小さい女神に何を願うか1-2
その3日後、友達料以外ではいじめられることもなく、キョーリューにスマホを返してもらい、重雄と別れてからスマホの電源を入れ、ずいぶん暑くなってきたなあ、空梅雨という予報は当たったな、などと思いながら駅へと向かっている時だった。本来ならこの安寧に感謝して家でアニメを観る予定だったのだが非常に嫌な予感がするものを偶然見てしまった。
カバ子がアカの後ろをついて行っているのだ。その雰囲気はどう見ても仲良くマックででもお話しよう、という空気ではなかった。ふたりから嫌な緊張感が漂っている。
僕はかなり迷ったが、距離を取って跡をついて行くことにした。2人とも僕に気がつくことなく人気のない場所に向かって行く。
そこは山の片側だけをざっくりと切り落としたような住宅団地の宅地造成地帯で、まだ全て更地状態で家の基礎さえない状態の場所だ。公園がひとつだけ整備されていた。
山を切り開いて斜面に作られた造成地である為、家を建てる予定の場所に盛り土がしてあり、それを石ブロックで補強している。そんな状態の土地が上に向かって、階段状になって並んでいる。人気はまったくない。僕は距離を保ちながら、盛り土を固めているブロックに身を隠すようにしながら2人の後をつけた。2人は真新しいアスファルト道路をどんどん上手に向かって歩いて行く。それと同時にますます人気から遠ざかることになる。
これはもはや嫌な予感しかしない。
そして、そこを曲がって道を登って行ったらそこはもう山の斜面で行き止まりだ、というところを2人が曲がった時だった。
「なんだあ! コラァ!」
というカバ子の焦ったような大声が聞こえた。あの人がそんな大声を出すなんてただ事じゃない。僕は慌てて曲がり角まで近寄り、石ブロックの陰からそっと覗いてみた。
はっと息を飲んだ。4人の大男が、カバ子の両腕と両足にそれぞれひとりずつ馬乗りになってカバ子をうつ伏せに押さえ付けていたのだ。カバ子は頭以外はほとんど動かせない状態になっている。4人の男はいずれもどこの誰だか知らないが、どう見ても人の良さそうな連中じゃない。4人ともキョーリュー並みに体が大きくムキムキだ。全員腕や首筋からタトゥーが見える。さすがのカバ子もあれじゃ抵抗できない。「お前……」と顔を上げたカバ子の口にアカが不敵な笑みを浮かべながらガムテープ、いや、ダクトテープを何重にも貼り付けた。フガフガ言いながらカバ子が必死に首だけを動かす。これはまずいぞ。どうする? 110番するか? そして「警察に通報したぞ!」と脅せば……警察が来るまでの間にボコボコにされるだろうな……カバ子だってその間にやられてしまうだろう。それにこの場所を上手く説明できない。助けを呼びに行く時間もないし、もちろん僕1人が立ち向かって行ってもやはりボコボコにされるだけだ。それならせめて確実な証拠を、と僕は石ブロックの陰からいまの状況をスマホ動画で撮影し始めた。最大にズームアップして状況を克明に撮影する。音声もしっかり捉えられるはずだ。「アカ、ナイフは俺のケツのポケットの中だ。早くしろ。こいつかなり力があるぞ」カバ子の右足に馬乗りになって両手でカバ子の太い足を押さえ付けている男がそう言った。アカは言われた通り、男のポケットからナイフらしきものを取り出した。その時男が「お前、本当にやらせろよ」とアカに確認するように言った。
「わかってる、やらせてやるよ。だからしっかり押さえとけ」
アカはそう言って手にした物の柄のあたりを親指で押すと刃が飛び出した。いわゆる飛び出しナイフとかいうやつだ。あんなものを持っているなんてやはりロクな連中じゃない。
アカはカバ子の顔の前にしゃがみ込むとそのナイフを嫌らしい笑みを浮かべながらチラチラと見せ付けた。
「ちょっと小耳に挟んだんだけど、あんた卒業したら女子プロレスラーになるのが夢なんだって? でも両足のアキレス腱が、ぐちゃぐちゃになるほど切れた、なんてことになったら、そんな夢叶えられるかな?」
なに?
カバ子は押さえ付けられたままアカを睨みつける。
「警察に訴える? 無駄よ。私達のアリバイ工作はしっかりやるよ。私に協力してくれるこういう連中は沢山いるんだから。証拠もない。あんたが暴力的なのも有名。私が頼めばあんたが私を貶めるためにデタラメを言っているとクラスのみんなだって口裏合をわせてくれるわ。あの山木の時と同じようにね」
馬鹿な理屈だ。そんなの警察等がしっかり調べればすぐにバレるぞ。山木先生の一件の時、リューイチが警察に被害届を出さず示談で済ませたのは警察に調べさせない為だ。あの程度の件で、被害届もなく示談で済んでいるのなら警察もわざわざ事件にしないだろう。でもアキレス腱を切るなんて、そんな凶悪なことをすればさすがに警察も動く。しかし、いまカバ子を押さえ付けている連中はアカのそんな理屈で上手くいくと思っているようで、アカに「早くやれ!」と大声で急き立てている。
「わかってるわよ」
アカがカバ子の足にしゃがみこんだ。
さすがにこれはまずい!
「おい待て!」
体が勝手に動いた。スマホ動画を撮りながら大声で前に出て行く。
「さっきからお前らがやってたこと、ずっとスマホで撮影してたぞ! これを警察に突き出してやる!」
全身が震えた。もう確実にやられてしまう。いじめでの殴られたり蹴られたりなどはあるがこういう連中にやられるのとはまた違うだろう。
「お前……」
アカが驚いたように僕を見る。他の男4人も僕を睨みつける。逃げるか? いや、僕の足じゃすぐ追いつかれるし、僕のいない間にカバ子が何をされるかわからない。
「あいつ、捕まえて」
アカがそう言う前に、カバ子の両足を押さえていた2人が鬼の形相で近づいてきた。致命傷でなければ女神に治療してもらえる、と思ったが、
「スマホもぶっ壊して!」
というアカのその言葉に「わかってるよ」と2人の男が言った。それはまずい。せめてこの動画だけは確保したい。
――くそ、何か願いをするしかない。
(おい! 女神!)
「ん? 何?」
こんな状況でも相変わらずのんびりとした女神の声がする。
(スマホを壊されないように、スマホを硬質化するとかできないか?)
「スマホってのはある程度の衝撃で壊れるものだろ? それを硬質化するってのは”自然に変化や影響をもたらす”ことになる。石を柔らかくするのと同じでできない」
そういう”自然”もダメなのか。
いや、待てよ。この動画をメールで家にある僕のパソコンに送ればいいんだ。と思ったが、ただでさえ手間のかかる作業なのにこんなに焦っていたら上手くいくわけない。2人はもうそこまで来ている。あ、そうだ!
(女神! 今日の願いだ。さっきこのスマホで撮影した動画をメールで家にある俺のパソコンに送信してくれ!)
