第２話 断罪の刃
至聖導師は静かに言葉を続けた。
「私にも、わかりません。何故この世界が、献身の儀を祝福と呼ぶのか。けれど、古くから――そう伝えられ、続いてきました。大樹の根はあまりに深い。――私などには、揺るがすことは適いません」
その言葉を聞き、パンドラが顔を歪めた。
初めて、選ばれし献身者と告げられて以来、初めて。
パンドラは涙を零した。
「わたしだって、まだ、迷ってるし、怖いし、嫌だって気持ちだって、ある！ でも、それを言ったら、全部、壊れる気がして……」
白衣者が痛みを堪えた顔で、パンドラを抱き締めた。
疑問を持つ者は居る。
けれど口に出せる者は少ない。
その場の導師も神徒の中にも。
何故、と考えなかったことのある者は少なくないだろう。
「試練は祝福の証である、とあります。――アルボル典書・犠牲と再生の書・第五章・祈祷詩第十六節」
至聖導師は静かに言葉を紡いだ。
それは水の流れのようだった。温かく、優しく。
遠い昔から絶えることなく続いてきた小川のような。
「肉体の試練を得、精神の試練を経て、魂の試練を受ける。
耐久と浄化を。従順と犠牲を。それが人の生。
幾度も繰り返し、輪廻を重ね、天啓を得る。
そうしてやっと、高次霊魂に至るとされています」
束の間、柔らかな風がそよいだ。
そんな空気が大聖堂の露台に満ちた。
生命の大樹はただ、佇んでいた。
揺るぐことなく、泰然と。
選ばれし献身者は苦しみに満ちた人の生を飛び越し、高次霊魂と成り、天界に至る。
「救いとは何でしょう。祝福とは何を意味するのでしょう。私たちは日々、それを問いながら生きてゆかねばなりません。生命の大樹に実る――揺れる果実を取り零すことが無いように」
至聖導師はアムルに向かって両手を広げた。
「あなたもまた、その果実のひとつです。強い風に煽られ、今にも落ちそうな果実の子。私たちは見過ごしてはならない。落ちて砕けるその前に、手を伸ばさねばなりません」
アムルは目を瞬いて、戸惑って。
至聖導師は微笑む。
「いらっしゃい」
アムルは……。
足を踏み出そうとした、かもしれない。
けれど。
「――貴方は甘過ぎる」
一陣の風が吹き抜けて。
パンドラの目の前、至聖導師の背を覆い隠すように何かの影が動いた。
アムルの目が限界まで見開かれる。
ゆっくりと、至聖導師の身体が前のめりに傾いだ。
溶けた飴が伸びるように、時間が遅くなったのだと思った。
見えるのに、手を伸ばせば届きそうなのに。
止められなかった。
やめて、とアムルが叫ぶより早く。
どさりと重い音を立てて至聖導師が露台に倒れる。
じわりと広がる赤黒い液体。
「至聖導師さま！！」
白衣者の誰かが叫び、時間は再び動き出す。
倒れ伏す至聖導師の背には、短剣が突き立てられていた。
白い法衣がじわじわと血に染まっていく。
その横に佇み、冷たく見下ろしているのは一人の導師だった。
「導師イアサント――！」
誰かが息を呑む。
イアサントはぐるりと周囲を見渡して、冷然と宣言した。
「異端は排除せねばならぬ。
呪われた力を拒絶せよ。
それは生命の大樹の、乃ち世界の意思である」
決然とした態度にその場の多くの者が動揺を隠せないで居た。
白衣者たちも神徒たちも、そしてアムルとパンドラも。
呻き声を掻き消すように、イアサントは声を張り上げた。
「この混乱の最中、呪われた力を宿す者が暴走。至聖導師は落命なされた。献身の儀を続行せよ。禍々しき力を一掃せねばならぬ。聖なる力を以て打ち払え！」
アムルも、パンドラも。呆然として動けない。
目の前で起こったことが信じられない。
けれどそれは、紛れもなく現実であった。
