桜色の想い──これからもずっと、一緒に歩いて行こうね。
*
雲が流れ、琥珀色をした満月が、その姿をのぞかせる。先ほどまで冷たく感じられた夜風から、急に生ぬるく変化した風。
「思ったよりもお早いお帰りで驚きました」
時刻は、日付が変わる数分前。嫌み口調が定着した一葉の姿は、昼に見た洋装ではなかった。白無地の狩衣に黒い指貫、黒烏帽子を被った様は、彼の本職を表していた。
「すみません、ギリギリで」
和彰が、時間の許す限り咲耶の想い出の地を巡ってくれたため、刻限間際となってしまったのだ。
「お前が謝る必要はない。間に合ったのだから問題ないはずだ」
「えぇ、私に御二方を責めるつもりは毛頭ございません」
眼鏡のない一葉の顔は笑みをつくったが、白々しさ全開で、悪感情を隠す気がないとみえる。
(もう、最後くらいは仲良くしようよ……)
麗容でありながら、互いに冷たい視線を交わし合う和彰と一葉。咲耶は以前、これと似たような経験をしたことを思いだす。
(やっぱり一葉さんて、あの男に似てる……)
こっそりと溜息をついた咲耶に気づいたらしい一葉が、ちょっと笑った。咲耶の心中を、見透かしたように。
「陽ノ元にいる萩原家の者に、私に似た者がおりますか」
「……は? って、え?」
「──異界への扉が、間もなく開かれます」
咲耶の頭のなかの疑問を置き去りにしたまま、腹黒神職がおごそかに告げた。
白河邸の裏庭にある小さな祠の前。一葉に指定された場所に、咲耶と和彰、そして主を追いかけこの世界にやってきた眷属がそろっていた。
「……さっきから、首の後ろの毛がチリチリして、ヤな感じがするぜ」
「静かにしていろ」
虎毛犬たちの会話をさえぎるように、耳障りな振動音を立て、祠全体が揺れ始めた。直後、格子戸が悲鳴をあげるように軋みながら、開かれる。
「……っ!」
声にならない叫びが、咲耶ののどを鳴らす。思わず傍らの和彰に、ぎゅっとしがみついた。
「大丈夫だ、咲耶。これが、煌本来の姿なのだ」
神獣である和彰の本性が、白い虎であるのと同じように──。
祠のなかから現れたのは、鎌首をもたげた大きな蛇。鱗は光沢のある白を基調としているが、角度によっては薄青くも薄赤くも見える。
咲耶の手のひらくらいはありそうな眼は、赤い虹彩に黒い縦長の瞳孔をしていて、咲耶の記憶のなかの幼きヘビ神を連想させた。
『松元咲耶』
しかし、直接的に脳に伝わる声は背筋を這うようで、幼き神のものとは到底思えず、咲耶の身をおぞけさせた。
湿った空気が、ゆるやかに祠から流れてくる。それに合わせて巨大なヘビが、咲耶たちの前に顕現した。
『時の循環を司どる神として、また、神獣ノ里の長として、汝を陽ノ元へと正式に迎え入れよう。ついては、この瞬間』
ヘビ神の声に呼応するように、辺りの樹木が一斉にざわめき、まるで暴風域にでも入ったかのように、大きくしなった。
『汝の存在した事実をこの世界から抹消し、時間と空間と実在を、我が名において再構成させることを誓約する』
木の葉が乱れ飛び、小石が宙を舞い上がる。咲耶たちのいる場所を囲う形で嵐が起こっていた。
『いざ、我が元へ──』
あやしげな光を放ち、大蛇がその身でもって螺旋を描く。尾に近づくにつれ狭く渦を巻いた内側は、宇宙を思わす闇と光が明滅している。
大いなる導きと神秘の御力により、咲耶たちは在るべき世界へと戻されたのであった──。
*
陽ノ元に戻った翌日、咲耶は愁月の邸を訪れていた。……正確には、幻の邸となるようだが。以前に来たとき同様、人の気配が感じられないそこを訪ねたのには目的があった。