スマホで動画をメールで送るなんてことは当たり前にできることだ。それを女神に頼みさえすればいいんだ。
「その願いを叶えましょう」
女神がそう言ったと同時にスマホの画面が瞬間的に動いた、と思ったら『メールの送信を完了しました』と画面に表示された。が、それと同時に恐ろしい顔をした男に胸倉を捕まれた。
僕はとっさに
「撮影した動画はメールでパソコンに送った。このスマホを壊しても意味ないぞ」
と震える声でなんとかそう言った。今日はもう女神に治療してもらうこともできない。
もうひとりの男も「なんだこのやろ。殺すぞ」と僕の髪を横から鷲掴みにした。やられる、そう思った瞬間「おいバカ! 足を離すな!」「こいつ、立つぞ!」という声がした。見ると、カバ子が自由になった両足を立てて、「ふがあ!」とこもった叫び声を上げながら押さえられている両腕をパワーリフティングの選手かのように持ち上げようとしている。そしてそのまま男たちから両腕を引き抜いた。男はふたりとも尻餅をつく。「この!」とふたりとも体を起こしてカバ子に掴みかかろうとする。が、その中腰のような体勢がよくなかった。カバ子はふたりの顔面にサイドキックを一発ずつ食らわせた。凄いスピードとパワーで、嫌な蹴り音がしてふたりとも「ぎゃあ!」と叫んで顔を両手で覆ってその場に倒れた。
「このやろ!」と僕の胸倉を掴んでいた男がカバ子に向かって行く。カバ子は相撲取りのように構えて向かってくる男にやはり相撲取りかのようにタックルして腰に組み付いた。さらにそのまま大木でも引っこ抜くかのように男を持ち上げる。「おお?」と男は戸惑ったように足をバタバタさせるがカバ子は左腕だけで男の腰を抱え、右腕でバタつく男の両足を抱えた。男はいわゆる”お姫様だっこ”のような状態になる。カバ子は男をそのままさらに高く持ち上げ、アスファルトの上に男の腰を叩きつけた。「ぐがあ!」男は尾てい骨あたりを押さえて叫びながらその場でのたうち回った。あれは痛いぞ……
カバ子は口のダクトテープを剥がすとアカの方に向かって行く。
アカは
「来るなあ!」
とナイフを持った右手を伸ばして威嚇するが、へっぴり腰でナイフを持つ手も震えていてまったく威嚇になっていなかった。カバ子はそんなナイフなど気にすることもなく両手でアカの胸倉を掴む。
「このくそアマ! 何が1対1で堂々と勝負する、だ!」
そう怒鳴ると固めた大きな右拳でアカの腹を殴った。
「ぐう!」
とうめき声を上げてアカがナイフを落として腹を抱えてうずくまった。そしてカバ子はこちらを睨んだ。僕の髪を掴んでいた男も僕も「ひっ!」と怯えの声を上げた。おそらくキョーリューの2人でもあんな恐ろしい顔は見せたことがないだろう。目がつり上がり、その目は血走り、顔は真っ赤で歯を噛み締めている。頭から湯気が出ているようにも見えた。そのあまりの迫力に髪を掴んでいた男は逃げ出した。
「待てコラァ!」
カバ子は追いかける。速い。いつもの鈍足とはまったく違う。僕は慌てて後を追いかけた。男の逃げ足も速いがこれはもうすぐカバ子が追いつくぞ。そうなったらあの男もどんな目に遭うか……ってなんでさっきまで僕の髪を鷲掴みにしていたやつの心配なんかしているんだ。
でもカバ子がやろうとしている行為はまずい。
(おい!)
女神に問う。
「なに?」
のんびりした声がムカつくがそれどころじゃない。
(カバ子がさっきやったことは”減点”になるか?)
「あの4人にやったことは正当防衛になるね。男3人は襲い掛かってきていたし、アカも最後までナイフを持って脅していたから」
(じゃあ、あの逃げている男をカバ子が捕まえてボコボコにしたら?)
「それは正当防衛にならない。立派な暴行・傷害で減点行為だね」
僕はなんとかカバ子に追いつき、太い左腕を右手で掴んだ。
「まずいですよ、木村さん」
と止めようとするが、もの凄いパワーで止めることはまったくできず、情けないことにまるでマネキン人形かのようにズルズルと引きずられた。
カバ子は
「邪魔だ!」
と僕を振りほどこうとする。
「まずいですって」
僕は持っていた鞄を手放して両手でカバ子の腕を掴んだ。それでなんとかカバ子の勢いを少し止めることができた。
「うるせえ! あいつもぶん殴ってやる!」
なんとか説得しないと。でもこれだけ興奮しているバカ力の人間をどう説得する? まさか『減点になります』なんてわけのわからないことを言えるわけがない。僕はこの状況の中、なんとか落ち着いて考えた。
「木村さん、さっき聞いたけど女子プロレスラーになりたいんでしょ?」
「ああ! あのアマどこで小耳に挟んだ?」
まずい、余計興奮した。僕は必死になって言った。
「だったら事件を起こしたらまずいですよ」
カバ子の勢いが少し落ちた。
「それにさっきの連中が回復したらまた来るかもしれませんよ? ナイフも持っているような連中です。そんなやつらを同時に相手にしたらさすがにカバ……じゃなくて、木村さんでも敵わないでしょ?」
カバ子はようやく立ち止まって睨むように来た方向を振り返った。
「あいつら追いかけて来たりしてないか?」
「いまのところは大丈夫みたいですけど、でもいつ来るかわかりませんよ」
僕がこの場で考えたにしてはなかなかの説得方法だと思う。カバ子は鼻から「ふうー」と大きく息を吐いてなんとか落ち着いたようだ。
「だからもう止めましょう。とりあえず人の多いところまで行きましょう」
ともう一押しカバ子を説得した。すると
「くそっ!」
とカバ子は吐き捨てるようにそう言うと、憤懣やるかたない、という感じでではあるが歩き始めた。どうやら諦めてくれたようだ。僕も手放した自分の鞄を手に取り、ふたりで団地道を足早に下って行く。とにかく早く人のいる場所に行った方がいい。
「あいつ、私と1対1で堂々と勝負したいって喧嘩売ってきたから買ってやったんだ。でもどんどん人気のないところに行くからおかしいとは思った。でも何をしようが私がこいつに負けるわけないと侮っていた。そしたらさっきの連中が待ち伏せしていた。考えてみたらあんなやつが堂々と勝負しようなんてことするわけない。まったく、頭が悪いってのは損するな!」
カバ子は大股で歩きながら大声でそんな愚痴を言う。僕は「そうですね……」と弱々しい声で同意する。上司の機嫌を取る部下ってのはこんな感じなのだろうか?
ようやく人目のあるところまで来た。そのころにはカバ子もだいぶ落ち着いていた。
「しかし、お前のお陰で助かったな。アキレス腱をめちゃくちゃに切られるなんてことをされていたらプロレスラーなんて無理だ。少なくともかなり難しくなる」
カバ子は僕を見て
「ありがとうな。恩に着るよ。ひとつ借りができたな」
そう礼を言ってから
「しかし、やるじゃないか。あんな連中を脅すなんて。見直したぞ」
と感心したように僕のことを褒めてくれた。
「いえ、木村さんがやっつけてくれなかったら僕もどうなっていたことか」
「カバ子でいいよ」
カバ子はそう言って笑った。
「普段はそう言っているんだろ? さっきも言いかけてたし」
確かに。しかし、さすがに本人を目の前にしてそんなあだ名で呼ぶのも気が引ける。僕は少し考えてから
「じゃあ、せめてカバ子さんと言います」
と言うと、カバ子さんは笑った。よかった、とりあえず機嫌は良くなったようだ。そしてカバ子さんは
「そうだ。さっき撮ったっていう動画だけど私にも送ってくれないか?」
と言ってスカートのポケットからスマホを取り出した。
「スマホは……大丈夫みたいだな。あんたの言う通りあの連中がまたいつ来るかわからない。その時は相手になってやるが、それでもいざという時の為の保険として持っておきたいからな」
なるほど、と思って僕はカバ子さんとライン交換してラインから動画を送った。
「うん。これはよく撮れている」
カバ子さんはすっかり機嫌も直ってご満悦のようだ。でもそこで深刻な面持ちになって言った。
「お前も早く帰った方がいいぞ。あいつらがやってきて見つかったらお前だって何をされるかわかったものじゃない」
そう言えばそうだ。くそ、僕もタチの悪い連中に関わってしまった。それにしても咄嗟のことだったとはいえよくあんなことができたな。普段の自分じゃ考えられない行動だ。ひょっとすると気の強い父と母の血を少しは受け継いでいるのかもしれないな。
翌日、教室の前に腕組みして仁王立ちしているカバ子さんの姿があった。僕はひやりとした。まさかアカを待っているのか?
