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雑草鍋も案外美味い

作者: 108

3年前のあの日、俺の人生は狂い始めた。

きっかけは、一枚のくしゃくしゃの宝くじだった。


満員電車の中、湿った汗と香水の匂いが入り混じる。隣の男の息が首筋にかかり、吐き気をこらえながら、俺はスマホを開いた。

SNSには「一発逆転」「人生を変えるチャンス」なんて言葉が並ぶ。嘘くさい。それでも、ほんの少し、数千円でもいいから当たればと買った宝くじをポケットに入れ込んだ。


出勤。


オフィスの空気は湿っぽく、昨日のコーヒーの残り香が漂っていた。俺は自席に腰を下ろし、PCを開く。


——何をすればいいんだっけ?


メールを確認するが、特に急ぎの案件はない。

というか、そもそも俺に重要な仕事は回ってこない。


「君さ、この資料さ、またフォーマット崩れてるよ」

隣の席の先輩が溜息混じりに言う。

「あ、すみませ……」


自分なりにやったつもりなのに、なぜか毎回ズレてしまう。


「今度から確認してから出してね」

「っす……」


(どうせまたダメ出しされるんだろ)


正直、俺は仕事ができる方ではない。

Excelの関数は分からないし、会議でも発言することがない。

電話対応も苦手で、言葉が詰まり、先輩に代わってもらうことがよくある。


「お疲れっしたー!」

他の社員たちが楽しそうに飲み会へ向かうのを横目に、俺はそっと会社を後にする。

誘われたことなんて一度もなかった。


数日後。ポケットの奥から出てきた、しわくちゃの紙切れ。何気なく広げた瞬間、目に飛び込んできた数字に息をのんだ。


6億円。


一瞬、思考が止まる。いや、そんなはずはない。手が震える。何度も見返す。


——本当に当たったのか?


銀行での手続きは長かった。無駄に丁寧な説明を聞き流しながら、俺は夢を見た。

「まず会社を辞めて、好きなだけ旅行して、広い家に引っ越して、推しの配信を見て、ゲームして、女と遊んで……」

初めての彼女もできるかもしれない。6億円あれば、世界は変わる。


俺は投資信託を勧められるままに2億を預けた。それでも、4億は自由に使える。

退職代行を使い、何の未練もなく会社を辞めた。いや、ひとつだけ気にかかることがあるとすれば——引き留める言葉すらなかったことだ。


何年も働いたのに。俺は、ただの駒だったのか?

だが、口座の数字を見れば、どうでもよくなった。


広い家に引っ越した。好きなゲームを、好きなだけ遊べる環境。

金を惜しみなく使い、高額スパチャを投げる。推しは笑顔で「ありがとう」と言い、リスナーたちは俺の名を呼ぶ。俺の存在が認知され、特別な人間になった気がした。


——なのに、虚しい。


「まだ足りない」


容姿のせいか?ならば、整形をしよう。

目を大きくし、鼻を整え、歯を直し、ICLで視力を矯正。服も靴もブランド物で揃えた。


だが、それでも満たされない。


夜、広すぎるリビングに1人。間接照明が壁に影を作る。

テレビ画面には推しの配信が流れているが、言葉が頭に入ってこない。

静かすぎる。冷たい空気が、心に染みる。


ふと、母の顔が浮かんだ。

幼い頃に俺を捨て、男と逃げた母。


父の顔も浮かんだ。

母に似ている俺を嫌い、次第に避けるようになった父。


——俺は、誰からも愛されなかったのか?


だが、今は違う。金ならある。この世の誘惑に勝てる人間などいない。

俺は札束をばらまき、女を買い、友達を買った。彼らは笑い、俺の名を呼び、持ち上げた。


だが、金は減り続ける。

9桁を下回った時、焦燥が胸を締めつけた。


この生活をやめれば、また1人になってしまう。

それが怖くて、金を使い続けた。投資信託は解約し、借金を重ね、夜遊びをやめられず、最後には売れるものはすべて売った。


それでも、足りなかった。


——俺は、どこで間違えた?


やがて取り立てが始まり、俺は逃げた。

金も、家も、友達も、すべてを失い、行き着いたのは公園の片隅だった。


「よう、兄ちゃん。鍋でも食うか?」


ボロボロの鍋の中、ぐつぐつと煮える黒ずんだスープ。

廃棄された肉、冷めたおにぎり、そしてそこらの雑草。


「……食えるのか?」


「食えるさ。案外、いけるぜ」


ひと口すする。


苦い。だけど、温かい。

油と出汁の旨味がじんわりと広がる。


ふと顔を上げると、周りの男たちは笑っていた。

金に群がる亡者でもなく、俺を捨てた人間でもない。ただの“人”たち。


「なんでここにいるんだ?」

「……わからない」


わからない。でも、今まで食べたどんな高級料理より、この鍋は美味かった。

胃よりも、心が満たされていく気がした。


気づけば、涙がこぼれていた。


俺は建設現場で働き始めた。

30代の未経験。それでも、この業界ではまだ若い方らしい。


「お前、なかなか根性あるな」

「ありがとうございます」


汗をかき、泥まみれになりながら、1日を終える。

缶コーヒーを開け、空を見上げた。


夕焼けが、どこか懐かしく温かかった。


今だから言える。

「雑草鍋も案外、美味い」


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