第5話 アムル
世界が沈んだ。
音が消え、光が消え、そして時間さえ止まったかのように。
アムルは、静かに目を開ける。
そこは――祠の奥。
けれど、彼女の足元には石の床もなく、天井も壁も存在しなかった。
ただ、深い闇。
息のできないほどの静けさの中に、自分ひとりが、浮かんでいる。
そして。
「ようこそ。問いの子よ――」
それは、囁きだった。
けれど、全身に染み渡るように届く、柔らかな「声」。
(……ノクティリカさま?)
アムルがそう思った瞬間、目の前の闇がかたちを成す。
――孤児院。
――冷たい石の廊下。
――誰も来ない夜。
小さな自分が、祈っていた。
誰かの名前でも、願いでもない。
ただ、「何か」に縋るように、言葉を口にしていた。
「神さま、どうか、わたしを“意味あるもの”にしてください」
その記憶の自分を見ながら、今のアムルは静かに膝を折る。
(……私は。ずっと、祈ることしか知らなかったんだ)
祈りは、希望だった。
けれど、時には隠れ蓑でもあった。
傷つくのが怖くて、迷うのが怖くて、ただ「祈り」という形にしていた。
「選ばれたのではない。捧げられたのだと、思っていたのか――」
ノクティリカの声は優しく、けれど心の奥を鋭く突く。
アムルは目を伏せる。
手を胸に当て、紋章の鼓動を感じる。
「……はい」
小さな自分がこちらを振り向き、そして消えた。
「――怖かった。誰にも必要とされず、誰にも選ばれず、誰も、わたしを見なかった。わたしは何になったらいいのか、わからなかった。だから、祈りました。そして、選ばれた」
才能のある子だと、学び舎へ送られた。
そこで――パンドラが、アムルを見つけてくれた。
声を掛けてくれた。手を差し伸べてくれた。
「でも、力を得て――問いを追って。怖くなりました。これは、わたしが自分で選んだことなのか。それとも、誰かの望みのままに、そう在るだけなのか」
それでも、ロイクはアムルを助けに来てくれた。
時空を跳躍して、過去も未来も超えて。
アムルのために、来てくれた――。
闇の中で、アムルはゆっくりと顔を上げた。
「でも――それでも、私は、選びます」
声は震えていなかった。
「“祈り”を。歩みを。“問い”を。たとえそれが、誰かに与えられたものだったとしても。私は、それを自分の意志で持ち続けると、決めました」
胸の紋章が輝いた。暗い世界に、一筋の光が射し込む。
「……ならば、いきなさい――」
ノクティリカの声は、囁いた。
行きなさい。生きなさい。
それは、どちらの意味だったのだろう。
涙がひとすじ、頬を伝った。
「お前の祈りは、影を越え、光と並び立つだろう――」
その声を最後に、世界が――閉じる。
光に包まれたアムルの身体が、祠の現実世界へと還っていく。
光に包まれて。
アムルは静かに地面へと降り立った。
眩しさに、まだ目が慣れない。
「アムル!!」
ロイクの声が、アムルの世界に飛び込んできた。
次の瞬間、抱き締められていた。
「無事か!? どこへ行ってた……!」
アムルは少し驚いて、けれど微笑んでロイクの背中を叩く。
言葉に出来ない想いを、たくさん込めて。
「大丈夫。……ちょっと、遠くまで行ってたの」
パンドラも駆け寄って、アムルの頬を両手で包み込んだ。
「心配させないでよ……!」
泣きそうな表情に、アムルはパンドラを抱き締めた。
精一杯の愛情を込めて、柔らかく。
ロイクとパンドラ、二人の温もりに、アムルの胸が熱くなる。
うっすらと涙が滲んだ。
三人が揃った。
その瞬間、祠の扉が低く、唸るように震える。
そして、自ずからゆっくりと開いていく。
扉の縁に刻まれた古代文字が、淡い闇色の光を放っていた。
「終わったのか?」
アムルは横に首を振り、改めて前を向いた。
「これから、始まるの」
そうして、一歩、祠の奥へと踏み出した。
ロイクとパンドラが、後ろに続く。
ノエラが、少し離れた場所でその姿を見守っていた。
「――次の“問い”が、始まるのだね」
後ろで見守る三人の若者を振り返り、ノエラは言う。
「あんたたち、これから、次の時代が始まるよ」
風が吹く。
森の木々が、かすかに騒めいた。
闇と光、神と人、その間を繋ぐ旅が――いま、確かに歩み出した。