第6話 封じられし書
学び舎の図書館は広大である。
アーチ型の高い天井は、まるで天そのものを写したかのように闇に溶け込み、
無限に続いているように見えた。
重厚な石造りの柱が静かに並び、空気は凛と張り詰めている。
古びた木の床はよく磨かれていて、歩くたびに柔らかく軋む音を立てる。
図書館は三層構造で、螺旋階段がゆるやかにそれぞれの階を繋いでいた。
書架は天井に届かんばかりに高く、重厚な木で組まれている。
ところどころに置かれた踏み台や移動式の梯子が、その高さを物語っていた。
書物は、時代も内容も多岐にわたる。
古の神話書、哲学書、祈祷書、詩集、そして錬金術関連の書に
至るまで、整然と並べられていた。
だが、すべてが自由に閲覧できるわけではない。
禁書とされたものは、書架ごと封印され、結界で守られていた。
その結界は淡い光を放ち、迂闊に近づくことすら憚られる雰囲気を放っている。
新入生が触れることは許されず、三年生になってようやく、
目録だけは閲覧する許可が下りる。
禁書でなくとも、特定のページには封印が施され、
読者が"読むに相応しい"と判断されたときにのみ、
そのページは自ら開かれるという。
アムルが今、目の前にしているのは、まさにそのような書物だった。
『緑率書』。
女神ヴェルダントの教えをまとめたとされるもの。
創世譚、神託詩編、祈祷文、そして終末の黙示録が収められている。
これまで幾度となくページを開いてみたが、
ある章だけは決して触れることができなかった。
それが今日、突如として、まるでアムルを受け入れたかのように、
自ら開かれたのだ。
その頁には、こう記されていた。
──黙示録第七章──
乃ち、魔王とは何か。
其は抗うものである。
アムルの目に、その一文が鋭く突き刺さる。
まるで、それを読むために自分がここへ導かれたかのような気さえした。
──天意に背き、己の心を押し通す。
天意とは世界の意思。
世界とは乃ち生命の大樹に他ならぬ。
生命の大樹に逆らうもの、乃ち抗うもの
──其は魔王なり。
アムルは反射的に本を閉じた。
内臓が冷え、体の芯が凍りついたような感覚。
耳の奥で鼓動が波打つ。
まるで暴風のような呼吸の音。
「抗うもの」
──その言葉が、頭から離れなかった。
震える手で顔を覆い、深く息を吸い込む。
(私は……)
胸の奥で、形にならない叫びが、押し殺されていた。
その書が開かれた意味を、理解してはいけない気がした。
けれど、知らずにはいられなかった。
書架の合間から差し込む薄明かりの中、アムルは静かに座り込んだ。
(魔王とは、ただの"悪"ではない……?)
それは、抗う者。
定めに。
天意に。
生命の大樹に。
それは果たして、"咎"なのか。
人々に責められ、非難を受けるものなのか。
(パンドラは……)
ふと、思考は彼女へ向かう。
あれから七日が経っていた。
パンドラとは、まだ顔を合わせていない。
その姿を見かけることすらなかった。
選ばれし献身者に選ばれてからというもの、
彼女は神殿の奥にある清めの間に入っているという。
そこでは一切の俗世と隔絶され、清らかな存在として心身を整えるのだそうだ。
(パンドラは……何を思っているの?)
(選ばれることを、本当に喜んでいたの?)
あのとき、震えていた声。
迷いを隠しきれなかった、あの一瞬の揺らぎ。
それらは、アムルの胸に今もくっきりと残っていた。
(聞かなくちゃ。確かめなくちゃ)
(彼女がそれを望んでいるのか、そうでないのか)
もしも彼女が、自ら進んで選ばれし献身者として生きると願っているのならば。
アムルは祝福しなければならない。
それが神意である限り。
けれど──
もしも彼女が、そうではないのなら。
(私は……)
アムルは胸元をぎゅっと握りしめた。
まだ形にならない思い。
けれど確かに、そこに在る何かが、確実に芽吹き始めていた。
それが罪だと知っていても。
それが、世界に背くことだとしても。
「……パンドラ」
小さく、本当に小さく。
名を呼んだ声は、図書館の静寂に吸い込まれた。
遠く、天井の梁のあたりで、古い鐘の音が鳴ったような気がした。