第9話 芽吹いたもの
大聖堂を後にしたアムルは、誰にも見つからないように身を潜めながら、夜の学び舎を抜けて、図書塔へと向かっていた。
夜はすでに深く、世界は眠りに沈みつつある。
群青の空には雲ひとつなく、まるで水面に浮かぶように、澄んだ月がぽっかりと浮かんでいた。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
それは夜の静けさというより、何かが潜むような緊張を孕んでいた。
なるべく足音を立てまいと注意して歩いているのに、石畳を踏むたび、靴音が塔の中に深く響いた。
ひとつひとつの音が、まるで自分の存在を告げる鐘のようで。
アムルは無意識のうちに呼吸を浅くしていた。
記憶を辿るように、アムルは本棚の狭間を縫って進む。
やがて辿り着いたのは、あの机――
そして、それは、そこにあった。
その本は、変わらず開かれたまま、何かを告げるように静かに佇んでいた。
――題名のない本。
生命の大樹の紋章。その「逆印」を刻んだ、禁忌の書。
存在してはならないはずの書だった。
(……また、ここに)
アムルの胸がひやりと冷たくなる。
確かにあの時、本棚に戻したはずだった。
あれは幻ではない。
自分の記憶に間違いはない。
それでも、こうして再び開かれた状態で。
まるで「読むことを許された」ようにアムルを待っていた。
置かれていた――そう表現するには、何かが違う。
これは、自らの意志でここに在るとしか、思えなかった。
ぞくりとする確信が、アムルの背筋を這う。
本が、アムルを選んだ。
読まれるべき者として、名を与えられぬ書は、再び彼女の前に姿を現した。
逃げようと思えば、逃げられたのかもしれない。
けれどアムルの足は、もうその場に縫いつけられたように、動かなかった。
――それが運命だと告げるように。
震える指で、そっとページを捲る。
ざらついた紙の感触が、妙に現実的で、かえって夢の中にいるようだ。
そこに記されているのは、旧い時代の古い言語。
アムルの読み解けない文字が大半を占める。
……なのに。
なぜか、わかる。
読めない。けれど、理解できる。
文字が意味を成すのではなく、意味そのものが直接、頭の奥に流れ込んでくる感覚。
「……命に名は無く、与えられるは形のみ」
いつの間にか、アムルは声に出していた。
その声が、自分のものとは思えないほど静かで、かすかに震えていた。
読み進めているはずなのに、目は文字を追っていない。
文字という概念すら飛び越え、情報は直接に意識へと染み込んでくる。
浸食。
そんなことを頭の片隅で思ったかもしれない。
思考も、理性も、何もかもを置き去りにして。
アムルは止まらない。
選ばれし献身者とは、何か。
祝福とは、誰のためにあるのか。
その意味、その起源、その本質。
知らされてはならない真実が、ぽたり、ぽたりとアムルの中に落ちていく。
それは毒のようであり、蜜のようでもあった。
心の奥底に、熱が灯る。
微かで小さい、けれどそれは確かに灯火だった。
小さな蝋燭の火。
けれど、とても強く、決して消えない。
読み進めるたび、アムルの世界が揺らいでいく。
何かが軋む音がした。
それまで信じていた常識だったのかもしれないし、世界そのものだったのかもしれない。
(これを、受け入れて、いいの――?)
まだ声には出せない。
だって、いいわけがない。
エクレシア・ヴィヴァルボルムの教えに反するどころか――
(反逆だ)
世界への、反逆。
教えに背き、祝福を否定し、世界の意思に逆らう。
拒絶とも恐怖ともつかぬ感情がアムルを押し包んだ。
それでも、目を逸らせなかった。
逸らせばすべて元通り。
知らなかった自分に戻れる?
答は否。
知ってしまったら。
知らなかった頃には、戻れない。
知らないままだったなら、幸せだっただろうか。
頭の片隅でそんなことを思う。
けれど。 アムルはそれに触れてしまった。
最初の一歩を、既に踏み出してしまっていた。
それが道なき道であることすら、知らないままに。