キョーリューの2人は
「何やってんだお前?」
とポカンとした顔で訊いたが、カバ子さんは無視する。2人とも「ケッ」と言って教室に入った。そしていつものように教壇に立って「重雄と信矢に手を出すな」と言ってくれた。最近はそればかりなので皆もうロクに返事もしなくなっていた。
僕はカバ子さんのことが気になって仕方なかった。教室の外に出ると、カバ子さんに
「あの、もしかしてアカに何かしようと?」
と恐る恐る訊いた。でもカバ子さんは首を振って、落ち着いた声で言った。
「違うよ。心配するな」
しかし何もしなくても威圧感のある人なので、そんな人が教室前で構えているというだけで不安になる。しばらくしてカバ子さんは
「くそ、来ねえな」
と呟くと、なぜか教室内に入った「え?」と僕が思ったのと同様、教室内の皆も「なんだ?」という空気に包まれる。カバ子さんはアカ軍団をみつけるとアイラに歩み寄り、
「ちょっと来てくれ」
と有無を言わせずアイラの腕を引っ張って廊下に連れ出した。僕は冷や冷やしてその様子を見ていた。
キョーリューの2人も廊下に出てきた。
カバ子さんはアイラに小声でなにか訊いている。
「おい、何をやってんだよ」
キョーイチがカバ子さんとアイラに近づきながらそう呼び掛けたがカバ子さんは、
「うるさい! お前らには関係ない!」
と、怖い顔で怒鳴った。その迫力にキョーリューの2人も一瞬たじろいだが「ああ?」と怒り顔になってカバ子さんに迫って行く。が、そこでカバ子さんが
「あ、そう。ありがとうよ」
と何か納得したように言うと行こうとする。「おい!」リューイチが大声でカバ子さんの後姿に向かって叫んだが、カバ子さんは無視してそのまま行ってしまった。
「何を訊かれたんだよ」
リューイチがアイラに訊く。
「アカのスマホの電話番号を聞かれた」
アイラも困惑顔でそう答える。
「なんだそりゃ? アカとあいつ何かあったのか?」
「今日、アカが来てないことと何か関係があるのか?」
キョーリューはそうアイラに訊いたが、
「わからない……」
とアイラは首を振った。昨日のことを本当に何も知らないのだろうか? でもとぼけているようには見えなかった。
「お前は何もされなかったのか?」
「ああ、お前に何かあったら俺たちが困るからな」
「大丈夫よ。ていうか、止めてよこんなところで……」
キョーリューとアイラは何かそんなことをコソコソ言っている。
昼食を終え、避難地区で――なぜかここに来てしまう――重雄と話してると、そこへカバ子さんが来た。僕も重雄も「ん?」と思ったが、カバ子さんが重雄に
「悪いけど、ちょっと外してくれ」
と言うと「はい」と重雄は恐れるようにそそくさと行ってしまった。カバ子さんは別に脅す気はないのだろうが、とにかく威圧感があるのだ。
重雄がいなくなると、カバ子さんはひとつ息を吐いて
「朝、アカが来なかったからあの女にアカの携帯番号を聞いたんだ」
僕はうなずいた。それは知っている。
「で、かけてみたけど出なかった。まあそうだろうな。でもボイスメールが設定してあったからこう言っておいた。『お前と昨日みたいな連中が私と信矢と亜由美にもう何もしなければ私も何もしない。ただし何かしたら信矢が撮影した動画を警察に突き出してやる』てな」
僕は驚いて、
「大丈夫なんですか?」
と目を見開いて訊いた。そんなことをすれば余計にアカやあのタチの悪そうな連中を怒らせることになるかもしれない。
「さあな」
カバ子さんはあっさりと言う。
「でもあいつの面子は立ててやったつもりだ。学校で直接そんな話をしたらあいつの面子は丸潰れだと考え直したんだよ。あいつ、おそらくあのクラスで女子の中じゃトップなんだろ?」
僕はうなずく。
「だからスマホでそう言ってやったんだよ。それでも何かしてくるようならその時はもう一切の容赦はしねえ。いろいろな意味でな」
カバ子さんは少し怖い顔になってそう言った。
「ま、だからもし何かあったら私に言って来い。もちろん、お前が警察に行ってあの動画を突き出してやってもいい。ただ、それはあくまでも次に何かしてきたら、だ。今回の件は猶予を与えてやる」
まあ、カバ子さんがそれでいいなら。
「わかりました。ありがとうございます。僕らのことまでわざわざ」
と僕はお礼を言った。
「いや、これは私の為でもあるからな。これで昨日のお前の恩を返したとは思ってない」
義理堅い人だなあ。感心する。
「じゃあな」
とカバ子さんは軽く手を振って非常階段の方に行ってしまった。また非常階段の踊り場で昼寝をするんだろうか?
翌日、アカは何事もなかったように登校してきた。そして僕にも特に何も言わなかった。目を合わせようともしなかった。でもあの連中にまた狙われるかもしれない。そう思うと怖かったが、それもなかった。
しかし、災いはまったく予期しないところからやってきたのだ。
月曜日、いつものようにキョーリューに図書カードを渡した。2人はもはや図書カードをどうしてそんなに貰えるのかということに疑問を抱かなくなっていた。そしていつものように教室で僕らに手を出すなと皆に言った。
僕も重雄も安心していたのだが、授業中、僕の後頭部に小石が当たった。え? と思って振り向くと何人かがニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた。僕が顔を前に戻すとまた後頭部に小石が当たった。なんだ? もう一度振り向くと何人かが吹き出して笑っている。変だな。友達料を払っているのに。と思っていたら、重雄の方も小石をぶつけられていた。なんだ? 一体どうなっているんだ?
さらに授業間の休みの間に背中を蹴られたり、すれ違いざまに腹を殴られた。重雄に訊くとやはり同じような被害に遭っていた。
「どういうことだよ?」
と重雄も頭を抱えていた。
翌日にはさらに酷くなっていた。毎時間、どの授業でも石をぶつけられる。休み時間には蹴られ、殴られる。さらにとび蹴りや、足を引っ掛けて倒されたり、すれ違いざまに唾をかけられる、プロレス技をかけられるなど明らかにいじめが再開していたのだ。
翌日、僕はキョーリューに図書カードを渡すときに言った。
「またいじめられているんだけど。どうしてなんだ?」
僕は真顔で言ったが、2人は明らかにとぼけた顔で「さあ?」と言うだけだった。僕はなんとか勇気を振り絞って言った。
「友達料は払っている。いじめられないようにしてくれよ」
しかし、2人は凄みのある顔になって
「ちゃんと毎日お前らに手を出すなって言っているだろ? 今日だって学校行ったらそう言ってやるよ」
と迫ってきた。
「それでもいじめられているんだ」
僕が言うと、
「しつこいな!」
とキョーイチは怒鳴った。リューイチも
「知らねえよ! じゃあ何か? 俺たちにお前らのボディーガードでもしろってか?」
と怒鳴る。
「いや、でも……」
そこでリューイチに胸倉を捕まれてそのまま用水路の欄干に押し付けられた。
「もう一度言う。俺たちはちゃんと毎日お前らに手を出すなと言っている。それ以上どうしろと言うんだ?」
もう何も言えなかった。学校に行って、教室に入ると確かにリューイチは僕らに手を出すなと言った。しかし、それに対する返事はない。そういえばここのところ返事がなかったな。みんな了解していなかったんだ。その日もしっかりいじめられた。
家に帰ってから僕は女神に怒鳴った。
「おい! いじめをやめさせてくれよ!」
「だからそういうのは無理だって」
女神はしれっと答える。
「なんなんだよお前は! 神なんだろ? なのに、俺に付きまとっているだけでほとんど助けてくれないじゃないか!」
僕はまた怒鳴る。
「八つ当たりは止めてくれ」
女神はいつものようにしらけた顔でそう言うだけだった。
確かに八つ当たりだった。しかし、そうでもしないとあまりにも理不尽だ。いじめられないようにこいつに図書カードを頼んでようやく収まったと思ったのに、どうしてこうなるんだ。何より、願い事を叶えてくれる女神なるものが現れたのにこいつは大して役に立たない。なんなんだよこの状況は?
