実入りクッキー。途中の町でいただいたんですけど」
「おっ、それじゃ喜んで」
寛ぎながらおやつを摘み、のんびり過ごす。旅暮らしなのに妙に気楽で安らぐ生活に、ダフネは完全に味を占めていた。
この巡礼の後のことを、棚上げしておきたいと思う程度には。
おやつを食べて寛いで、次の大神殿のことを話してまた寛いで。ダフネはソファをぽんぽんと叩く。
「さあ、ヴィンセントさん。攻守交代ですよ」
力や手の大きさでは殿方に敵わないが、ダフネにはそのぶんテクニックがある。湯に浸したタオルを絞りヴィンセントの目に乗せ、頭をぐりぐりと解していく。
「あー、ダフネさん…溶けそう…」
「ふふ。このまま寝てしまってもいいんですよ」
旅の疲れや緊張で目が冴えて眠れないと訴える筆頭聖女を散々寝かしつけてきた自慢のマッサージ、寝てもらえれば寧ろ本望だ。
「膝に頭を乗せてもらえれば、もっとやりやすいんですけどね」
「…ダフネさんは僕のこと甘く見てますよね」
「どういうことです?」
そう尋ねると、すうすうと寝息が返ってきた。
東西南北すべての大神殿を巡り、残すは王都の大聖堂での礼拝を残すのみ。
ほぼ一年ぶりに戻ってきた大聖堂が妙に閑散としていることにダフネは気がついた。思えば王都入りも、昼間の目抜き通りを避けて行われている。
「お帰りなさいませ。聖下がお待ちです」
そう言われて通された礼拝堂会議室。
待ち構えていた教皇は、一年前にふたりを送り出した人物ではなく。
さらに、そこには出奔したはずの、元筆頭聖女ソフィアと元聖騎士団長クリストフがいた。
◇◆◇◆◇
「筆頭聖女ダフネ、聖騎士団長ヴィンセント。長旅の疲れのあるところすまない」
新しい教皇ユリウス卿に声をかけられ、ダフネは「聖女の礼」を取る。ユリウス卿の側に座っている紳士には見覚えがあった。ついこの前、東の大神殿で顔を合わせた辺境伯──ソフィアの父親である。
(つまりソフィアは計画ずくで出奔した…ってこと?)
まじまじと見つめると、ソフィアが申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「──要は前教皇ヨアヒム卿が、神託を捏造されたと」
「ああ。この一年秘密裏に調べたところ、そういう結論になった」
「しかし、なぜそんなことを」
ダフネの呟きに、ソフィアが答える。
「ヨアヒム卿は王弟殿下と手を組み、神殿の復権とヴルド鉱山帯への侵攻を画策されていたようです」
魔物の脅威が消えたことで、国内での神殿の影響力は低下している。それが面白くない一派と権力欲を持て余していた王弟殿下が手を組んだ。神託があったとして聖婚を企画し、神殿への支持を固めてお布施を集め、その資金を元に長年の所有権争いの火種であったヴルド鉱山帯を手に入れようと──
「つまり我々は、その旗印に担がれかけていたというわけですか」
ヴィンセントの言葉にユリウスが頷く。
「元々の計画では、ソフィア嬢を巻き込むことで東の辺境伯家からの経済支援を、クリストフ卿を巻き込むことで対隣国感情のコントロールを画策していたようだ。クリストフ卿の実家はヴルド鉱山帯の近くだからね」
侵攻がうまくいけば万々歳。たとえ侵攻に時間がかかっても、神の御心は自分たちにある──そう思わせたかったのだろう。
「僕としては侵攻とかマジ勘弁なんで。僕の嫁さん隣国の貴族ですし、せっかく聖騎士団長になって爵位貰っても、戦争になったら結婚できないじゃないすか」
とクリストフ。綺麗な顔に似合わないラフな口調である。ヴィンセントが「こいつずっと猫被ってたんだな…」と、ダフネにだけ聞こえる声で呟いた。
「辺境伯家の伝手で隣国にも手を回し、クリストフさんとノンナさん…彼の恋人は領地で匿うことにしたのです」とソフィア。
「ソフィアさんのおかげ、マジ感謝っす!あ、先月子供も産まれたんですよ〜」
「「早っ」」
思わずダフネとヴィンセントの声が揃う。
「いやね、だってソフィアさんが既成事実は多い方がいいと」
ソフィアがたおやかな淑女の笑みを浮かべる。クリストフの猫被りもだが、ソフィアの猫被りも相当だなとダフネは思った。一体どこまでソフィアの、あるいは彼女ら父娘の掌の上だったのだろう。
