抗うものたち ～彼女が魔王になった理由～

第５章 魔王の歌

第９話 聖都への帰還

　アムルは、聖都アルセリアの郊外に立っていた。

　遠くに聖堂の尖塔が霞んで見える。

　空は重く、風は湿っていた。

　街は、緊張の極みにある。

　王国騎士団と、神徒(レオナール)たちが、聖なる台座(ヴィヴァルターロ)の守護を固めているという。

　その不穏な気配は、聖都全体を覆い尽くしていた。

　まるで、生き物のように――怯え、騒めいている。

「魔王が攻めて来るってよ」

「もう、この世の終わりなのかな」

「勇者が来てくれるって聞いたよ」

「至聖導師(グランダルコン)さまがお守りくださるよ」

　噂だけが膨らみ続け、魔王襲来を煽り立てる瓦版(ビラ)が街を舞う。

　民は恐れ、教会は警戒を強める。

　外で遊べなくなった子供たちは、不満と戸惑いを募らせていた。

　空気は鬱々と淀み、澱(おり)のような不安が溜まりつつある。

　道ゆく者の顔には、影。

　笑い声は絶え、喧噪も刺々しい。

　小競り合いが増え、また、何故か聖都を訪れる巡礼者の数も増していた。

「魔王を討てるかもしれない」と、一攫千金を狙う戦士たち。

「こんな時こそ祈らねば」と、信心深く巡礼を行う信者たち。

　――だが。

　警備が増えれば増えるほど、街の空気はかえって荒(すさ)んでいくようだった。

　いつも施しが行われていた広場には、行き場を失った浮浪者たちが身を寄せ合い、ひっそりと息を潜めていた。

　かつてなら、どの教会も彼らを受け入れ、温かい手を差し伸べていた。

　だが今は、身元の不確かな者の保護は禁止されている。

　何をするにも許可証が必要となり、あらゆる窓口には申請が殺到していた。

　冷たく管理された、祈りの街。

　守られているようでいて、どこか壊れかけている都市――

　それが今の聖都アルセリアだった。

　そんな街を、アムルは静かに、悠然と歩いていた。

「破壊する者」ではなく、「問い掛ける者」として。

　剣も鎧もなく、ただ風のように。

　その歩みを、誰も気に留めることはなかった。

　人々が警戒しているのは「攻めて来る魔王」。

　静かに道を行く、ひとりの少女など――誰の目にも映らなかった。

　やがて、アムルは大聖堂を望む丘の上に立つ。

　足許では小さな花が風に揺れている。

　街の至る所にある教会の尖塔が、陽の光を反射して白く輝く。

　陰影は柔らかな金色で、優し気だ。

　風が静かに外套の裾を揺らす。

　視線の先には、生命の大樹(ヴィヴァルボル)が悠然と聳(そび)えている。

　淡い燐光。柔らかく飛び交う光の粒。

　まるでアムルの訪れを、歓迎しているかのようだった。

　ここは、街の重苦しい雰囲気とはまるで別世界。

　春だ。

　アムルは目を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

　萌え始めた緑と、僅かな花の香。

　そして草の匂いを含んだ風の、清らかな冷めたさ。

　日差しを受け、空気全体が金粉を含んでいるように煌めいている。

　霧を纏う生命の大樹(ヴィヴァルボル)は、透明感のある青緑に透けてみえる。

　パンドラを呑み込んだ憎い存在ではあるけれど。

　美しいなと素直に思えた。

　アムルの身体は、世界に馴染み、半ば同化しそうなほどに危うい。

　世界霊魂(アニメスフェーロ)は満ち満ちて、指先から滴り落ちそうなほどだ。

　感覚も世界と同化してきている。

　鳥の声も、虫の声も、花の囁きも、水のはしゃぎ声も。

　風に紛れて運ばれてくる、人々の感情も。

　よく、耳に届く。

　教会の、魔王へ対し抱く敵意も、勿論。

　刺さるように肌を突く。

　けれど大いなる意思の前に、そんなものは些細なことだ。

　これから対峙するのは生命の大樹。

　教会によれば、世界の意思と言わしめる存在。

　ああ、自分はなんて小さいのだろう。

　きっと大樹の若芽のひとつほどの大きさも無い。

　砂粒ひとつよりも、小さいのだろう。

　きっと、目を凝らしても、見えないほどに。

　生命の大樹(ヴィヴァルボル)の頂へとまっすぐに視線を向け、アムルはそっと囁いた。

「――迎えに行くよ。待っていて」

　それは、パンドラへの囁きか。

　あるいは――生命の大樹への、宣言か。

　世界が耳を澄ませていた。

　問い掛ける者の声を、聞き逃すまいと。

　白衣者(カンドレル)の服を着て。

　アムルは大聖堂の中を歩いていた。

　白い外套。白い頭巾。

　金緑色の縁取りが僅かに光る。

　この聖都アルセリアに、どれだけの白衣者(カンドレル)が居るのだろう。

　一人二人増えた所で、誰も気にも留めやしない。

　隠形の術(カシャルト)すら必要ない。

（むしろ使った途端に発覚(バレ)るでしょうね）

　擦れ違う聖詠者(オラシエル)に会釈し、アムルは奥へと進んでいく。

「失礼、白衣者(カンドレル)どの」

「はい、何か」

　王国騎士に呼び止められ、アムルは少し目を細める。

「すまないが、白衣者(カンドレル)ツェーザレを見なかっただろうか。言伝を頼まれたのだが、どこにも見つからなくてな」

　アムルは穏やかに微笑んで、告げる。

「申し訳ありません。今日はまだ、白衣者ツェーザレとはお会いしておりませんもので」

「そうか、いや、失敬。地道に探してみるとする」

　会釈して、別れて。

　アムルは内心舌を出していた。

（会ったこともないのだから。知ってるはず無いわ）

　大聖堂の露台(バルコニー)に繋がる扉は堅く閉じられて。

　王国騎士と神徒(レオナール)とが二人一組で守っている。

　この先で、聖なる台座(ヴィヴァルターロ)が待っている。

　早く来いと言わんばかりの空気を出して。

　扉の向こう、台座はアムルを待ち構えていた。

「失礼、導師(アルコン)ブノワはこちらにおいででしょうか」

　ごく自然に、アムルは警備の者に話し掛ける。

　警備の者も、まさか相手が魔王だとは思うまい。

「導師ブノワにご用ですか。宜しければ承りますが」

「いえ、あまり他言できぬ言伝なのですが……宜しければ、お呼びくださいますか？」

　騎士と神徒(レオナール)とは少しひそひそと話していたが、顔を見合わせて、頷いた。

「あー、白衣者一人ならば、構わないでしょう。どうぞ」

「ありがとう」

　そして。

　扉が、開く。