(確か、この奥の部屋だったはず……)
国司・尊臣をあざむいた愁月は自ら退官し、その座を降りていた。尊臣の自尊心によるものか温情によるものかは解らないが、愁月の背任は公表されず罪には問われなかったようだ。
(やっぱり……)
几帳が幾つも置かれ、隠されるように囲われたそこに横たわる、可憐な美少女。傍らの柱に力なく身を預けるのは、朽ちそうな片腕をした中年の男。
「咲耶……? そなた、なぜ……」
こけた頬と血色のない唇を動かし、愁月が咲耶を見上げてくる。うつろな眼は、力なく揺れていた。
「戻ってきました、ここに……陽ノ元に。私にはまだ、やれることがあるから」
「……私の、治癒は……断った、はず……。この身に……受け……咎め……は、天の、裁き……」
息をするのもやっとであろうに、愁月は頑として咲耶の善意をはねつける。しかしそれは、咲耶の想定内のこと。
「あなたを癒やすことは、しません」
告げた咲耶の右手が向かうのは、先代の下総ノ国の白い神獣の神の器。単衣をめくって触れる、神逐らいの剣が残した傷痕。そして──。
「綾乃さん、ここに……あなたの身体に、戻ってきてください……!」
治癒と再生。
咲耶が和彰から与えられた、尊き神力。
切り離された魂魄を結びつけることのできる、唯一無二の力だった。
咲耶の右手の下で、大きく弾む華奢な身体。長いまつ毛が、震える。汚れなき白い花が開くように、辺りに清浄な空気が放たれた。
「……愁月」
小さな紅唇がつむいだ音に、呼ばれた本人が息をつめるのを感じた。
咲耶は、安堵から肩の力を抜く。瞬間、咲耶の身体をぐいと押しのけ、なよやかな肢体が枯れ木のような男に向かう。
「愁月!」
言うなり、その首にすがりつき、驚く咲耶の目の前で少女とは思えぬ激しさでもって、かつて神官と呼ばれた男の唇を奪った。
(…………えっと。……ど、どうしようかな……)
まさかの展開に、咲耶は不必要に視線をさ迷わせた。
──綾乃を再生すれば、愁月をも救えるのではないかと。浅はかな咲耶のもくろみは、彼女の気性を考慮しなかったことにより、成立しなくなる。と、いうより──。
「……なにゆえ妾のもとへ、一度も来なかったのじゃ?」
薄紅色の頬を傾けたまま、可憐な美少女が問う眼差しの先。そこには、先ほどまでの姿が嘘のように、生気を取り戻した愁月がいた。
「そなたの神の器と──そなたが遺した生命を護るのが、私の使命だと思ったからだ」
「……だが、使命とやらは、もう終わったのであろう?」
「ああ。終わった」
微笑みながら告げる愁月のひとことは、深く染み入るように咲耶の胸にも響いた。
愁月の指先が綾乃の頬に触れる。手の甲から腕には、黒い縞模様が未だあったが、壊死を思わす肌のどす黒さは消えていた。
(綾乃さんに愁月を説得してもらおうと思ってたけど)
無用な画策だった。綾乃は白い神獣──治癒と再生を司どる神なのだから。
(良かった……)
見ているこちらが恥ずかしくなるような睦まじさだが、咲耶はそんなふたりの姿に目を細めた。
「──時に、嫁御。名はなんと申したかの?」
愁月にべったりと寄りかかったまま、可憐な美少女の黒目がちな瞳が咲耶を一瞥する。
(はっ。そうだ! この人って、和彰の『お母さん』なんだよね?)
自分よりも十は年下に見えるが、血縁上は咲耶にとっては『姑』になるはず。あくまで人間社会の観念に置き換えれば、だが。
「さっ……、咲耶と、申しま、すっ」
滑稽なほどに、自分の声が裏返ったのが解る。勢いのまま、平伏した。……先ほどまでのほんわかとした雰囲気は、いったいどこへ行ったのだろう?
