《十》最後の晩餐──だって今日、私、誕生日だもん。
(オムライス……)
テーブルに並ぶ黄色い楕円形に赤いケチャップがかかったそれは、咲耶の大好物だ。付け合わせのポテトサラダも大根となめこの味噌汁も。
(こんなに食べられないし、なんでお味噌汁つけるかなあ)
いつもなら、里枝についているだろう悪態は、咲耶ののどもとより先へは出ていかない。それが、自分のために用意された食事で、なおかつ、この世界での『最後の晩餐』だからだ。
「霜月さん、姉ちゃんの手料理、食べたことあります?」
「いや」
「あー、そうなんだ。姉ちゃんの味付け濃いんで、糖尿病要注意っスよ」
健の言葉に引っかかりを覚えつつも、咲耶は、和彰から向けられる無言の訴えに軽くうなずく。
「今度、何か作るから……」
椿ちゃんに訊いて、と、内心で付け加える。陽ノ元とこちらでは、調理器具も調味料も勝手が違うので、そうせざるを得ない。
健の茶化しながらの質問と、里枝の「お口に合います?」攻撃にも、和彰は動じることなく淡々と受け応えていた。
やがて夕食も終わり、食後にロールケーキを平らげた健が、
「霜月さん。オレの部屋で、ちょっと話しません?」
と、和彰を連れて行ってしまった。
里枝は、ふたりが二階へ行ったのを確認し、息をつく。
「……あんた、面食いねえ……」
コーヒーをすすったのち、しみじみと言った。
「まぁでも、裏表なさそうだし、顔の割りには誠実そうね」
『顔の割りには』は余計だろうと内心で突っ込みつつ、咲耶はフォローを入れる。
「和彰は冷たくて無愛想に見えるかもだけど、ああ見えて優しいよ?」
「確かに、ムダに愛想よくヘラヘラしてないところは好感もてるわね」
「でしょ?」
思わず得意げに同意を求めた咲耶に、里枝が苦笑いを浮かべた。
「……別に、お母さん霜月さんのこと、嫌ってやしないわよ? あんたが彼を好きで幸せなら、それでいいと思うしね」
「……えっと……うん」
母親との恋愛話は一般論以外では、あまりしたことがない。咲耶は、決まり悪さにロールケーキにフォークを入れることで、そんな気持ちを分散させる。
「ただ、結婚となるとねぇ……。
ウチはこんなだし、霜月さんの方の家格っていうの? 釣り合わないって、あちらのご両親とかに思われて、あんたが嫌な思いするんじゃないかっていう心配は、あるわよ?」
里枝が言うことは決して卑下ではない。実際問題として、結婚するとなれば家同士の繋がりができるわけで、そこに比重を置くことは自然なことだった。
(和彰の仕事を訊かれて『神職』だって答えちゃったからなぁ……)
必然、古い家柄だとでも思ったのだろう。咲耶としては、あまり嘘はつきたくなくて、ある意味間違ってない『答え』を返したのだが。
「えっとね……和彰に両親はいなくて、お兄さんが二人いて。実は私、昨日会ってて……その、大歓迎された」
「……そうなの?」
「うん。あと、弟が一人と妹が二人いるんだけど、みんな仲良しなんだ」
陽ノ元での実情を思えば、両親らしき存在はいる。そして、犬貴と犬朗が『兄』ならば、たぬ吉や転々、椿は『弟妹』となるだろう。そう思いながら話した咲耶に、里枝は意外だといわんばかりに眉を上げた。
「あら、そう。じゃあ、そうは見えないけど苦労してるのね?」
「苦労……してるのは、むしろお兄さんのほうかな?」
咲耶の脳裏に犬貴の顔が浮かぶ。間違いないなく、苦労人……いや、苦労犬は彼のはず。
「ああ……そうよね、あんたと一緒よね」
長男長女の悲哀を里枝は思ったようで、咲耶の考えとは微妙にすれ違っていくが、そこは致し方ない。
「それでね、お母さん」