それでも改めて考えてみた。何かいじめを止めさせる方法がないかと。このポンコツ女神を使って何かできないかと。何か良い方法があるのかもしれない。でも僕のこの拙い頭ではもう何も思いつかなかった。
次の日も同じようにいじめられた。しかもキョーリューの2人がいじめにしっかりと加わるようになっていた。的当てゲーム以外はほとんど元通りにいじめられている。
そして図書カードを渡した金曜日も同じくだ。もはや友達料やキョーリューの言い付けなど完全に形骸化していた。
昼休みに重雄と2人で食堂でラーメンを食べようとしたところにリューイチが僕のラーメンに、キョーイチが重雄のラーメンにそれぞれ唾を吐きかけた。僕も重雄も呆然としたがキョーリューの2人は大笑いしながら去って行った。重雄が泣きそうになっている。
「重雄。俺、まだ金に余裕があるから、それで奢ってやるから」
僕はそう言ってなんとか重雄をなだめた。一番安いすうどんを2人分買って、今度は周囲を警戒し、注意を払いながらなんとか腹を満たした。
重雄は食堂では泣かなかったが、避難地区で号泣した。
「なんだよ! どうしてこうなるんだよ! せっかくお前が友達料を払ってくれているのに、なんでまたいじめが始まるんだよ!」
短い間だったが、重雄にとっていじめのない期間があった。一度そういう幸せを味わえたが故に余計に辛いだろう。僕だって泣きたかった。
「やっぱり無理なんだ。俺がいじめられずに生きることなんて。もう疲れた……」
その言葉に僕はどきりとした。まさか、死ぬことなんて考えているんじゃないだろうな?
(なあ? もしいまの重雄が自殺したらどうなる?)
僕は女神に訊いた。
「地獄行きだね」
くそ。やっぱりそうなるか。
「なあ、変な間違いは犯すなよ」
僕はそう念を押しておいた。地獄行きになるから、なんて説明してももちろん理解してもらえないだろうけど。
「全部あいつらのせいだ。キョーリューのせいだ」
泣きながらそう呪詛でも唱えているかのように重雄は呟く。
僕は大きくため息をついた。
翌日の土曜日は逃げるように帰宅すると相変わらずのんきに浮遊している女神を見ながらなんとかできないかと強く再考した。
カバ子さんに守ってもらう? いや、ダメだ。四六時中僕らを見守るなんてことできるわけないし、できたとしても1学年上のカバ子さんが卒業したらそんなことはもう不可能になる。この女神は全然役に立たない。何かないのか? 僕は頭を抱えて掻きむしった。
そして顔を上げた。
こうなったら……ノートパソコンの電源を入れた。アニメ目的じゃない。youtubeで格闘動画などを片っ端から観た。使えそうなものもあったが、いずれも習得するにはかなりの時間がかかる。
しかしそんな中でも「これならなんとかいけるか?」というものを見つけた。僕は迷った。本当にこんなことをして大丈夫なのか、と。でも他に何も解決方法を思いつかない。
その日から僕は筋トレを始めた。腕立て、背筋、スクワットをそれぞれ30回、腹筋だけはなんとか50回やった。腹を殴られるのはヘタに顔なんかを殴られるより効く、腹筋を鍛えるのは基本だとネットの情報で見たのだ。さらに女神にハンドグリップを願った。ハンドグリップは5000円もするものはほとんどない。それで握力を鍛える。握力も格闘では重要だと知ったのだ。そして、僕は両手を伸ばし、手の平を起こした状態ですり足で移動する練習をした。目の前に人がいると想像して、手で相手の顔や頭や肩等を押すことをイメージする。「なにやってんだ」という女神の声がするが、無視して続ける。
次の日、全身筋肉痛だったがなんとか同じトレーニングを続けた。
そして月曜日。図書カードを取られ、僕と重雄はしっかりいじめられた。それがまた毎日続いた。ひとつ幸いだったのは昼食を食べることはできたということだ。以前のようなことがないように周囲にかなりの注意を払いながらだが、それでも空腹を満たすことはできた。
僕はいじめられながらもなんとか体を鍛え続けた。
そして土曜日。今週はいじめられない日はなかった。重雄の目は澱みきっていた。もういつ間違いを犯しても不思議ではないように見える。
キョーリューの2人にスマホを返してもらうとき、僕は大きく息を吸うと言った。
「お前らに、喧嘩を売りたい」
重雄が目を大きく見開いて僕を見た。
「は?」
とキョーリューの2人はほぼ同時に言ってポカンと口を開けた。
「お前らと喧嘩したいんだ」
僕はもう一度はっきりとそう言った。
キョーリューはしらけた顔でポカンと口を開けている。重雄はまだ驚愕の顔で唖然と口を開けて僕を見ている。
「はいはい。そういう冗談はいいから、早くおうちに帰っていじめられないようにしろよ……」
キョーイチはため息混じりに言って取り合おうとしなかった。リューイチも同じだ。
「逃げるのか?」
僕は挑発した。
「あ?」
2人とも僕を睨む。僕はその顔に負けず真正面から2人の顔を見た。
「あのな、お前の為に言ってやっているんだぞ? てか、これ以上俺を怒らせるな」
リューイチが凄みながらも面倒臭そうに言う。
「お前らの取り柄はパチンコと喧嘩が強いことくらいだろ?」
僕はさらに挑発する。
「はあ?」
2人の顔色が変わった。正直逃げ出したいほどの恐怖を感じる顔だった。重雄が「おい、止めろよ……」と、震える小声で僕に言う。
「やってやろうじゃねえか」
キョーイチが近づいてくる。僕はそこで
「ただし、条件がある!」
と張りのある大声で言った。キョーイチの動きが止まる。
「まず、ハンデがほしい。お前らは喧嘩が強いんだろ? まともにやり合っても俺が負けるのは当然だ。そうだろ?」
キョーリューは顔を見合わせた。
「それともハンデがあったら勝つ自信がないのか?」
「てめえ……」
キョーイチがさらに近寄ってきたがリューイチがそれを手で制した。
「面白いじゃねえか」
リューイチはニヤリと笑う。
「どんなハンデだ?」
と口だけで笑いながら訊いてくる。
「下半身への攻撃は止めてくれ」
下半身への攻撃、特に金的への攻撃がなくなるだけで相手の攻撃力をかなり削げるはずだ。
リューイチは小ばかにするようにふんふんとうなずく。
「そして、はっきり言って俺がお前らを倒すことは不可能だ。だから1人5分間、2人合わせて10分間、そっちの攻撃に俺が耐えられたらこちらの勝ちにしてほしい。その代わり、こっちは両膝を着いたらもうその時点で負けだ。ダメージを受けてなくて喧嘩を続けることができる状態であってもだ」
「5分? 5秒の間違いじゃないのか?」
リューイチは笑う。そんなリューイチとは対照的にキョーイチは
「何が『その代わり』だ。それはお前がやられ過ぎない為の、自分を守る為の、お前にだけ都合の良いルールじゃねえか」
と、僕の胸倉を掴んだ。
「まあ、待て待てキョーイチ」
リューイチはそう言ってキョーイチを落ち着かせる。
「いいぞ。その程度のハンデでいいなら」
そういやらしく笑みながら言ってうなずく。
「それと、素手であること、1対1であることだ」
「当たり前だ! お前相手に武器やふたりがかりが必要なわけないだろ!」
さすがにイラついたようにリューイチは大声を出した。
「そして最後、これが絶対的な条件だ」
「なんだよ!」
リューイチは苛立ちを最大にしたように怒鳴る。
「俺が勝ったら、もう俺や重雄をいじめるのは止めてくれ。他の連中にもしっかりとそう言いつけてくれ。もう友達料も払わない」
はあ、とキョーリューの2人はうんざりしたような深いため息をついた。
「わかったわかった、約束してやる。でも意味のない約束だぞ。お前が負けるのは決まっているんだから」
面倒臭そうにキョーイチはうつむいて後頭部をボリボリと掻いた。
「じゃあさっそく……」
とリューイチがこちらに迫って来たが、
「学校内や人目のあるところじゃまずいだろ。人気のない所に移動しよう」
僕は強く言って迫るリューイチを止めた。
「おいおい、いいのか? それじゃあお前は誰にも助けてもらえないぞ?」
