第8話 聖導師議会の裂け目
ミュスカの村を発ち、帰らずの森を抜け――
アムル、ロイク、パンドラの三人は、聖都アルセリアに帰還した。
アルセリアに入ってしまえば、後は馬車で大聖堂まで向かえばいい。
アムルは胸元の印章――黒と白の翳りを帯びた、斑模様の円環――を、大切に抱き締める。
「“鍵”が“円環”になって返って来るとはな」
「至聖導師さま、びっくりするわね」
馬車の中は和やかだった。
けれどアムルは、一抹の不安を拭い去れないでいた。
ロイクが心配そうに、アムルを窺う。
「やっぱり心配か? 黒き御使いとか、教団の過激派の動き」
「うん……」
「わたしたちだけじゃなく、至聖導師さまとか、導師ブノワとか……心配よね。何事も無いといいんだけど」
「……うん」
たった数週間ではあったが、大聖堂は随分と様変わりしたように感じられた。
纏う空気が、緊張を帯びている。
大階段には、もはや見慣れた至聖導師付の従者、フェルモの姿があった。
三人の到着を待っていたようだ。
「お帰りなさいませ、みなさま。至聖導師さまがお待ちです。すぐにお会いしたいと」
三人は顔を見合わせると頷き、すぐに後に続いた。
その姿を凝と目で追う者は、ひとりや二人ではなく……。
いまや教団全体が、三人の動向を気にしていた。
至聖導師ピエリックは机の前に立ち、三人を迎える。
表情は穏やかだったが、明らかに疲れが滲んでいた。
「お帰りなさい。……“鍵”は、手に?」
アムルは頷き、円環となった印章を、そしてロイクは、第二詩篇の紋章が刻まれた聖剣の柄を、ピエリックに差し出した。
それらと見たピエリックは暫し沈黙し、ゆっくりと瞼を閉じた。
「……第二詩篇の顕現は、“神の眼”により教団も把握しています。ですが、詳細を聞かせてください。何が起こり、何に触れたのか――」
三人は視線を交わし、頷いた。
「……闇の祠に触れたとき、アムルは“呼ばれた”んです。祠の前に黒い霧が現れて」
パンドラが口火を切り、アムルに視線を遣る。
アムルが頷き、言葉を継いだ。
「闇の神、ノクティリカに呼ばれたんです。そして――」
ノクティリカの「問い」、自らの内面にある「選ばれたこと」への不安、祈ることしか知らなかった自分が、ようやく「選ぶ」覚悟を得たこと――
ピエリックは一切口を挟まず、ただ静かに聴いていた。
ロイクが補足する。
「祈りの回廊は、ただの儀式空間じゃなかったんです。問いに向き合った“証”が、神詩となって浮かび上がってきて」
パンドラが続けた。
「第二詩篇は、神からの問いかけと、人からの応答で成り立っています。“問いを生きよ”――それが、わたしたちに与えられた詩篇です」
ピエリックはゆっくりと目を瞬く。
口にすることを少し、躊躇うように、ゆっくりと。
「……問いの詩篇」
「神を“信じる”だけでなく、“問い返す”覚悟の祈り――でした」
「神詩は教団では制御できない。だから封印された――んですよね?」
パンドラの問い掛けに、ピエリックは静かに頷いた。
そう。制御などできるわけがない。
光と闇とが並び立つことさえ、現在の教団では異端とされる考えなのだから。
その時、部屋の扉の外から、激しい足音が響いた。
ピエリックが眉を寄せ、従者のフェルモが慌ただしく駆け込んできた。
「至聖導師さま! 議会が招集されました。“詩篇の解釈と教団の正統性”を巡っての、緊急動議です!」
ピエリックは静かに立ち上がる。
「……動き始めましたね。私たちも、“問い”の答えを示す時です」
そして三人を見て、言った。
「行きましょう。光も闇も祈りも、今、教団の中で“選び直される”」
三人は顔を見合わせた。
確かに詩篇を持ち帰った当事者ではあるが、果たして、部外者の自分たちが聖導師議会に顔を出して良いものなのだろうか。
戸惑う三人に、ピエリックは再度頷くと、その背を優しく押したのだった。
大聖堂の上階、聖導師議会の円卓には、既にほとんどの導師が揃っていた。
議場は重苦しい空気に包まれている。
「第二詩篇顕現」の報が届いた時点で、教団は大いに揺れていた。
だが、アムルたち三人が「円環の印章」と詩篇の一節を実際に持ち帰ったことで、その揺れは決壊寸前の動揺へと変わっていた。
「――民は戸惑っている。“問いを生きよ”などという詩篇が真実ならば、我らが信じてきた祈りとは何だったのだ! 信仰が崩れれば、秩序も崩れる!」
「神詩は神より賜るもの。人が“返す”とは、あまりに傲慢ではないか!」
「至聖導師ピエリックは、光と闇を同列に扱い、教義を曖昧にしつつある!」
怒声に似た意見が飛び交い、秩序は崩れかけていた。
その中で、導師ブノワは冷静な声で割って入る。
「詩篇は、神からの啓示であり、同時に“対話”の記録だと、私は理解しました。彼ら三人の報告は、それに値するものです」
すると、保守派の一人――ガーランドが机を叩いた。
「ならば問おう! 三人の行動が正式な教団の命に基づいたものでない以上、我らはそれを異端の独断として処理すべきではないのか!」
「イアサントを、至聖導師に――秩序を回復すべきだ!」
会場が騒然とする中、アムルたちが議場の扉から現れる。
ピエリックに付き従い、静かに歩み出る三人。
沈黙の波が、広がるように広間を包んだ。
パンドラが口を開く。
「わたしたちは、祠に“命じられて”行ったのではありません。祈りの中に“問い”を見つけたから、それに向き合っただけです」
ロイクがそれに続く。
「命令じゃない。“選んで”進んだんです。祈りの意味を、俺たちなりに確かめるために」
そしてアムルが一歩、前に出て言った。
「わたしたちは、“祈りの形”を問う存在でありたい。“正しさ”を決める者ではありません。けれど、それによって誰かの祈りが封じられるというのなら――それは問い直す価値があると、わたしは思います」
アムルは少しだけ、息を継ぎ、言葉を紡ぐ。
「祈りは、人の数だけあっていい。その在り方を、一つに定めることが、祈りを殺すのだと、わたしは――もう知ってしまったから」
澄んだその声は、議場に響き、静かな余韻を残した。
暫くは沈黙が続いた。
誰も声を出すことができないで居た。
やがて、一人の導師――観察導師がゆっくりと立ち上がった。
「……私は、彼らの祈りを“異端”とは呼ばない。むしろ今こそ、我々が忘れていた“祈りの根源”を、彼らに教えられたのだと、私は――恥を持って、認めたい」
仮面を外し、誰も見たことの無い仮面の下を晒し、彼は言った。
聖導師議会の裂け目は、ここに可視化された。
信仰の再定義を巡る、闘争が始まったのだった――
そして、三人の「証言」は正式に議事録に載せられた。
それは後に、歴史的な意味を帯びることとなったのである。