(こわい! 綾乃さん、見た目に反して、なんかこわいよっ)
張りつめた緊張感のなか、高く澄んだ声音が咲耶の耳に届く。
「咲耶。そなた、いつぞやと同じに、気が利かぬおなごよのう」
「は? ……あっ」
「去ね」
顔を上げた咲耶に、冷たく刺さる視線と言葉。その鋭さに震えあがりながら、座したまま後ずさる咲耶の目の端で、愁月が苦笑いするのが分かった。
「し、失礼します!」
「愚息にも、しばらくは来ずともよいと伝えよ。ああ、そうじゃ、待て。クロは息災かえ?」
「……えっと、犬貴でしたら元気で、私たちの眷属でいてくれてます」
「それは何より。のちほど妾が会いにゆくと伝えよ」
にっこりと笑む様は、傲慢な物言いとは程遠く、可愛いらしい。一瞬、惚けた咲耶だが、白く繊細な指先が立ち去れと示す動作に、今度こそ、その場から逃げ出したのであった。
(私……何しに来たんだろ……)
久しぶりに遠い目をしながら、咲耶は愁月の邸をあとにした。一応、目的は果たしたのだから、よしとしなければなるまい。
「咲耶」
桜並木の始まりの道で待っていた和彰が、自分の名を呼びかけてきた。それだけで、咲耶の微妙な心地は晴れていく。
満開の桜を背に光をまといたたずむ様は、淡い景色と相まって、咲耶に印象派の絵画を思わせた。
(ああ、なんか……優しい空気が溶けてるのが『見える』みたい)
近づくのが惜しいような、それでいて駆け寄りたいような。複雑な心境をかかえ、咲耶は和彰のもとへと歩いて行く。
「……ごめんね。お待たせ」
「用は済んだのか?」
「うん。……和彰も、綾乃さんに会いたかった?」
「いや」
綾乃の言葉をそのまま伝える気にはならず、先に和彰の気持ちを尋ねてみた。事もなげに答える態度からは、なんの感慨も見受けられない。
「愁月……さんにも?」
「会う必要があれば会うが。師が何か言っていたのか?」
いぶかしげに見返され、咲耶は自分の気の回しすぎなのだろうと結論づける。
(和彰にとっては、あの二人が『両親』っていう感覚がないのかも)
少なくとも、咲耶の捉え方と和彰の捉え方では違うのかもしれない。それが、育った環境の違いともいえる。
(まぁ、これからいろいろ変化もあるだろうしね)
綾乃にしても愁月にしても、以前とは立場が違っている。和彰への接し方も、おのずと変わる可能性があった。……決して、悪い変化ではないはずのものに。そう思い、咲耶は含み笑いで和彰を見上げた。
「……別に何も」
「そうか」
相づちをうつ和彰の顔は、心なしか嬉しそうだ。いったい何に反応してこんな顔をしているのかと、不思議に思う咲耶の手を、和彰がさらった。
「では、帰ろう」
歩きだしながら微笑む和彰を見つめ、咲耶は疑問に思い問いかける。
「ね、和彰。なんか、良いことあった?」
「今宵お前の帰りを祝って、皆が宴を開くのだそうだ」
「ああ、それで」
と、一瞬、納得しかけた咲耶だが。
(和彰って、人の集まりとか好きなんだ。なんか、意外)
「犬朗が、コクやセキ、その花嫁も呼ぶのだと張り切っていた」
「百合子さんたちも呼ぶんだ? そういうの、初めてだね」
にぎやかな夜になりそうだ、と、咲耶が笑った時。ふいに、和彰が足を止めた。
「だから、お前を独り占めできるのは、今だけだ」
つながれた手が、引き寄せられる。突然の抱擁に、咲耶の鼓動がひときわ大きくはねた。
「夜になれば、お前は他の者と語らい、私のことは二の次になる」
「そ、そんなことは……なくもないけど」
咲耶のために開かれた宴となれば、客人相手を務めるのは当然だ。
(和彰……私のこと、分かってるなぁ)
上目遣いで見上げれば、無表情に近いながらも不機嫌そうな和彰と目があった。
「だから、今だけ、なのだ……」
つぶやくように告げた唇が咲耶に近づいて。
ひらり、と、薄紅色のかけらが、風に舞い横切る。視界に映した春の景色に幕を下ろし、感じるのは、甘い体温。
優しく胸にうずく、つやめいた想い。陽差しから受ける熱よりも、咲耶を焦がす情動。
「……お前は私に、たくさんの彩りを与えてくれた」
わずかに離れた唇が、ささやく。
「私はそれを、ひとつひとつ、お前に返したいと思う」
ひんやりとした指先が、咲耶の頬をなでる。
「花が散り、季節が巡り、人の世が移り行くなかで、お前と共に歩むこの未来ずっと」
おもむろにまぶたを上げれば、青みを帯びた黒い瞳が、まっすぐに自分を捕らえてくる。
「良いか、咲耶?」
特別に響く、甘美な呼びかけ。自分の名前を、これほどまでに威力ある音で発することができるのは、彼だけだろう。
「……うん。これからもずっと、一緒に歩いて行こうね、和彰?」
そして、自分が放つ音も、彼をやわらかく束縛するものでありたいと、願うのだ。
「ああ」
相づちと共に返されたのは、ふたりを囲む風景のような、桜色をした想いだった。
───完───
『神獣の花嫁〜かの者に捧ぐ〜』本編はこれにて終了です。
最後までお付き合いくださった読者様、ありがとうございました!
ブックマークや『いいね』をしてくれた読者様、大変励みになりました。
そして、こちらのページを開いてくださった読者様にも感謝です。
また違う物語でもお会いできますように。
一茅苑呼
追伸
本編はこれで終了ですが、このあとの『おまけ』的な話はまた別の作品として投稿させてもらいます。
お付き合いくださる方がいらしたら、そちらも是非。




