第3話 黒の咆哮
アムルが震える脚で、ゆっくりと至聖導師に、一歩ずつ近付いて。
導師イアサントはその分アムルから一歩ずつ、遠ざかった。
アムルは、崩れ落ちたその身体を抱き起す。
重たい。
命の零れてしまった身体。
――亡骸。
「……っ」
声にならない嗚咽が漏れだす。
手を差し伸べてくれた優しい人。
アムルをただの少女として見てくれた人。
「お前が殺したのだ」
冷酷な声音。容赦なく、非情に、厳しく。
イアサントはアムルを弾劾した。
一片の迷いすら無かった。
パンドラを支えた白衣者が震えていた。
恐怖だろうか。怒りかもしれない。
「導師イアサント、何を言っているのですか! 至聖導師を刺したのは、貴方です!」
告発する厳しい口調に、イアサントは冷たい一瞥で答える。
「誰が信じるというのだ。呪われた力を宿す者が現れ、儀式を妨害した。そして至聖導師が落命した。事理明白である」
すぐ横で、白衣者が息を呑んだのがわかった。
パンドラは混乱する頭でなんとか状況を理解しようと努めた。
だが理解が追い付かない。
何が。
どうして。
こうなった……?
「場が血で穢された。それをも祓おう」
パンドラの混乱を他所に、イアサントは今も立ち上がれない神徒たちを叱責する。
「聞こえなかったか? 立て。神徒、白衣者、選ばれし献身者よ。献身の儀を続行せよ。禍々しき力を一掃せねばならぬ。聖なる力を以て打ち払え」
パンドラは目を瞬いた。
アムルが呪われた力を――
至聖導師が説得して、でも、刺されて……、違う、刺したのはイアサント――
これは、何?
アムルはそっと、至聖導師を床に横たえた。
自身の外套を折り畳むと、枕のように頭の下に敷く。
そうして、ゆらりと立ち上がって。
イアサントを睨み付けた。
学び舎の制服は至聖導師の血に塗れて、赤く。
紫水晶の双眸は濡れ、ぎらぎらと燃えるように輝いて。
「許さない」
低く呻くような声が唇から零れた。
呪いの言葉。
アムルを取り巻く黒い力が一層揺らめき、緑色に煌いた。
亜麻色の髪が逆巻いて、天を衝くようだ。
「パンドラを返せ。渡さない――お前なんかに、渡すものか!」
轟、と黒い力が爆ぜるように広がった。
露台を舐めて、揺らす。
アムルを中心に、渦巻くような圧迫が押し寄せた。
イアサントはパンドラを振り返る。
「良いのか、選ばれし献身者。世界が壊れるぞ」
黒い力に煽られて、白い法衣をはためかせ。
イアサントはそれでも揺らがずそこに立っていた。
「もう一度命じる。神徒、白衣者、選ばれし献身者よ。献身の儀を続行せよ」
神徒のひとりがふらりと立ち上がり、アムルへと切っ先を向けた。
同時に、白衣者のひとりがパンドラへと視線を向けた。
「……え」
パンドラは目を瞬く。
「魔を掃討せよ!」
叫んだのは神徒。
イアサントではない。
「なんで」
パンドラを支える白衣者が、別の白衣者に引き剥がされ、露台に転がる。
そのまま強く腕を引かれ、立ち上がらされ。
パンドラは呆然と目を瞬いた。
今まで信じていたものがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
世界が、壊れていく。
残ったのは、瓦礫だけ。
白衣者がパンドラに囁く。
「あなたは清浄なる者。選ばれし献身者。その身に宿る魂は、この場を浄化するに十分な力です」
さあ、と白衣者はパンドラの背を押した。
聖なる台座へと。
「献身の儀を、完遂せねば」