リューイチはついにあくび混じりに言った。「ああ」と、僕はうなずく。
「どこでやるんだよ?」
「いいところがある。そこへ行こう」
「面倒くせえなあ」
キョーイチがまた深いため息をついた。
僕は「行こう」と2人に言ってから、「お前は帰ってくれ。そして俺の勝ちを祈っていてくれ」とまだ呆然としている重雄に言った。僕が歩き始めると2人はだらだらと面倒臭そうについてくる。重雄は最後まで呆然としてそんな僕らを見送っていた。
先日、カバ子さんがアカに連れて行かれたあの場所に向かう。もちろん、誰も待ち伏せなどしていない。
「どこまで行くんだよ」
「もういいだろここで」
キョーリューの2人のダルそうな声が聞こえるが僕は宅地造成地帯を無言で上って行く。正直、とんでもなく怖い。心臓が破れるかと思うほど高鳴っている。吐きそうだ。でもやらなければ。
カバ子さんが襲われていた場所まで来ると、
「ここだ」
と僕は鞄とスポーツバッグを置いた。
「やっとかよ」
キョーイチとリューイチはまったく緊張感を感じさせない、面倒臭そうな声で言う。
「俺たちが山側に行ってやるよ」
と、リューイチが上の方に歩いて行く。
「お前がこっち側じゃあ泣いて逃げられないだろ」
リューイチがそう言うとキョーイチが「そう言えばそうだな」と笑った。
僕はそんな2人のことなど無視して深呼吸すると全神経を集中させ落ち着かせた。でもちょっと油断したら全身が震えそうだ。大丈夫、致命傷じゃなければ女神に治してもらえるんだ。自分に必死にそう言い聞かせる。
そんな僕とは対照的な様子でキョーリューの2人はのんきにジャンケンをしていた。どちらが先に僕とやるか決めているようだ。結果、リューイチが勝った。
「ああ、くそ」
とキョーイチが悔しがる。
「はい、もうお前の出番はなしね」
リューイチはそう言うと、手をポケットに突っ込んでこちらに来る。キョーイチは自分の鞄を座布団代わりにしてその場に座った。
「5分計ってくれ」
僕はキョーイチにそう頼んだ。キョーイチは「はいはい」とうなずいて、まずタバコを取り出して吸い始めてから、スマホをいじり始めた。
「ほら、タイマー5分にしてやったぞ」
そう言ってやる気なさそうにスマホ画面をこちらに見せた。
「よし、じゃあ始めだ」
リューイチが余裕な顔と声で言うと同時に僕は足を前後に広げ両腕を伸ばし、あごを引いて顔を伸ばした両腕の中に隠し、上目遣いでリューイチを見ると手の平をリューイチに向けた。
「なんだそりゃ? なんの構えだ?」
リューイチがあざ笑う。が、次の瞬間、僕に掴みかかってきた。僕は下腹に力を込めて伸ばした腕で掴んできた腕を振り払い、さらに片手でリューイチの顔を押した。
「お?」
とリューイチが少しバランスを崩した。が、すぐに元に戻って
「このやろ」
とこちらに向かって来る。僕はすり足で移動しながらやはり腕を伸ばして手を出してきたリューイチの顔を押しのけるようにしていなす。さらに続けて肩を押していなした。またリューイチはバランスを崩して今度は少しよろめいた。リューイチは一瞬「え?」という感じの顔になったが、すぐに
「この!」
と、飛び掛ってきた。先ほどまでと違ってかなりの力だ。それでも僕はなるべく冷静に伸ばした腕でリューイチの顔や頭を中心に肩や腕も押していなす。そんなやりとりが何度も続く。でもキツくなってきた。時間はまだか? ひたすら時間が経つことを祈った。が、
「てめえ!」
と怒鳴ったリューイチに僕の両手首を上からガッチリと掴まれた。手首が潰れるかと思うほどの力で僕は顔をしかめる。さらに掴んだ僕の両腕を左右に広げながら同時に自分の方に引き寄せるように斜め下に強く引っ張った。もの凄い力で僕はまったく抵抗できず、前に大きくバランスを崩した。なんとか倒れなかっただけでも頑張った方だと思う。しかし、大きく前のめりになって腕のガードがなくなった僕の腹に、リューイチは硬い拳をぶつけてきた。「ぐうっ!」僕はうめき声を上げた。さらに腹に何発かのパンチをもらって足の踏ん張りが効かなくなったところでまた両腕を掴まれ、強く引っ張られると僕はアスファルトの上にうつ伏せに倒された。
「はい、終了」
キョーイチが言った。
「お、残り時間2分27秒だ。半分以上は保ったじゃないか」
キョーイチは本気で感心するように言う。しかし、リューイチは「このやろう!」と僕のわき腹に蹴りを入れてきた。ダメだ、完全に怒らせてしまった。僕は手足を丸めて亀のような状態になった。しかし、リューイチは僕のシャツを掴むと仰向けにひっくり返した。そして容赦なく全身に蹴りを入れてくる。僕は顔を両腕で包み込むようにガードして、腹部は折り曲げた足でなんとかガードした。怒りにまみれたリューイチは僕の頭部まで狙って強烈な蹴りを何度も打ってくる。
くそ! やっぱりダメだったか。僕がyoutubeで観て必死に練習したのは格闘術でも喧嘩術でもない、護身術だった。相手に勝つための方法ではなく相手から身を守り、逃げるための技だ。両腕を伸ばすことで相手は攻撃しにくくなる。さらにあごを引いて顔を守り、向かって来る相手の顔や肩などを押してバランスを崩し、隙を作ってその場からエスケープする、というものなのだ。相手を制圧する為の術ではないのだ。筋トレもしたがそんな付け焼き刃のトレーニングでとても5分も耐えられる相手ではなかった。最初は舐められていたからなんとか対処できたのかもしれない。でもちょっと本気を出されたらこの有様だ。
リューイチは
「ぶっ殺してやる!」
と、怒鳴りながら僕を蹴り続ける。キョーイチが
「おい、やり過ぎだ」
と言うが「うるせえ!」と怒鳴ってまったく取り合わない。
「教えてやる! お前らはいじめられる為に俺たちのクラスにいるんだよ! なのにしばらくお前らのどちらもいじめられなかったから、みんなストレス溜まりまくっていたんだよ! お前らは俺たちのストレスの捌け口なんだ! わかったか! これからも一生いじめられて生きろ!」
「リューイチ、お前はもう17歳なんだ。16歳以上が人殺ししたらどうなるか知っているよな?」
キョーイチがそう止めるが、リューイチはやはり「うるせえよ!」とまったく意に介さない。
「まったく……」
とキョーイチが立ち上がったその時だった、
「おい! キョーリュー!」
という怒鳴り声が道路の下の方から聞こえた。見ると、そこにいたのは重雄だった。そしてあれは……重雄は小刀を両手で強く握っていた。アカの時の様なへっぴり腰ではなく、がっしりと小刀を掴み、どっしりと構えている。そして、あれは頭に血が上っていて冷静な状態じゃない、ということがはっきりとわかる顔だった。さらにあれは単なる怒りの顔じゃあない。積もり積もった恨みの顔だ。
キョーリューに対する恨みの感情というのは僕だってよくわかる。それ故にこれはマズいと思った。脅しではなく本当にやりかねない。まさか重雄がこういう間違いを犯そうとするとは思いもしなかった。
「お前ら、ぶっ殺してやる!」
重雄はそう怒鳴った。重雄のあんな恐ろしい顔を見るのは初めてだ。やはり本気だ。
「おい、リューイチ。あれはマジだぞ」
「ああ」
2人は後退してそれぞれ自分の鞄を左手に持ち、更にポケットからターボライターを取り出して右手に持った。喧嘩の道具として常に携行していると聞いたことがある。やはり2人ともかなり喧嘩慣れしている。2人は冷静にいまの重雄の状態を分析して距離を取ってから鞄とライターを構えた。色々な格闘動画を見て知ったのだが、相手が例え素人でも頭に血を上らせて刃物を振り回す人間を素手だけで制圧するということはプロの格闘家や武術の達人、厳しい訓練を受けた特殊部隊や軍人でもかなり難しいことなのだ。いまの重雄はまさに頭に血を上らせて刃物を振り回す、という寸前の状態だ。それを見て2人は素手で対応しようなどとはせず身を守る為の盾である鞄と、矛であるターボライターで”武装”したのだ。
(おい、女神! 重雄がいま2人を刺したり、ましてや殺したりしたら、これは正当防衛なんかにはならないよな?)