「ダフネ様とヴィンセント様には、損な役回りをさせて申し訳ありませんでした。けれどある意味、おふたりはヨアヒム卿達にとって手を出しづらい存在でしたので」
「手を出しづらい?」
「ええ」
ソフィアは頷く。
「ふたりはつつがなく巡礼を終えられると思っていました。神殿に泣きついたり、教皇はじめ他の聖職者に依存したり…ということもなく。そもそも、神殿の幹部側に何かを頼むことが殆どなかったのでは?」
ソフィアの言うとおりだった。ダフネとヴィンセントは培った知識と経験、そして各地の領主や領民との調整で、聖婚の巡礼を成し遂げたのだ。
「おふたりは大きな困難もなく巡礼を続け各地方での評判も上々、隣国侵攻の旗印としては取込み不足ですが、そのあたりは巡礼後にどうとでもなるとヨアヒム卿が判断したのだろうと思いました。ですから私達は、この一年で何としても彼らの企みを暴き、膿を出そうと動きまして──」
「東の辺境伯家が担いだ『新しい旗印』が私、というわけだよ」
教皇ユリウス卿が悪戯っぽく笑い、ソフィアとその父が「ご冗談を」と返す。
(いやいや、怖いって)
政治的な思惑なんて特に考えず、ヴィンセントと仲良く巡礼していた自分が途端にアホに思えてくる。
旗印として担がれるにも才能がいるのだと、ダフネは痛感していた。
「それで、私どもへの処分はどうなりますか」
ヴィンセントが神妙な面持ちで口を開く。そうか、とダフネは思った。追い落とされた前教皇の捏造された神託。それによって担がれていた筆頭聖女と聖騎士団長。
「何も知りませんでした」ですませるには、おそらくふたりは目立ちすぎた。
おそらく聖職は続けられないだろう。とはいえ帰る実家もない。親兄弟はともかく兄嫁や甥姪は嫌がるだろう。
そして多分、ヴィンセントとも一緒にいられなくなるだろう。そう思うと、胸がつきんと痛んだ。巡礼が終わってから考えようと先送りしていた「その後の人生」に当然ヴィンセントもいるものだと勝手に思っていた。
そんな確証は、どこにもなかったのに。
「いや、処分はないよ?」
ユリウス卿がのんびりした口調で言う。
「君達を処分なんかしてみなさい。神殿への支持はガタ落ちだ。それに元筆頭聖女や元聖騎士団長を何人も敵に回すことになる。だろ?」
話を振られたソフィアとクリストフがうんうんと頷く。
「まあ、そんなわけで今回のことは内々に処理される。ヨアヒム卿は急病で引退、王弟殿下も令息に家督を譲り領地にて療養ということになる。大聖堂での聖婚の巡礼も予定通りやってもらうよ。私がそれを取り仕切ることで、民に新体制を周知させたい」
「かしこまりました」
ダフネはそう言って頭を下げた。政治の話はつくづく自分には向かない。幸いユリウス卿は抜け目ないが穏健路線の人らしいし、大人しくお任せするのがいいだろう。
とりあえず大聖堂での礼拝までは一緒にいられるのだなと思い、ダフネはヴィンセントにちらっと視線を向ける。ヴィンセントもこちらを見ていて、目がばっちり合ってしまった。妙に気まずくて、ふっと視線をそらしあう。
ソフィアがくすくすと笑った。
「大聖堂での礼拝には、元筆頭聖女たちも駆けつけますわ。ダフネ様の花嫁姿を皆楽しみにしていますもの」
「聖婚の巡礼は結婚式とは違うのよ」
「ダフネ様とヴィンセント卿の睦まじさは、大変評判ですのよ。私達を育ててくれたダフネ様の幸せなお姿、私も楽しみにしていましたの」
「あのね、ソフィア」
自分達は急拵えの代役で。確かに仕事はしやすかったし、一緒にいて楽しかったし、信頼もおけるし心を許せるし、この人のいない人生を考えるのは嫌だと思うほど絆されてはいるけれど。
「私はともかくヴィンセントさんは」
「僕はともかくダフネさんは」
ちらちらとお互いを見ながら口ごもりはじめたふたり。その様子を見て、ユリウス卿は小さく咳払いをした。
「どうやら、君達はきちんと話し合ったほうがいいようだ」
◇◆◇◆◇
聖婚を申し渡されたときと同じ庭園の四阿で、ふたりは紅茶を飲んでいた。
あんなに話をしたのに、今は何を話せばいいのかわからない。
沈黙さえも心地よかったはずなのに、今はどうにも落ち着かない。
この人の想いが知りたい。
この人の想いを知ってしまうのが怖い。
