《九》日付が変わる前までに──私はもっと、お前のことが知りたい。
神獣の花嫁として記憶も神力も取り戻した咲耶は、この世界での滞在時間が限られていた。
「日付が変わる前までに、この屋敷にお戻りください」
と、一葉に念を押され、咲耶は現在、一葉の車を借りて和彰と共に咲耶の家に向かっていた。
「もしもし、お母さん? ……急なんだけど、その、会って欲しい人がいて。……じゃなくて! ……そう、その人。これから家に連れて行くから──」
パート勤めを終えた頃合いを見計らい、咲耶は母親に電話をかけた。通話を切った助手席の咲耶を、和彰が運転しながら横目で窺ってくる。
「大丈夫か」
「うん、平気。……それより、うちスッゴいボロ家だから、びっくりしないでね」
「分かった」
咲耶の茶化しながらの自己申告に、和彰は生真面目にうなずく。
(お母さんが「やっぱりあんたも」って、言いたくなる気持ちも解るけどね)
けさ方まで存在すら口にしなかった娘が、いきなりその『彼氏』を家に連れてくると聞けば、変に勘繰るのも当然だろう。
人ひとり歩くのがやっとの家の玄関から和彰を通すと、食材を仕舞っていた母親に簡単に和彰を紹介した。その後、和彰を居間のテーブルの奥へと追いやる。
「……気は遣わなくていいって言ってたけど、本当に大丈夫?」
咲耶を冷蔵庫の影に呼び、咲耶の母・里枝が小声で訊いてくる。
居間と台所が六畳半の空間にある狭さ。昭和の中期辺りに建築されたであろう住宅の片隅で、咲耶は里枝に苦笑いを返した。
「うん、大丈夫だよ。細かいこと気にするような人じゃないから」
「……そう? 本当に? えらい所に連れて来られたって、思ってるんじゃない?」
うろんな目つきの里枝の視線の先は、無表情で室内を泰然と見回す和彰だ。
「私、お茶淹れるね。お母さんはいつも通り夕飯作ってて」
「あんたがそう言うなら……。霜月さん、狭い家で申し訳ないけど、楽にしてくださいね」
少しぎこちない笑みで言う里枝に、和彰は「はい」と短く応じた。……普段通りの愛想の無さは、ある意味で賞賛に値する。
「本当にボロ家で驚いてる?」
「いや。お前はここで暮らしてきたのだなと考えていた」
湯呑みを手渡しながらささやけば、抑揚のない返事が通常通りの音量で発せられた。
玉ねぎを刻む里枝の手が、一瞬、止まる。内緒話もできない距離に、しかし咲耶は今さら隠しても仕方ないと腹をくくった。
「小学校四年の時、両親が離婚して。だから、この家には、その頃に越してきたの。……あ、父は三年前に亡くなってるんだけどね」
『小学校』や『離婚』など、こちらの世界では常識である事柄を里枝の手前、説明できずにいたが、和彰は咲耶の話をさえぎることなく、じっと耳を傾けている。
「これでも家電とか、当時に比べれば立派になったんだよ? ……ふふっ、引っ越してきた当日、裸電球の下でカップラーメンすすったよね、お母さん」
「……ああ。あんたが戦時中みたいだねって、見てきたようなこと言ったわよね」
「だって本当に、おばあちゃんの話から想像したのと同じ感じに思えたんだもん」
何もかもが手狭な咲耶の家は、台所も今風の対面型やアイランド型とは違う。一人が台所に立つと、手伝えるスペースはなかった。
里枝は咲耶たちに背を向けたまま、咲耶は和彰と里枝を交互に見ながら昔話をする。
今よりも長時間働き、女手ひとつで二人の子供を養っていた里枝。その里枝に代わり、家事を行い弟の面倒をみていた咲耶。
貧乏苦労話は、弟の健が成人し勤めている今となっては笑い話となるが、当時は自分がしっかりしなくてはと気負っていたなと、咲耶はふと過去を懐かしむ。
「咲耶。お前の部屋は何処だ」
「へ? あ、二階。……見たい?」
話の切れ目で唐突に和彰が口をはさんできた。驚きつつ人差し指を上に向ける咲耶に、和彰は黙ってうなずいた。
「あんたの部屋、人に見せられる状態なの?」
「そんなに散らかってないよ! ……たぶん」
からかうような里枝の言葉に反発しつつ、咲耶は家を出た時の状況を思いだす。
(あ、部屋着が脱ぎっぱなしだ)
咲耶は、和彰に数分だけ待ってもらい、二階にある自室に案内した。
所々できしむ階段を昇ると、右が弟の健の部屋で左が咲耶の部屋だった。時間と気配からして健はまだ帰宅してはいない。
咲耶は、猫の引っかき傷のある自室の襖を開ける。
「どうぞ」
女の友人以外招いたことのない部屋は、自分で言いたくはないが色気に欠ける。
少し大きめの本棚には雑多な分野の書籍が並び、女子が好みそうなものはわずかだ。クローゼットの横にあるチェストの上には、必要最低限の化粧品類とヘアブラシ、卓上ミラーが整然と置かれている。
