《一》百合子、来訪──お前にとって、悪い話ではない。
❖作者より❖
この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。
この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。
小鳥のさえずりと陽の光のまぶしさに、咲耶は目を覚ました。
ぼんやりとした視界に入ってくるのは、整った容貌の若い男の寝顔。さらした片方の二の腕には絹糸のような色素の薄い髪が絡み、もう一方の腕は咲耶の身体の下敷きになっている。
(……また、人間の姿に戻ってる……)
毎日毎晩、咲耶はハクコと寝床を共にしている──白い虎の幼獣と。だが、ほぼ毎朝、目覚めるとハクコは人の姿に“化身”していた。
その理由は「お前の寝言がうるさかった」だの「歯ぎしりが酷かった」だのと、獣の身でいるよりは人でいるほうが、それらの騒音が軽減されるということらしかった。
(だったら、一緒になんて寝なきゃいいのに)
小憎らしい男だ、と、その高い鼻をつまんでやろうと指を伸ばした瞬間、ゆるゆるとハクコの長いまつげが持ち上がった。青味を帯びた黒い瞳に、咲耶が映る。
「……何をしている」
「あっ、あのっ、私、また何か、やらかしましたかねっ?」
「……分からないのか」
いたずらが見つかりそうになり、あわてて取り繕うように尋ねると小さく息をつかれた。
直後、咲耶の身体がゴロンと半回転する。咲耶の下敷きになっていたハクコの腕が、引き抜かれたのだ。
「お前の身体が私にのしかかり圧死させられるところだった。獣の私はお前より、まだ身体が小さい。気をつけてくれ」
抑揚なく告げるハクコの低い声音を、畳の上でうつ伏せになった状態で聞く。
寝言・歯ぎしり・寝相の悪さ。咲耶はつくづく人と寝るのに向かない体質らしい。
溜息をつきながら、上半身を起こす。立ち上がって手水に向かいかけた咲耶に、ハクコから声がかかった。
「咲耶、呪がまだだ」
手首をつかまれ、ハクコの腕のなかへ引き寄せられる。後ろから抱きしめられるような形でハクコの息遣いを耳もとに感じたのち、頬に唇のぬくもりが伝わった。
(……変なことを教えてしまった……)
咲耶は、先日ハクコにした『頬っぺにチュー』を、咲耶がいた世界にある『おまじない』だと説明した──ハクコに真の名を伝えるための。
翌朝から、咲耶の言葉を鵜呑みにしたハクコは、咲耶の頬にくちづけるのが日課になってしまった……。
(ってか、傍から見たら、この構図ってヤラシーし、恥ずかしい気がする……)
後ろから裸の男に、乱れた着物姿で抱きしめられている自分──を、俯瞰で見てみると、何やらいかがわしい。
そう思ったとたん、触れ合った部分が急激に熱くなり、いたたまれなさに咲耶はハクコの腕のなかで身じろぐ。するとハクコは、用が済んだといわんばかりに咲耶の身体を手放すと、ふたたび布団のなかにもぐりこんだ。
「私はもう少し休む。椿にもそう伝えてくれ」
「はい。ごゆっくり~」
気恥ずかしいのをごまかすようにおざなりに応え、咲耶は部屋をあとにする。
「姫さま、おはようございます」
「おはよー、椿ちゃん。いつもありがと。ハクはまだ寝てるって」
手水場で顔を洗い終えると、すかさず差し出される手拭いを受け取って、ハクコの伝言を椿に伝える。
初め椿は、咲耶が起きる頃、桶を持って部屋を訪れていた。が、ハクコの『日課』を目撃してからは、気を遣って手水場で咲耶を待つようになった。
(アレ、恥ずかしかったな……)
あわてず騒がず「失礼いたしました」と、冷静に障子を閉められた時の光景が、咲耶の脳裏によみがえった。結局、心のなかで絶叫していたのは、咲耶ひとりだけだったようだが──。
洗顔は、近くの沢で汲まれた水を使い、すすぐだけだ。
石鹸もあるにはあるが高価な物らしく、おまけに汚れを落とすことに特化したものだった。そのため咲耶は、洗い過ぎでかえって油分がなくなるのをおそれ、入浴時に使うのみにとどめていた。
