第9話 黒き御使い襲来
深夜の大聖堂地下――封印区画の最深部。
黒い格子の向こう、観察導師が静かに待ち受けていた。
黒い頭巾を深く被り、顔を隠した影が、無言のまま近づき、耳打ちする。
観察導師は微かに頷くと、懐から覚醒の鍵――印章を取り出し、そっと渡した。
そして、低く囁く。
「――後悔を、せぬように」
影はそれを恭しく受け取り、黒き御使いの元へ進む。
印章は黒い装甲の胸部へと吸い込まれ、次の瞬間、空気が歪んだ。
封印紋が焦げ付き、暗く裂ける。
「覚醒は許可されていない。だが――これは、秩序の危機だ」
観察導師はそれ以上の言葉を発さず、ただ見届けていた。
影は、まるで何事もなかったかのように立ち去る。
――その印章は、建前上「うっかり置き忘れられたものが持ち出された」ということになっていた。
やがて、格子が音もなく開かれる。
「秩序の回復」を掲げる者たちの意志が、ついに封印を破ったのだった。
観察導師は、僅かに目を伏せた。
口にはしないが、その眸には「迷い」が宿っていた。
同時刻、祈光殿の外――
ロイク、アムル、パンドラの三人は回廊で短い休息を取っていた。
月明かりに照らされた大理石が静けさを湛える中、突如として冷たい気配が忍び寄る。
気配――いや、「影」が降り立った。
その全身を覆う漆黒の装甲、光すら呑み込むような、つるりとした仮面。
それは、神の代行者にして粛清の化身、黒き御使い。
ロイクは即座に立ち上がり、聖剣の柄に手を掛けた。
「……何者だ?」
答えはない。
黒き御使いは静かに剣を抜く。
その一閃が、地を裂いた。
ロイクは難なく受け止め、真っ向から切り裂きにかかる。
アムルは額の紋章を輝かせ、火・水・風・土の力を順に解放。
パンドラは理力の障壁を張り、戦場全体を支配下に置く。
御使いの剣撃は凄まじく、しかしロイクは押し返した。
アムルの魔力が爆ぜ、光弾が闇を裂く。
だが――御使いの仮面は、わずかも揺らがない。
ロイクが首級めがけて聖剣を叩き込む。
刃は弾かれたが、確かなヒビが走った。
(――押し切れる)
そう思った刹那、御使いは標的を変えた。
パンドラへと跳躍し、闇の剣を振り下ろす。
しかし――
「アムル!?」
アムルが彼女を突き飛ばし――
パンドラが受けるはずだった刃を、受け止めていた。
腕を交差し、額と胸の紋章が発光する。
詩篇が囁く。「揺らぐな」「選べ」「問いの先へ」
眸が決意の光を帯びる。
そして、アムルの魔力が爆ぜた。
紫水晶の輝きとともに、螺旋状の颶風が巻き上がり、御使いを切り付け、吹き飛ばす。
黒き御使いの片腕が、がらんと床に落ちた。
静かにそれを拾い上げ、御使いは三人を見つめる。
仮面の奥に、何かを“観察”する気配――まるで学習しているかのようだった。
次の瞬間、黒き御使いは音もなく空へ舞い上がり、夜の闇に溶けた。
ただ一片、破損した欠片がその場に残される。
それは、微かに脈打っていた。
神詩の紋章に酷似した波動が、空気をわずかに震わせていた。
遠く、梟が鳴く。
その声は、夜の静寂を裂いたのではなく、静けさを包み込むように、どこか祈るように響いた。
戦闘の余韻が収まる中、静寂を引き裂くようにアムルの呼吸が荒くなる。
聖剣が揺れ、アムルの額の紋章が脈打つ。
「アムル、アムル、怪我は無い?」
「無茶するなよ。心臓が止まるかと思った……」
パンドラがアムルを抱き締め、ロイクがその背を軽く叩く。
アムルはぱたぱたと床に汗を滴らせながら、微苦笑を浮かべてみせた。
「――夢中だった、から」
紋章が、ずきずきと熱を持って脈打っている。
額も、胸も――心臓の鼓動に合わせるように、痛む。
「揺るがぬ意思とは何か」
頭の中に声が響く。
アムルは瞼を閉じ、パンドラの腕に身を委ねた。
(守りたい――きっと、それが、わたしの想い。揺るがぬ、意志)
妄信的な信頼や、受動的な祈りではなく。
自分自身で、光と闇とを問い続ける存在へと深化した。
アムルの胸には、もう後戻りできない覚悟が灯っていた。
アムルは月明かりの下、黙って空を見上げていた。
その横顔を、ロイクはそっと見つめる。
(……どの時空でも、アムルは――世界を変える存在に、なってしまう気がする)
その想いは、恐れではなく、強い不安と切なさだった。
彼女はただ強いだけではない。
祈りを抱き、痛みを知り、それでも前へ進む者。
だからこそ、世界が彼女を放っておくはずがない。
(でも……それを支えるのが俺の役目だろ)
拳が小さく震えた。
ロイクが時空を超えた理由は、彼女だった。
アムルが消えてしまうのが嫌だった。
あの時はまだ、形になっていなかった想いは、今や溢れ出しそうなほどに、心に満ち満ちている。
彼女を――誰よりも大切な存在を、絶対に守ると誓ったはずだった。
だというのに。
祈りの戦場で、身を張って仲間を庇い、光と闇に触れ続けているのは、アムルの方だ。
(……好きな女ひとり、守れないでどうする)
それは“勇者”の悔しさではなく、ひとりの“男”としての葛藤だった。
自分よりも先に立ち、闇に手を伸ばす彼女を、誇らしく思う。
けれど、同時に。
心の奥で、小さく、自分を責めていた。
そんなロイクの感情を、パンドラは静かに見つめていた。
ロイクが視線を逸らすたび、胸の内で押し殺すような表情を浮かべるたび――
パンドラの眼差しは、そのすべてを捉えていた。
(……ロイクったら。自分では気付かれないと思ってるけど――あれじゃあ、全部……わかっちゃうわよ)
パンドラは口に出すことなく、ただ心の中で微笑む。
それは、友として、仲間として、そっと見守る優しさだった。
(ちゃんと、言葉にしないと、伝わらないこともあるのよ)
その背中を、ドンと力強く押してやりたいが――。
彼女は、ほんの少しだけ息を吐いてから、ふたりの前を歩き出した。
ふたりが気持ちに気付くそのときまで、世界を揺らす風が止まらぬように。