第4話 聖剣は語る
部屋の隅に置かれた果物籠に視線を向ける。
そこには、真紅の林檎が一つ、静かに鎮座していた。
(ヴェルダントの象徴、ね……)
溜め息を吐きながら。
ロイクは着々と準備を進めていた。
ユグド=ミレニオ王国の王都、エルセリアへの帰還である。
聖都に滞在している王国騎士団と共に、街道を行進しながらの凱旋が予定されている。
大聖堂に設えられた部屋で荷物を纏めながら、ロイクは毒づいた。
(何が凱旋行進だ。俺は何もしちゃいない)
――ええ、そうですね。
聖剣も同意するが、それがまた癪に障る。
ロイクはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
パンドラは戻ってきた。
けれど、そこに「アムル」はいなかった。
世界は何事もなかったかのようにパンドラを讃え、全てを祝福で塗り潰した。
(何も知らない奴らが、救われたとか抜かしてやがる)
(「魔王」が消えた? 世界が「安定」した?)
(代わりに何を失ったのかも知らないで)
誰も、知らない。忘れてしまった。
世界に塗り潰されてしまった。
俺は、忘れてやらない、とロイクは強く思った。
それは強い憤りだった。
(おまえともお別れか。短い付き合いだったが)
――何を言っているんですか。私をどこに預けるつもりなのです。
(聖剣の神殿じゃないのか?)
聖剣が憤慨したように鳴動する。
窓ガラスが割れそうだ。
「おわっ、落ち着け! 何怒ってる!」
――貴方を選んだのは女神ヴェルダントです。貴方のその命尽きるまで、共に在るのが私の宿命。逃げられるなどと思わぬように。
(おまえ、ヴェルダントの作だったのか。銘は?)
――私の銘など、どうでも宜しい。
聖剣はぴしゃりと言い放った。
女神ヴェルダント――
緑母神ヴェルダント、と呼ばれることも多い。
至聖神ルミエルの姉妹神であり、生命の育みと再生の守護神でもある。
役割は生命の大樹の守護。
そして輪廻と循環の神性を体現する。
生者と死者の通過点に立ち会い、魂の根源へと導く役割を担う女神だ。
象徴は林檎。あるいはすべての果実。地母神的な祈りの対象でもある。
(そうかよ。で、ヴェルダントは何で俺を選んだ。何をさせたい)
――貴方は、何を成したいのですか。
聖剣の反問に、ロイクはたじろいだ。
静かで、重い問い掛けだった。
(何……って、)
勇者の役目は終わったはずだ。
魔王討伐こそがその役割。魔王が消えた今、勇者は必要ない。
だが――
(俺にはまだ、できることがあるのか)
群青色の眸に強い決意を煌かせ、ロイクは問う。
聖剣は満足そうに、ひとつ、鳴動した。
――貴方が、それを望むのであれば。
聖剣は淡い光に包まれ、ふわりと中空に浮かんだ。
ロイクは、感心を通り越して呆れてしまった。
「……おまえ、何でもできるのな」
――できることだけです。できないことはできません。
「そりゃそうだ。……で?」
――あなたが望むのなら、アムルができなかったことを、成せるでしょう。
無論、簡単ではありませんが、と付け加えるのを忘れない。
「何が、できる。この俺に」
聖剣は静かにそれを、囁いた。
――世界の理の書き換えを。
聖剣の輝きが増す。
空間が、ほんの僅かに「裂ける」ような音がした。
――あなたが本当に、彼女を、取り戻したいと願うなら。
その光は部屋の空気さえ変えるほどに澄んでいて――
時空の境界を、かすかに揺らしていた。
波打つように。
あるいは幕が捲れるように。
ロイクは言葉を失う。
世界を書き換える――
それは比喩ではなく、現実の手段であることを、彼はこの瞬間、知った。
時空は、川のように流れているのだと思っていた。
一筋の大河が、時の始まりから果てへと続くのだと――そう、信じていた。
だが、聖剣は語る。
「それはひとつの錯覚です。
真実の時の流れは、常に分岐し、絡み合い、交差します」
分岐点は、幾つもの支流のように溢れ出ている。
そこからまた枝分かれし、やがて再び交わり、あるいは消えてゆく。
「貴方の声が、どの流れに届くか――それを定めるのは、貴方の意志です」
ロイクは息を呑んだ。
時の川に問いを投げる。
その波紋が、彼女のいた場所に届くことを、ただ祈りながら。