ちなみに、洗髪は三日に一度。米のとぎ汁を使って洗うのだが、何しろ電化製品がない──そもそも『電力』もない──ので、髪の量が多い咲耶は乾かすだけで一苦労だった。
(基礎化粧品すら使わなくなって大分経つけど……肌荒れも特にないし)
美穂が言ってた通りだ。神籍に入った以上は老化現象はなくなり、食物の摂取もほとんど必要ないらしい。
ただ、茜いわく、
「肌ツヤ保つこと考えて、食事はきちんと摂りなさい? 偏食してると、肌に良くないからね?」
ということなので、老化は進まずとも栄養補給は必要なのだろうと、咲耶は納得した。
「ハク様が朝寝なさるなんて、めずらしいですわね」
いつものように咲耶の着替えを手伝いながら、椿が言った。姿見に映る自分を確認しながら、咲耶は苦笑いする。
「あー……多分、私のせいで、あまり眠れなかったのかも……」
「まぁ、姫さまったら! わたしをおからかいになって。ただいま朝餉をお持ちいたしますわね」
うふふ、と、意味ありげに笑って椿が部屋を立ち去る。
どうやら、また変な風に勘ぐられたようだが、いちいち否定するのも馬鹿らしい。咲耶は、この件に関しては、椿の思いたいようにさせておこうとした。
炊事洗濯、屋敷内外の掃除、それに咲耶とハクコの身の回りの世話と、椿の仕事は終わりがない。
自分のことくらいは自分でやるからと提案してみたのだが、
「わたしのお役目ですから」
と、やわらかい口調ながらも毅然とした拒絶が返ってきてしまった。
椿は見た目のなよやかさに反して相当な頑固者で、しかも責任感が強い少女に思われた。だから、かえって咲耶は心配になりもしたのだが、水汲みや薪割りなどの重労働は犬貴がしていると聞き、少しだけホッとしたものだった。
(『お役目』かぁ)
咲耶のこの世界での“役割”は、端的にいえば「下総ノ国の民へ、治癒と再生を行うこと」が、茜いわくの建前だ。
建前がある以上、当然、裏向きの方針がある。
茜の話によれば、民に恵まれるはずの花嫁の“神力”は、国司の尊臣始め、一部の権威ある者らが利用するというのが陽ノ元全体の実情らしい。
それでは民の不満が募って、反乱が起きたりするのではないかという咲耶の問いに、
「生かさず殺さず、うまくやるのが良い国司なのよ。まぁ、それでも各国で一揆が起きたりもするけど……。
鎮圧は国獣が務めることもあるから、よけいに恨まれたりするわね。そういう意味では、コクのじい様は気の毒よねぇ」
茜がしみじみというので、うっかり咲耶は聞き逃しかけたが──黒虎・闘十郎は、見た目は少年だが、実は茜よりも年長者らしい。
(だから、なんか年寄りくさい感じがしたんだ……)
必然、百合子も外見よりもはるかに歳を重ねているそうで、
「あの人、大正生まれらしいよ~」というのが、美穂からの情報だった。
ついでにいえば美穂は昭和生まれで、携帯電話自体は知っているが、使ったことはないそうだ。
(でも私は役割以前に、そもそも神力が使えないしね)
咲耶にも花嫁としての役割はある。だが、絶対条件として『仮契約』状態の現状をどうにかしない限り、何も始まらないのだ。
(毎日、夢のなかでは言えてるんだけどなぁ)
ハクコの真の名を。現実には、一字たりとも本人に伝えられてはいないが。
口にすることも文字にすることもできない。美穂によればこの状態は、ハクコに口にださずに伝えられるまで続くということだった。
「愁月に変な術かけられたんだよ。ほら、儀式の時に、きつね目のオッサンがいたでしょ?」
どうやら、“契りの儀”に居合わせた中年の男が、咲耶に『変な術』をかけたらしい。
茜に言わせると、
「一応、愁月の親切な“呪”なのよねぇ。強制的に言わせない書かせない状態にして花嫁の命を護ってんの。昔は、ウッカリ口にしたら最後、“仮の花嫁”には死に値する禁忌だったらしいから」
ということで、咲耶は受け入れざるを得ない。
(早く、教えてあげたいな……)
急く必要はないとの言葉通り『朝の日課』以外は、特に咲耶に何も言わない、青年の姿をした幼い白い虎に──。
朝食を終え茶をすする咲耶の耳に、すっとんきょうな叫び声が入ってきた。
「ごめんくだサイ! ごめんくだサイ!