「うん。傷害・殺人で減点……」
(もういい!)
「止めろ重雄」
僕は全身の激痛に耐えながらなんとか立ち上がった。
「どけ、信矢!」
重雄が怒鳴る。
「ダメだって……」
重雄が2人を刺したとしても、逆に2人に返り討ちにあったとしても、重雄にとっては最悪な結果になる。が、重雄はわけのわからない奇声を上げながら小刀を振り回して2人に突っ込んで行った。
重雄が僕の脇を抜けようとしたそのとき、僕はボールに飛びつくサッカーのゴールキーパーのように重雄に飛びついた。と同時に右手に激痛が走った。小刀の刃が僕の右手親指の下の少し膨らんでいるところから手首のあたりまでをスッパリと切った。血が大量に出てくる。痛みで僕は顔を歪め、その場にしゃがみ込んだ。
「え!」
それを見た重雄がそう叫んで動きを止めた。
「そんな……おい、大丈夫か?」
重雄は先ほどまでと打って変わって青い顔になって小刀を投げ捨て、僕に寄り添ってきた。僕は傷口を押さえるが血が止まる気配はまったくない。
「おい重雄……」
「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ……」
キョーリューの2人が怒りの顔でこちらに来る。まずい、と僕は咄嗟に重雄に覆い被さるようにして庇った。なぜそんなことをしたのかもわからない。が、そのせいでリューイチの蹴りがまた僕の体に突き刺さる。さらにキョーイチも加わる。さすがにもうこれは限界だ、と思ったその時、「おい、お前ら! 何をやっている!」という大声がした。作業着を着た50代くらいの男性がいた。この造成地の関係者だろうか?「喧嘩か? いじめか?」険しい声でそう言いながらポケットからスマホを取り出した。
「くそ、行くぞ!」
リューイチがそう叫ぶとキョーリューは、「おい! お前ら!」という男性の声を無視して走って行った。男性は慌てたようにこちらに来た。「君たち、大丈夫か?」と言ってからはっと息を飲んだ。「血が出てるじゃないか。救急と警察を呼ぶから」そう気遣ってくれたが、僕は
「大丈夫です!」
と大声で言うとその場から逃げ出した。「あ、おい」男性の声がするが全身の痛みに耐えて、右手の傷口を押さえながらなんとか走る。しばらくして公園が目に入った。そちらに向かって走り、公園に着くとそのまま真新しいトイレに駆け込み、手洗い場の蛇口を捻った。既に水が通っていて、勢いよく出てきた水で傷を洗い流す。でもただただ痛いだけだった。これはすぐに止血しないとだめだ。
「信矢!」
重雄が僕の跡を追ってきたらしく、ぜえぜえ言いながらトイレの中に入ってきた。僕の鞄とバッグも持ってきてくれている。その顔は真っ青だ。
「俺のバッグからタオルを出してくれ」
「ああ……」と重雄がタオルを渡してくれる。体育の授業後に、最近のこの暑さで汗まみれになった体を拭いた衛生的とは言えないタオルだが仕方がない。それで傷口を強く押さえた。でも血が止まる気配はまったくない。
「信矢、右手を高く挙げて!」
ああ、そうだ。傷口は心臓より高くしないと。僕は言われた通り右手を挙げた。左手で右手をタオルで押さえているのでバンザイするようなポーズになる。重雄は自分のバッグの中からスポーツタオルを取り出し、僕の右腕の根元をそれで固く縛った。その止血方法は難しいやり方なのだが……
「すまない。こんなつもりはなかったんだ」
涙目で必死に僕に謝る。
「わかってるよ」
僕はうなずくが重雄はかなり取り乱している。そんな重雄を見ているとなんだかこっちが落ち着いてきた。それにこの傷ならおそらく女神に治してもらえるはずだ。
(女神。俺のいまの傷、いや全身のダメージを治療できるよな?)
女神は僕を見て、
「うん。まあそれくらいなら」
とあっさり言う。僕は重雄に
「重雄、お前はもういいから帰れ」
と強く言った。
「え? でも……」
重雄が青い顔のまま驚く。
「キョーリューがまだ俺たちを探しているかもしれない。今度見つかったらもうただじゃすまないぞ」
そう言うと重雄の顔がさらに青くなった。しかし、どうするか迷っている。
「いいから、とにかく逃げろ」
重雄はしばらくの間歯を食いしばっていたが、
「すまない!」
と叫んで走って行った。それを確認してから女神に大声で願った。
「おい! 今日の願いだ。いまの俺の体のすべてのダメージを回復、治療してくれ!」
「その願いを叶えましょう」
体の痛みが消え去り、右手の傷もなくなった。いや、ほんの少し、1cmに満たない程度の傷跡が残ってはいるが。
「すげえな……」
「お! やっと僕の凄さがわかった?」
女神の嬉しそうな声が聞こえた。
「わからねえよ!」
僕は怒鳴った。なんて空気の読めないやつだ。
しかし、頭部を守れたのはラッキーだった。あの蹴りが頭や顔面に当たっていたら致命傷になっていたかもしれない。それとあのおじさんが来てくれたのもラッキーだった。あの造成地のどこかにいて、激しい騒ぎ声が聞こえたのだろうか?