「特に何も目新しい物がなくて、つまらないでしょ?」
いまさら和彰に見せて恥ずかしい物などないと思っていたが、実際は違った。熱くなった頬をごまかすように、咲耶は南向かいの窓を開け放つ。
(なんか、やっぱり緊張するな)
しばしの沈黙ののち、流れこむそよ風にまぎれるような静かな口調で、和彰が言った。
「咲耶、今ならまだ間に合う」
高台にある市営住宅からは、付近の民家や田畑、大通りに面した店舗などが見渡せる。遠くの山あいに、陽が沈みかけていた。
「お前は陽ノ元を選んで後悔はしないのか」
寄り添うように咲耶の隣に立った和彰の、抑揚ない問いかけが耳に落ちてくる──後悔。
一葉が言った「残酷な神々の世界」「出逢わなければ良かったと思うだろう」というフレーズが、思い返された。
「後悔は、すると思う」
ぽつりと、咲耶の唇からこぼれた本音に、和彰がすかさず言った。
「ならば、この世界に──」
「後悔はするの、どちらを選んだとしても」
和彰の言葉をさえぎり、咲耶は強い口調で言いきった。
「この世界に残るとすれば和彰との記憶が無くなる訳だから、厳密にいえば後悔はしないよ? ううん、できないことになる。──だけど」
咲耶は、隣に立つ長身の青年の片腕を、ぎゅっとつかむ。窓の外から視線を転じれば、オレンジ色の夕陽が和彰の端正な顔立ちに、物悲しくも美しい陰影をつけていた。
「いまここにいる私が知っているの。あなたとの大切な想い出を失うってことを。それは、陽ノ元を選んだ時に感じた未来での後悔と同じなの」
「咲耶……」
「私の好きな本のなかにね、
『どちらを選んでも後悔するのなら、より責任の重い方を選べ』
って、言葉があるの。
それは、人が人として生きるうえで、必要な尊い志なんだと思う。だから私は、後悔するって解ったうえで陽ノ元に戻るわ」
微笑む咲耶を見つめ、和彰は自らの腕にある咲耶の手指を外させる。その指先に唇を押し当てると、空いた一方の腕で咲耶を抱きしめた。
「咲耶。お前の尊い決断に感謝する」
咲耶は、笑った。
「私が陽ノ元を選べたのは、本の受け売りだけじゃない。和彰が、いてくれるからなんだよ?」
自分の身をつつむ神獣の優しさがあればこそ。咲耶がこれから先、進む道の標となるのだ。
「咲耶。私はもっと、お前のことが知りたい」
思いがけない申し出に、咲耶は驚いて顔を上げた。和彰の長い指が、咲耶のまなじりに触れ、頬をなで伝う。
「この世界で暮らしたお前が、この世界で大事に思ったものを、できる限り私に教えてくれ。お前がいつか、この世界を思い、ひとりで泣かなくても済むように」
こつん、と、和彰の額が咲耶の額に押しつけられた。
「お前を慈しみ育んだ故郷を、私も共に思いだせるように。私の心に、刻ませてくれ」
ささやく低い声音の振動は、咲耶の強がりな魂を容易に震わせ、弱さを露呈させる。あふれる想いをこらえながら、咲耶は大きく息をついた。
「……ありがとう、和彰。じゃあ、まずは、アルバムかな」
そうして咲耶は、二十八年間の想い出の数数を、和彰に話して聞かせたのだった。
「姉ちゃん、入っていい?」
階下で母と弟の話し声がしたあと、階段を昇る音がして声をかけられた。応じた咲耶の部屋に入って来るなり、健がうめく。
「……マジか……! いや」
和彰を凝視したのち、じっと咲耶を暗い眼差しで見つめてくる。
「姉ちゃん。ウチはご覧の通りの貧乏所帯で、預貯金も常に三ケタ台ですって、ちゃんと説明したか?」
「ちょっと! あいさつ抜きでいきなり何!」
「だってさ、こんな美形で育ちも良さそうな人が、姉ちゃんと付き合うっておかしくね? 結婚サギじゃなきゃ、そーとーシュミわり──」
言いかけた健の口を片手でふさぎ、咲耶は和彰を振り返った。
「弟の健。バカだけど、少しは役に立つこともあるの」
「……っ、ば……バカは事実だけど、姉ちゃん、ひでー」
「どっちがよ?」
咲耶の片手を振り切り、にらみつける姉の視線をかいくぐって、健は和彰に向き直った。
「霜月さん、ですよね? 姉がいつもお世話になってます、弟の健です。以後よろしくお願いします」
早口で言って頭を下げたのち、ちらりと和彰を上目遣いで見る。
「あの……失礼ですけど霜月さん、視力かなり悪かったりします?」
「あんたねぇ!」
「うっそウソ! 冗談だって。
姉ちゃんの好きな『シャル・エト』のロールケーキ、買ってきてやったから、それでいいだろー?」
肩口を軽く叩きつけた咲耶に対し、健は身を引きながら笑ってみせる。咲耶は、目をしばたたかせた。
「は? ケチんぼのあんたが? めずらしい」
「だって今日、姉ちゃん誕生日じゃん」
──咲耶は、いまのいままで、すっかりそのことを忘れていたのだった。




