第1話 第一詩篇の顕現
空全体を、薄いベールのような雲が覆っていた。
太陽の輪郭は、まるで霧の奥にある灯火のように滲み、光と影の境界は曖昧で、物の輪郭さえ柔らかく暈けていた。
雨が降りそうで降らない、そんな曖昧な空の下。
風もなく、音もなく、時間さえも、どこか遠退いていた。
三人は、静かに立ち止まっていた。
砂漠の灼熱も、密林の蒼さも、峻烈な風も、深い森の沈黙も。
すべてを越えて、今この場所にいる。
背には四つの祠の記憶――風、火、水、そして土。
神々の問いと、その残響が、今なお胸の奥で鳴り続けていた。
アムルが、ふと口を開く。
「……四つの断章が、こうしてひとつに集まったのね」
彼女の視線の先、ロイクの腰にある聖剣が、微かに震え始めた。
柄に刻まれた四つの紋章――風・火・水・土。
それぞれが、呼応するように淡く脈動し、色と光が交差する。
「……剣が……震えてる?」
アムルが小さく息をのむ。
驚きと、どこか懐かしいような感覚が胸を満たす。
彼女の額に浮かぶ紋章もまた、微かに光り、共鳴するように震えていた。
パンドラの手にも、ロイクの手にも、それぞれの紋章が同じように反応を見せる。
「祈りが、呼び合ってるのよ」
パンドラが静かに囁いた。
その声音は、どこか夢を見ているようだった。
現実と幻の境界が溶けていく中で、紋章たちがまるで再会を喜ぶように――
または、新たな何かを「目覚めさせる」ように、脈動を強めていく。
ロイクは静かに鞘ごと剣を抜き、捧げ持つように空へと掲げた。
その動きに、空気が静かに震える。
光が、溢れ出す。
風のように囁き、火のように脈打ち、水のように揺れ、土のように沈む――
四つの力が、ひとつの調和のもとに集い、旋律のように空間を震わせる。
ロイクの手の中で、剣の中心に紋章が重なり合う。
それはまるで、神々の祈りを記した譜面のようだった。
幾何学的な光の陣が浮かび上がり、淡く、しかし確かに輝いた。
「これは……?」
アムルの声が震える。
彼女の心の奥が、何か大切な扉の前で高鳴っている。
「四つの断章が、“歌”になろうとしているんだ」
ロイクが静かに答える。
その瞬間――空間全体が「音」に包まれた。
音というより、「意味の共鳴」としか言いようのないもの。
それは言葉ではなく、旋律でもない。
ただ、重なった祈りの「意味」が、静かに胸の奥に流れ込んできた。
ひとつ、またひとつと、声なき言葉が浮かび上がる。
「問いは、風となって運ばれた」
「祈りは、火に焼かれながら形を得た」
「涙は、水底に残りながらも、名を呼び続けた」
「そして土は、それらすべてを抱え、沈黙の中に記した」
アムルは目を閉じた。
四つの祈りが、心の奥で交差する感覚。
風の記憶、火の痛み、水の嘆き、土の沈黙。
それらが、ゆっくりと一つの調べとなって、魂を震わせる。
これは、まだ詩ではない。
だが、確かに「詩の構え」が成されつつある。
――第一詩篇の胎動。
聖剣の核が淡く脈打ち、中心に刻まれた結晶の紋が、まるで花の蕾が綻ぶように開きかけている。
それは、鍵であり、扉であり、あるいは、神話の「前奏」だった。
静かに「はじまり」の気配が空を満たしていた。
そのとき、空に――遠く、音のない鐘のような震えが響いた。
それは、誰かが「物語を始める合図」を打ち鳴らしたような音だった。
それは、神話が始まる「前」に響く、何かの「兆し」。
大気が震え、空がわずかに軋む。
雲が裂けるわけでもなく、光が差し込むわけでもない。
ただそこに、「調律される静けさ」が満ちていた。
音のない旋律が、聖剣から空へ、空から大地へと降りていく。
アムルは、その場に静かに膝をついた。
パンドラもまた、両の手を胸元に重ね、目を閉じる。
ロイクは剣を掲げたまま、全身で“何か”を受け取ろうとしていた。
それは、言葉にならない祈りの重奏。
風の神ゼフェリオスの囁きが、柔らかな導きとなって吹き抜ける。
火の神カルメルザの鼓動が、燃え尽きたはずの心にもう一度灯を灯す。
水の神サリアニスの記憶が、ひとしずくの涙として胸を濡らす。
そして、土の神グラナイオスの沈黙が、それらすべてを抱きとめる。
そのすべてが重なった瞬間――
聖剣の中心から、音が「生まれた」。
それは「音」というにはあまりに静かで、「言葉」というにはあまりに深い――一篇の詩だった。
けれど、それはどの言語にも属さない。
どの楽器でも、奏でられはしない。
それは、四つの祠で刻まれた祈りの残響が、「今ここにいる三人」によって再び「意味」となったものだった。
浮かび上がるのは、光と影の譜面――
その一節が、まるで星図のように空に描かれていく。
《風は問いを運ぶ》
《火は祈りを焼き尽くす》
《水は名を忘れぬ》
《土はすべてを沈め、記す》
そして最後に、ひとつの語が生まれた。
詩。祈り。問い。そして記録。
四つの神性が織りなした、第一詩篇。
それは胸の奥に閃くように舞い降りた「名」。
アムルが、そっとその言葉を口にする。
「第一詩篇……」
その瞬間、空間が波紋のように揺れた。
四大元素の断章が重なった剣の中心に、青白い光が凝縮されていく。
それは、物理的な力ではない。
けれど、確かに世界の「理」を震わせる何かだった。
パンドラが言う。
「……これが、“鍵”なのね」
ロイクが頷く。
「――これは、神と人の祈りを繋ぐ“起点”だ」
そしてアムルが、胸に手を当てたまま、そっと囁いた。
「わたしたちが、ここに来た意味……全部が、この詩に重なってる気がするの」
空に描かれた詩篇の断章は、やがて静かに収束し、ひとつの「扉」のような結晶体となって、聖剣の柄へと収まった。
世界が、静かに次の呼吸を始める。
それは新たなる祈りを受け入れる、「準備」のようだった。
――第一詩篇、顕現。
神々の交響は、まだ終わらない。
だが、この瞬間が、神話の「序章」を閉じる音だった。
そして、物語は次なる問いへと、静かに進み始めていた。