とにかく落ち着こう。僕はゆっくりと何度か深呼吸した。それからそっとトイレの外を覗いた。そこではっとした。公園内に点々と血が落ちているのだ。ここに来るまでの道中にも道しるべのように血が落ちているかもしれない。キョーリューはそういうことには目ざとい。僕も早く帰らなければ。
僕は周囲を確認しながらなんとか人の多い場所まで来た。そこで少し安心し、それでもやはり周囲を警戒しながら駅に着き、電車に乗り、なんとか無事帰宅した。母もまだ寝ている。
しかし、自分の部屋に入ったところで白い制服のシャツが血だらけになっていると気がついた。いや、ズボンもだ。紺色だからシャツほどには目立たないが……真夏が近い暑さのせいで血がもう乾いてきている。これは普通に洗濯しても取れないか。僕は制服を脱ぐと押入れの中に放り投げた。母に見付ったら面倒だ。明日女神に制服の血を取ってもらうように願おう。
全身汗まみれであることにも気がついて、シャワーを浴びた。新しいシャツとトランクスに着替えるとどっと疲れが出てきた。ベッドの上に倒れるように横になると、そのまま深い眠りについた。
目が覚めた時は20時を過ぎていた。僕はゆっくり上半身だけ起こしてしばらくすると、ようやく今日やらかしてしまったことをはっきりと自覚した。
最悪の結果だ……キョーリューに喧嘩を売るなんて、ハンデがあったとはいえ、その程度で本当に自分の思い通りになると思ったのか? 図に乗っていたんだ。ここ最近、重雄の友達料を代わりに払ったり、林さんの傷跡を消したり、カバ子さんを助けたりして、どこか良い気になって自分という人間を勘違いしていたんだ。
あれだけのことをしでかして、これからどうすればいい? そう考えるともう深いため息しか出なかった。
僕は鞄からスマホを取り出した。そういえばまだ電源を入れてなかったな、と電源を入れて画面が表示されると、「うわ!」と思わず大声を出してしまった。キョーリューから大量の着信とラインが届いていたのだ。確認したくもない。
でもラインの中には重雄からのものもあった。それだけを開いてみる。
『本当に申し訳なかった』
小さくため息をついた。
女神に訊く。
「なあ? 重雄に罪はないよな? 減点にならないよな?」
「うん。君に被害を受けたという意識がまったくなければ罪にはならない。だから減点にはならないね」
唯一ほっとできることだった。
しかし、これからどうすればいい……
月曜日、僕はいつものトンネルで恐ろしい顔をしたキョーリューに会った。
「てめえ、着信もラインも無視しやがって」
リューイチは会うなりそう言って僕の腹を殴った。僕は「うっ」とうなって腹を押さえた。さらに髪を掴んできてうつむいていた僕の顔を無理やり持ち上げた。
「もう友達料なんか関係ねえ。ただ単に俺たちに金払え。お前はずっと俺たちに金を払って、いじめられる高校生活を送れ。遺書に俺たちの名前を書いて自殺するなんて卑怯なことするなよコラ」
やっぱりこうなるよな……
「土下座して謝れ。『うじ虫以下の僕があなたに喧嘩を売ってすみませんでした。二度と逆らいません』ってな。本当なら教室で皆が見ている前でやらせているところだ。でも俺に挑戦した度胸に免じてここで許してやる」
嘘だ。僕と喧嘩したことが皆に知られたら詳細を訊かれる。そうしたら2分以上僕を倒せなかったということを知られることになるかもしれない。それが嫌なんだ。キョーイチがリューイチほど怒っていないことを見ても、リューイチは屈辱に感じているんだ。
でも僕には選択肢なんかなかった。素直に土下座すると
「うじ虫以下の僕があなたに喧嘩を売ってすみませんでした。二度と逆らいません」
と言われた通り謝った。リューイチが僕の頭を踏みつけた。
「重雄の分もしっかり払らってもらうぞ。それと、いま持っている金も払え。とにかく金や金になるものを持っているなら全部よこせ。これから毎日な」
「おそらく重雄はもう学校に来ないぞ。ストレス解消の人間が1人いなくなった。お前が2人分を受け持つことになるぞ。覚悟しておけよ」
キョーイチがそう言った。しかし、僕が起き上がると
「あれ? お前……あの手の傷はどうしたんだよ?」
と僕の右手を見て訊いてきた。あ、と自分でも思った。
「かなり出血していたはずだぞ。あれ、相当ザックリやってたはずだ。まだ包帯巻いてるような状態のはずだぞ?」
しまった。確かにそうだ。ごまかしの為の包帯なんかを巻いておくんだった。林さんの傷痕を自己犠牲で負った時の教訓を生かせなかった。やっぱり僕は馬鹿だ。怖い顔をしていたリューイチまで不可解な顔をしていた。でも僕が黙っていると、リューイチは僕の頭を叩いて
「多目に血が出ただけで大した傷じゃなかったんだろ。こっちとしても大きな傷がないのは都合が良い。俺たちがやったこともバレないからな」
と言って「さっさと行け!」と僕を蹴飛ばした。
いじめははっきりと行われるようになった。キョーイチの言った通り重雄は学校に来なくなり、いじめも重雄の分まで受け負うようになった。僕のやったことは完全にただのやぶへびになってしまったのだ。的当てゲームも再開された。久しぶりに窓ガラスが割れた。「あちゃあ……最近やってなかったから腕がなまったか」エイジが悪びれる様子もなくそんなことを言った。図書カードはもちろん取られ、有り金も毎日全部取られたのでまた昼食を食べることができなくなってしまった。
そして、重雄とはまったく連絡が取れなくなった。スマホは着信拒否、ラインはブロックされた。メールも同じくだ。
木曜日に担任の先生のところへ行った。重雄は来ないんですか、と訊いた。先生も困ったような顔で「お母さんとは話したんだが、本人とは話せない」とため息を吐いた。「お前、重雄と仲が良かったよな? ひょっとして何か知っているのか?」もちろん知っている。でも他言できるわけがない。
「いえ、知りません。だから学校に来ないことも気になっているんです」
そんな嘘を言った。嘘はどれくらいの罪でどれくらいの減点になるんだ? いや、そもそも嘘は罪になるのだろうか? どんな嘘かによって違うかな。そんなことを漠然と考えながら僕は土曜の授業が終わると重雄の家に向かった。先生は住所は個人情報ということで教えてくれなかった。だから女神に重雄の住所を教えてくれと願った。
家に着いて少し驚いた。まだ築5年程度かと思うくらいの真新しい家だった。
カメラ付きのインターホンを鳴らす。
「はい」
と、幼い声がした。
「重雄君と同じ高校の同級生で藤崎信矢と言います。重雄君はいますか?」
インターホンの向こうで少し迷っているような気配がした。
「少しお待ちください」
幼い声はそう言った。しばらくしてドアが開き、驚いた重雄の顔が出てきた。そして訝しげに僕の周囲をキョロキョロと見渡した。
「大丈夫だよ。俺だけだ」
僕は苦笑いしながら言った。
「ああ、インターホンのカメラで確認はしたけど……」
と言いながらしばらく警戒するように重雄は周囲を見回す。ようやく安心したのか「どうぞ。入ってくれ」と招いてくれた。
お邪魔します、と家の中に入った。
「いま、弟以外はいないから」
そう言うと、重雄は自分の部屋に入れてくれた。
「さっきインターホンに出たのは弟か」
僕は重雄の部屋を眺めながら訊いた。やはり真新しい感じだ。
「ああ。まだ10歳だ。俺と違って頭が良い」
重雄は真顔でそう言った。
「ひょっとして『父親がいないのにどうしてこんなに立派な家に住めているんだ?』とか思っているのか?」
重雄のその言葉に「ああ」と僕は素直にうなずいた。
「親父は2年前、この家を買ってから3年後に病気で死んだ。でも生命保険金がそれなりに入ってきたんだ」
なるほど。
「だからと言って余裕があるわけじゃない。だから母さんが必死に働いてくれている……」
と、そこで重雄は突然僕に向かって土下座をした。
「本当に申し訳なかった」
「止めてくれよ」
僕は困惑した。
「いや、お前の手を……」
と言いかけたが、あれ? と僕の右手を見て首を傾げた。やっと気がついたか。そしてやっぱりそういう反応になるか。最初は包帯を巻いて来ようかと思ったのだが、止めた。
「血は出たけど、結局大したことなかったんだよ」
僕は右手をしっかり見せてそう言った。この方が彼に罪悪感を与えないと思ったのだ。
「ええ? そうか?」
重雄はますます首を傾げた。
「いまの医学は進んでるしな」
と言ってなんとかごまかす。重雄は「でもたった1週間で……」と右に左に首を傾げる。
「まあいいじゃないか。とにかく大したことなかったんだから。だからそう気にするな」
そう言うとまだ納得できないようではあったが、「それならいいけど……」とつぶやいた。
ここの住所はどうやって知った、と訊かれ、
「先生が教えてくれたんだ。お前と俺は仲が良かったから特別にな」
とまた嘘を言ってしまった。
「『俺の傷は大丈夫だ』と伝えたかったから来たんだ」
「そうか。わざわざすまない。ラインも着信も全部拒否しててすまなかった」
「だから気にするなって」
そう僕が笑うと、しばらくの間静かになった。