口火を切ったのはヴィンセントだった。
「大聖堂に奉納するタペストリーは、何のモチーフにするつもりですか?」
「葡萄の木と、白い鳩です」
平和と繁栄、豊穣と幸福の象徴。聖婚の巡礼を締めくくるのに相応しい。それを聞いて、ヴィンセントは笑みをこぼす。
「僕も、同じものにしようと考えていました。気が合いますね、僕ら」
「万人受けする図案ですからね」
「あなたはすぐそういうことを言う」
ダフネは唇を噛んだ。そうですね、気が合いますね。あなたとならずっと仲良くやっていけそうです。そんな風に話をひょうひょうと転がすには、この感情は重たくなりすぎた。
「この一年、楽しかったですね」とダフネが言う。
「ええ。最初はどうなることかと思いましたけど」とヴィンセントが返す。
「国じゅうの美味しいものを食べて回れましたし」
「いろんな方にも会えましたね」
「ええ。赤ちゃんを何人抱っこさせてもらったことか」
ご加護をいただきたいとほやほやの赤ちゃんを連れてくる母親は特に多かった。あとは聖婚にあやかりたいとやってくる新婚夫婦、冥土の土産に会いたいと拝みにくるご年配もいたなとダフネは思い出す。
「ほら、南の大神殿でダフネさんを拝んで泣いていたおばあちゃん、覚えてます?」
「これで心置きなくお迎えを待てるって泣いていた、80歳の」
「あの方、もう一度ダフネさんに会いたくて王都にも来ているそうですよ」
「元気」
ふたりは顔を見合わせて笑う。
「こうなったら最後まで、女神様の思し召しに乗ってみませんか?」
「最後ってどこまで?」
「死がふたりを分つまで」
ヴィンセントの瞳が、ダフネをまっすぐに見つめる。ダフネの頬が熱を持ち、心臓が高鳴る。
「私でいいんでしょうか」
「あなたがいいんです」
ダフネは、自分を情熱と縁遠い女だと思っていた。
ヴィンセントもまた、自分と似たタイプだと思い込んでいた。
では、彼のこの熱い眼差しは何だろう。
ダフネの熱い頬は、胸の高鳴りは何だろう。
「顔をあげてください」
俯いてしまったダフネに、ヴィンセントが囁く。
「いやです。恥ずかしい」
「恥ずかしがるダフネさんも可愛いですよ」
「三十路を超えた女に可愛いはちょっと」
あれから一年、ダフネは31歳になっている。
「僕も三十路を超えた男ですからね。それに、好きな人が可愛いのは当然じゃないですか」
ヴィンセントがダフネの手をそっと握る。その指がかすかに震えていることに、ダフネは気付いた。この人もきっと勇気を振り絞ったのだろう。
好きな人の勇気には、報いなければならない。
ダフネは顔をあげ、微笑みを浮かべた。
「幾久しく、よろしくお願いします」
聖婚の巡礼を締めくくる大聖堂での礼拝は、滞りなく行われた。歴代の筆頭聖女や聖騎士団長が列席し、新教皇が取り仕切る形での聖婚の礼拝は、今までと比較にならないほど華やかだった。その華やかさに大人の事情を感じるダフネだったが、礼拝客の中に例の80歳のおばあちゃんを見つけ、諸事情は一旦飲み込むことにした。おばあちゃんの他にも、各地方で見た顔がちらほら王都の大聖堂に来ている。
誰もが、良い顔をしていた。
世の中が、より良いものであるように。
人々が、より幸せであるように。
その一端を自分達が担うことができるなら、聖女冥利に尽きるというものだ。
(きっと私達の選択が、運命の女神様の御心に添うものでありますよう──)
ダフネはヴィンセントと共に祈る。
歌う剣舞と聖歌に、諳んじる聖句に、奉納するタペストリーとキャンドルに、ひたむきな想いを込めて。
◇◆◇◆◇
その後。
神託がふたたび下ることはなく、聖婚はあっという間に古びた伝説となった。しかし聖婚で結ばれたダフネとヴィンセントは仲の良い夫婦であり続けた。時代を考えれば晩婚であったふたりだが、巡礼後すぐに子宝にも恵まれた。
改革派かつ国際協調路線の教皇として知られたユリウス卿は、その任期中いくつもの改革を成し遂げた。
最たるものとして、神殿を母体とする学園の創設が挙げられる。聖女制度を母体として女学院、聖騎士団を母体として士官学校が設立された。ダフネとヴィンセントも開校前から学園事業に携わり、学長としてその名をハシュガル王国史の片隅に刻むこととなる。