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神獣の花嫁〜かの者に捧ぐ〜  作者: 一茅 苑呼
捌 忘れえぬ故郷(ふるさと) ─前篇─
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《二》天への階──もう一度、この世界に戻って来れますか?

 澄んだ空気のなか、夜空を駆け抜ける。半透明な水の龍が藍色の空を飛翔する様は、地上からは彗星のように映るのだろうか。


 本来なら冷えて凍えそうな夜気も、猪子の『力』のためか、咲耶はそれを感じていなかった。いや、仮に感じていたとしても、心が肉体から解離した状態では、真の意味での体感はないだろう。


 そんな咲耶をちらりと見やり、赤茶色の髪を向かい風にたなびかせた猪子が言った。


「咲耶殿? 白いトラ神を恨んではなりませんよ? あの者は、道理をわきまえていただけなのです。そして、咲耶殿の心の奥底にある想いに、気づいてしまっただけ」


 呆然と、ただ涙を流し続けていた咲耶の胸に、すべり落ちた言葉。


「心の……奥底……?」


 真っ白な世界へ、墨が落とされるように。無防備な世界へ、小石が投げこまれるように。猪子が咲耶の胸のうちに、踏み込んできた。


「そうです。咲耶殿ご本人ですら、その事実を片隅に追いやって、気づかぬふりをしてきたのではありませんか?」


 猪子の細い目が、放心状態から戻ったばかりの咲耶を射ぬく。


「自分が居なくなったことで、心を痛める存在がいる、ということを」


 突然、目の前に、むき出しの心を引きずりだされた気分となる。ふたをして隠し続けてきた都合の悪いものを暴かれた、そんな心地だった。


 猪子の指摘は正しい。確かに、咲耶の心の片隅に、いつもあった想いだった。


 見て見ぬふりをして、いままで過ごしてきた自分。罪悪感のようなものをかかえながらも、それを上回る想いが咲耶のなかにはあったのだ。他人から、薄情だと軽べつされようとも。


「……幼い少女なら、帰りたいと泣き暮らすこともできたでしょうに。なまじ年を重ねると自分の感情よりも周りを気にして、その場においてふさわしい態度をとらざるを得なくなりますからね」