……アラ、この家、誰もいないのカシラ。戸も開けっ放しで、無用心だワネ」
所々おかしな発音のうえ、心の声がだだ洩れである。咲耶は、膳を下げかけていた椿と顔を見合せた。
「……ちょっと、見て参ります」
そそくさと椿は立ち上がり、玄関のほうへ向かったが、ややしてまたあの甲高い声だけが聞こえてきた。
「なァに、あなた、アタクシを知らないってノ? アタクシは、コク様の眷属のイチ、雉の草と書いて『ちぐさ』。ちゃんと覚えておきなサイな?
──ンンッ。これからコク様が、こちらに参られマス。ハク殿と、その“対の方”に、伝えられマセ。
……はぁっ……、いやだワ。新参者があいさつに来るのが筋だロウニ、わざわざコク様に足を運ばせるだナンテ……!」
心の声なのか厭味なのかは分からないが、少々声を落としたところで、咲耶のところまで筒抜けなのだが。
(いきなり来るなんて、迷惑なジイ様だわ)
一応、眷属という先触れを寄越してはいるが、それにしても、こちらの都合も少しは考えて欲しいものだ。厄介な気分を抱えつつ咲耶が玄関へ向かうなか、聞き覚えのある声がした。
「これ、雉草。他人様の玄関先で騒ぐでない。娘御が困っておるではないか。
確か、椿というたな? わしの手の者が失礼した。いきなり参ったは、わしのほうゆえ、気遣いは無用ぞ?
──おぉ、咲耶。『こちら』の暮らしには、もう慣れおったか?」
やはり、そこには黒い道着姿の少年・闘十郎がいて、咲耶に気づくと人懐っこく笑ってみせた。
後方には、鶏よりもひと回りくらい大きな、黄褐色の鳥がいる。先ほど大騒ぎしていたのはこの鳥だろう。闘十郎に叱られたあとは、嘘のように静かになったようだ。
「ああ、えと……はい、だいぶ。ごあいさつにも伺わずに、すみません」
雉草の言葉に反応したわけではないが、儀式直前に言われたことも思いだし、咲耶は恐縮して応えた。闘十郎はそんな咲耶を快活に笑い飛ばす。
「なに、遊びに来いと誘うたは、わしのほうじゃがの。一向に来る気配がないゆえ、こうして参った。
──ハクも、元気そうじゃの」
闘十郎の視線に振り返れば、少し離れた位置で、袿姿のハクコが軽く腕を組んで立っていた。
「……騒がしい。何用だ」
ふた言で済ますハクコの率直で不遜な態度に、聞いていた咲耶のほうが肝を冷やす。
「ちょっ……ハク! そんな言い方失礼でしょ!」
「ああ、構わぬよ、咲耶。ハクは誰に対してもこうじゃ。
昼前になろうとするに、未だその姿でおるとはの。おぬしの嫁御は、おぬしに、いろんな変化をもたらしておるようじゃな」
「……椿、コクを客間に通せ。私に着替えを」
くるりと向きを変え、ハクコは肩ごしに言い捨てると、自分の部屋のほうへ歩いて行く。その背中に椿が応え、闘十郎を客間にうながした。
(なに、いまの)
ハクコに投げた闘十郎の最後の言葉は、からかうというには少し、複雑すぎる響きがあって。咲耶は何やら、言いようのない居心地の悪さを感じた。
と、そこへ、冷ややかな声がかかった。
「これから、外へ出られるか?」
音もなく、黒髪の美女、百合子が玄関に入ってきた。驚く咲耶には気にも留めず、先を続ける。
「お前にとって、悪い話ではない。私と出掛けることは、闘十郎がハクに伝えるはずだ。どうする?」
百合子の申し出に、一瞬ためらいはしたが、咲耶のほうでも百合子に訊いてみたいことがあったので、うなずいた。
「行きます」