会話が途切れ、ロールケーキを口に運ぶことに専念しだした里枝に、咲耶は一瞬、陽ノ元に行くことを告げかけた。だが──。
(ここにいる『私のお母さん』は、私がこの世界を去れば居なくなってしまうんだよね……)
それならば、訳の分からない陽ノ元だの神獣の花嫁だのと困らせるのは、本当に意味がないことだ。咲耶が告げなければならないことは、別にある。
「だから私、いま、すごく幸せなの」
唐突すぎる宣言に、里枝はぽかんと咲耶を見返した。直後、ぷっ……と噴きだしたかと思うと、肩を揺らして笑いだす。
「はいはい、あんた見てれば分かるわよ、言われなくったって」
からかうように片手を振ったあと、里枝は半ば目を伏せた。どこか申し訳なさを窺わせる表情。
「お母さんが離婚なんかしたから、あんたが恋愛や結婚に消極的なんだろうって、ずっと思ってたのよ。だから、霜月さんを連れて来るって聞いた時、少しホッとしたのよ、これでも」
里枝の言葉に、咲耶は自分の恋愛経験値の低さを改めて思い返す。意識していた訳ではないが、そういう部分があったのは否めないだろう。
(実際、『霜月くん』のほうから連絡が来なくなったら、もういいやってあきらめてたし)
陽ノ元に召喚される前、自分が陥ったマイナス思考。同じ日を繰り返し、初めて咲耶は、自分から積極的に動いた気がする。
(だから……和彰に逢えたのかな……?)
考えすぎかもしれないが、咲耶が『霜月』に連絡を取ろうと思わなければ、文字通り同じ日を繰り返した可能性もあるのだ。
「また、霜月さん連れて来なさい。今度は霜月さんの好物、用意するから」
ポン、と、笑って咲耶の肩を叩く里枝に、咲耶は何も言えなくなる。
息がつまって、泣きそうな自分に気づいた。同時に、夕べの別れ際の犬貴と犬朗の態度の意味が、パズルのピースのようにかちりとはまる。
(ああ、そっか……)
犬貴は、もう二度と主である咲耶と逢えない可能性を考え、約束の言葉につまった。犬朗は、あの瞬間の咲耶の気持ちを優先し、笑ってみせたのだ。
(どちらを選んでも、後悔はする──)
けれども、この選択であれば、咲耶の記憶から大切な者たちの存在を消すことはない。
咲耶は、深呼吸をした。
「……お母さん、私を産んでくれて、ありがとう」
別れを告げることができないのなら、せめて感謝の気持ちだけ──。
「ちょっと……何? いきなり、どうしちゃったのよ、あんた!」
とまどいながらも、笑って背中を抱きしめ返してくれる母親のぬくもりに、娘は鼻をすすりながら、笑って応えた。
「だって今日……私、誕生日だもん……!」
腕を伸ばして抱きしめた存在があればこそ、自分はいま、ここにいるのだから。
閉じられた玄関扉を、一度だけまぶたの裏に焼きつけ、咲耶は前に向き直る。
「咲耶。もういいのか」
思い残すことはないのかと。言外に問いかけてくる低い声音に、咲耶は大きくうなずいた。
「うん。もう……行けるわ」
「……そうか」
夜風が短くなった和彰の髪を揺らし、過ぎ去っていく。冷えた夜気を感じる前に、自然につながれた指先が咲耶の胸にある想いごとつつみこむ。
「……ねぇ、健と何の話をしたの?」
「お前のどこが良いのかと訊かれた」
「は?」
我が弟ながらしつこい奴めと、遠ざかる家の方向をにらみつけたあと、咲耶は和彰の話をうながす。
「それで? 和彰はなんて答えたの?」
ちらりと仰向いた咲耶に、和彰の真剣な眼差しが注がれる。
「お前という存在自体が、私にとって『良い』のだから、どこがと問われても困ると言った」
「…………ああ、そう」
純粋で迷いのない白き神獣の返答に、松元姉弟が二の句を継げなくなったのは、言うまでもない。