「キョーリューと、お前の跡をつけていたんだ」
重雄がいきなり口を開いたので、僕はその意味が少しの間わからなかった。
「そうだったのか。全然気づかなかったな」
意味を噛み砕いて、飲み込んでから僕はうなずいてそう言った。
「お前がどうなるか不安でな。こっそり跡をついていったんだよ。そして陰からこっそり見ていたんだ」
僕がカバ子さんとアカの跡をつけた時と同じか。その時は僕も気づかれなかったな。
「あの小刀、実はいつも鞄に忍ばせていたんだ」
「そうなのか?」
「ああ」
重雄が強くうなずく。
「いつかあいつらをやってやろうと物騒なことを思いながら。でも使えなかった」
ずっとそんなことを……
「それが、お前がリューイチにボコボコにされているのを陰から見てて、さらにリューイチが、俺たちはクラスのストレスの捌け口だ、とか言った時にもうさすがにぶち切れて、自分でもわけがわからない状態になったんだ。そしてあんなことになった」
重雄は鼻から深い息を吐いた。
「そうか。まあ気持ちはわかるよ……」
またしばらく静まり返った。
「あのな、信矢」
「うん?」
「俺、他の学校への転入試験受けようと思っているんだ。それでいま必死に勉強中なんだ。もうあの学校には行けない。行けるわけがない。でも高校中退なんてしたくない。いまの高校よりもっとマシなところへ行こうと思っている。母さんにはもう話したけど、学校にはまだ言ってない」
そう力強く言ってから、
「転入先の高校でいじめられないという保障はないけどな……」
と力なく言った。
「でもいまよりはマシになるかな、と」
僕は何も言えずただうなずいただけだった。
「お前は大丈夫なのか? いじめられているんじゃないのか? あんなことをしたから以前より酷くやられているんじゃないのか?」
重雄は僕の心配をしてきた。重雄の言う通りだったが、僕は
「心配するな」
と作り笑いを浮かべてそう言った。勉強に集中してほしかった。だから変な心配をしてほしくない。
「でも凄いじゃないか、そうやって勉強して他の高校へ行こうと挑戦しているんだから。俺は勉強はどうにも苦手でな」
話題を逸らす為に重雄を褒めた。いや、凄いと思っているのは本当だけど。でも重雄は首を振った。
「何言っているんだ。お前の挑戦の方がよっぽど凄いよ。キョーリューに堂々と喧嘩売るなんて。本当に驚いた。俺にはとてもできたことじゃない」
と、そこで重雄は僕の身体を見て
「なんかお前、筋肉がついたか?」
と言った。そう言えばそうかもしれないな。
「あいつらに挑戦するために筋トレしたんだけど、なんとなく習慣になってまだ毎日続けているんだ」
と言うと重雄は感心したように息を吐いた。
「やっぱり俺には真似できないな」
そこでまたしばらく沈黙になったが、重雄は何やら考え込んでいるようだ。そしてスマホをいじり始めると、
「あのな、信矢。俺が転入試験を受けようと思ったのはもうひとつ理由があるんだ」
と言ってスマホを僕に見せた。そこには7年前の記事で『小学4年生の10歳の少年が実父を殺人未遂』『日常的に虐待を受けていたか』という見出しがあった。
「その10歳の子供ってのはどうもリューイチのことらしいんだ」
「なに?」
僕は驚いて顔を上げた。
「少し前にアカが学校を休んだ日があっただろ? あの時、モモミとシオリがこそこそ話しているのをたまたま耳にしたんだけど、アカとリューイチはガキのころ虐待されていたらしいんだ」
「……え?」僕は顔を歪めた。
「しかもな、リューイチは父親を殺そうとしたって。最初はただのくだらないうわさ話だと思っていたんだけど、この休んでいる間にどうにも気になってしまって、検索してみたんだ。そうしたらいくつかそれらしい記事にヒットしたんだ」
「虐待されてた……? リューイチは親を殺そうとした……?」
僕がそう顔を曇らせていると、重雄はさらにスマホを触って、『10歳の殺人未遂、虐待していた父親に懲役4年の判決』という記事を見せた。
「俺はその頃ニュースなんか観ていなかったけど、当時は大きく扱われたらしいんだ。どうも本当っぽいだろ? それが本当だったらと思うとあいつにいじめられていることがなんかもう色々と怖くなってな……」
僕はなんと言ったらいいかわからず、ただただ眉間に皺を寄せていた。でもそんなことを言う重雄は転校することにとにかくもう本気なんだ。だったらやっぱり寂しいな……
女神のことを話してみるか?『その女神を上手く利用すればいじめを無くせるかもしれない。だから一緒に何か良い方法がないか考えてみよう』と。
女神はこの部屋が珍しいのか、それともただ単に暇なのか、部屋の中をゆっくり飛び回りながらあちこちを見ている。必死に話せばわかってもらえるか?――いや、止めておこう。唯一の友達なんだ。頭がおかしいと思われて距離を置かれたりしたくない。代わりに
「転校しても友達でいてくれ」
と言った。重雄は
「もちろん」
と笑顔になった。ただ、それは作り笑顔だとはっきりわかる引きつった笑みだった。
自室で深夜アニメを観ていたが重雄が言ったことが気になって全く集中できなかった。アカとリューイチが虐待されていた? しかもリューイチは親を殺そうとした? 本当なのか? 僕は腕組みをした。僕も小学生の頃はニュースなんて観ていなかった。でもネットで調べてみたところ、7年前のその記事がぞろぞろ出てきた。当時かなり世間が騒いだんだな。これは本当にリューイチが起こした事件なのか? そこでふとアカが話していたことを思い出した。大昔、戦後や戦前は殺人なんか珍しくもなくて、大したニュースにはならなかった。子供による殺人などもいまよりずっと多かったが珍しいことでもなかった為に大きく報道されなかった。そういうことから考えてみたらリューイチが親を殺そうとしたということがあったとしても特に珍しいことではないのではないか? アカが虐待されていたというのも本当か? そうだ、これらが本当だとすると以前女神が言っていた『酌量の余地』というのは……
僕はテレビを消した。時間は23時を過ぎたところだ。
「なあ、女神。人の過去を見るとか、そんなことはできないか?」
「そんな特殊能力は身につけられない」
女神はあっさりと言う。やっぱりそうか。僕はまたない知恵を必死に絞った。
しばらくして――
「お前のあの検索能力で、お前が見ている人の過去ををそのまま俺に見せてくれる、ということはできるか?」
と訊ねた。
「ん? 僕が見ているものを君に見せる?」
「そうだ。お前は検索能力で『一瞬にして全てを見られる』と言ったよな。俺が願う人の過去をお前が見てそれをそのまま俺に見せてくれればいいだけだ。これなら俺自身が特殊能力を身につけるわけじゃない。それから以前お前は『酌量等については具体的に教えられない』とか言っていたが、これならお前が教える必要がない。俺がただ見るだけなんだからな。どうだ?」
女神は「へー」と感心するように腕組みをした。
「だいぶ頭が使えるようになったね。屁理屈が上手くなった。制限にはないし確かに可能だよ。あ、でも『性的に満足させる』ことはできないからね。アニメみたいに女の子の着替えるところとか入浴シーンなんかは見られないよ」
女神はニヤニヤと笑う。
「はいはい……」
そんなこと望んでいるもんか。
「それからひとつ言っておくけど、君たち人間が、僕らが見ているものを見ている間は”時間”というものを感じるよ。でもこの世界ではほとんど時間がかからず、一瞬で終わっているけどね。僕たち神には時間という概念がない。というよりは本来はそれが普通なんだけど。時間というのは君たち人間が自分たちの都合で勝手に作り出したものだからね。この世に時間というものはないんだ」
なるほど、だから時間にルーズになって何十年、何百年とこの世界に現れないなんてことになるわけだな。
僕はまたしばらく考えた。そうなると、アカやリューイチの過去をそのまま全部見るというのはさすがにキツいな。何か良い方法は――
「見たいところだけをダイジェストみたいな感じで見る、ってことはできるか?」
女神は少し考えてから
「可能だね」
とうなずいた。
「ただし、あくまでも君は見るだけ、あと聞こえるだけだよ。僕らはそれ以外のいろんな情報が同時に伝わってくるけどそれは神だからできることだ。そんなことは君たち人間にはできない」
それなら注意深く集中して見ていないといけないな。
「わかった」
どう願ったらいいかな? とこれまたしばらく考えた。そして、これならいいかと思う文言が浮かんだ。さらに僕は少し迷ってから、まずアカの過去を見ることにした。いまの時間を確認する。23時31分だ。
「今日の願いだ。アカ、俺のクラスの赤石朱里の人生に大きな影響を与えた特別な出来事をダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」
「その願いを叶えましょう」
その瞬間、僕の目の前の風景が大きく変わった。
「小さい女神に何を願うか2」に続きます。
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