「違います! 私は、帰りたいだなんて、一度も思ったことはありません!」


 観光気分でいた当初、見るもの聞くものが新鮮だった。何より、花子である椿つばきも眷属らも、咲耶を大切に扱ってくれた。


「みんな……必要としてくれたんです、こんな私のことを」


 何ももたない、自分を。初めから、すべてを受け入れてくれていた。


「だから──」

「だから期待に応えようと、立派に花嫁の役割を果たした。ええ、咲耶殿のご活躍は、聞き及んでおりますよ。下総ノ国の神獣の地位を、引き上げたことは。

 たとえ賀茂かも家の小賢しいキツネ男の手のひらで踊らされた結果だとしても、成し遂げたのは咲耶殿ですから」

「そういうことじゃ、ないんです……!」


 猪子が継いだ言は咲耶の意図したものと真逆で、もどかしさに咲耶は、首を強く横に振ってみせる。


『期待された自分』であり続けたのは、誰かのためではない。咲耶自身のためだ。この『居心地の良い世界』にいたいと願ったのも、咲耶だ。花嫁としてわれたからではない。


「私がここにいたいから、できることをしてきただけです! この陽ノ元に召喚されたことは、私にとって『きっかけ』でしかなかった……!」


 やっと、言いたかったことにたどり着く。咲耶を鋭い目で見据えるシシ神の女に、和彰へと伝えたかった想いを訴える。


「私は、憐れな花嫁なんかじゃありません! 自分で望んで、この世界で暮らしてきたんです。和彰の……白い神獣の花嫁でいることが、私の幸せなんです!」


 猪子の足もとへ、顔を伏せる。


「お願いします! 私を、和彰のもとに返してください! お願い、します……!」


 すがりつくように、緋袴ひばかまのすそをつかむ。シシ神の怒りに触れて業火に焼かれたとしても、いまここで自分の本心を言わなければ、後悔すると思ったからだ。


 なりふり構わずといった咲耶に、あきれたのか同情したのか。ややして、小さな溜息をつきながら、猪子がその身を屈めた。ふくふくとした手が、咲耶の手に置かれる。


「咲耶殿。その気持ちを伝えるべき相手は、この世界には居りませんよ」

「……え?」

「勘違いしておられるようですが、白いトラ神もわたくしも、咲耶殿がこの世界に居たいという気持ちでいることを、重重承知しております」

「え、でも……」


 それなら、なぜ咲耶を元の世界へと戻そうとするのか。咲耶が訊き返そうとした時、猪子の細い目が地上へと向けられた。


「着きましたわ」


 上空から見下ろすと、月明かりに照らされた森のなかに、迷路のように複雑な造りの塀があるのが分かった。


 当然、ここからは『迷路』の一方が行き着く先にあるものが知れる。赤い鳥居だ。


「あれは、どういう……?」


 入口も出口も、森林へとつながっている。そもそも、どちらが入口で出口なのか、咲耶には疑問だった。


「カカ様が、お待ちですわ」


 微笑む猪子の言葉に応じるように、水の龍が急降下する。鳥居のもとで頭を低くし咲耶たちを下ろすと、地面に吸い込まれ消え失せてしまった。


 赤い鳥居を見上げ、猪子が柏手かしわでを打つ。小気味良い音が空間を震わせると、天へと繋がりそうな高く長い橋が、一瞬にして現れた。


 白木の丸太が連なり、ゆるやかな傾斜となったそれは、きざはしのようにも見える。両端には、ずらりと人影が立ち並んでいた。


「参りましょう、咲耶殿」


 驚いて声もでない咲耶の手を引いて、猪子が歩を進める。橋板に足を付けると、歩むことなくすべるように足が運ばれた。


(うわあ……)


 そこで初めて、咲耶たちに軽くこうべを垂れたモノらの姿が目に入る。人に見えたが装いだけで、彼らは皆、動物の頭と手足をもつ異形のモノであった。


 ねずみに狼、馬、うさぎ。鹿にカラスに牛、カエル……。咲耶が確認できたのはそのくらいだが、まだまだ他にもいるようだった。


 無数の生き物が巫女装束を着こなし、行儀よく咲耶たちを出迎えている。異様であるはずの光景だが、咲耶は恐ろしさよりもどこか滑稽こっけいに感じてしまった。


 ホホ……と、猪子が隣で笑う。


「咲耶殿はこのモノらを怖がっておられぬご様子。それどころか、好意をいだいていらっしゃる」

「あぁ、えっと……おかしいですかね?」

「いいえ」


 ばつ悪く思う咲耶に、猪子は即座に否定した。おもむろに視線を咲耶から前方に戻す。


「だからこそ、なるべくして神獣の花嫁となられた……そうとも思えるのです」


 咲耶がこの世界に存在することの、肯定とも受け取れる言葉。咲耶は勢いを得て、先ほど言いかけたことを続けた。


「じゃあ、どうして私は、元の世界に戻らなければならないんですか? 香火彦さんが決めたことって、そんなに大事なことですか?」


 責める口調になったことを後悔したが、それでも咲耶は悪あがきをせずにはいられない。なんとかして、この陽ノ元という世界にいられたらと、頭のなかはそれだけだった。


「……カカ様の取り決めは絶対の理です」


 正面を向いたまま、猪子が低く言い放つ。長い橋の上をすべるように進んでいた足が、二人同時にぴたりと止まった。


 咲耶は、はっと息をのむ。開かれていると思った扉が、実は閉まっていたことに気づかずに、体当たりしてしまったようだ。


「ですが、それ以前に咲耶殿は、白いトラ神がなぜ自分を元の世界に返そうとしているのかを、きちんと考えたのですか?」


 猪子から向けられた苛烈な眼差しに、咲耶は一瞬、言葉に詰まった。和彰が、いつも咲耶に寄せてくれた想い。それは──。


「私の、ため……」


 咲耶の心を尊重するということは、自分のそばに置いて護るだけではなく、自由にするということ。咲耶の心の奥底にある想いに気づいたのなら、選択肢を与えることが必要なのだと、和彰は思ったはず。


「いままでずっと、帰れないって決めつけてきたから……帰れると知ったうえで、私が判断できるようにって……」


 自分の想いよりも、咲耶の心を優先したのだ。


「では、白いトラ神の想いを無駄になさらぬよう、もう一度、自分の想いと向き直ってみるべきです。……何が、見えますか?」


 すでに咲耶の下方にある、生い茂った豊かな緑の木々が、風にそよいでいる。蒼白く辺りが染まって見えるのは──。


 咲耶は、自らを照らす月明かりに気づいた。仰向けば、変わらずにあるあたたかな光。自分が生きてきた年数、見守るように照らしてくれた存在。昼には見えず、夜にふと、見上げてきたもの。


「私……」


 咲耶の胸に、押し殺した感情がこみ上げてきた。


「……母や弟に……会いたいです。会って、和彰のこと……私が、いま幸せだってことを、伝えたいです……」


 窮屈なのどの奥から、咲耶が絞り出した切なる願い。


「ええ、それが、咲耶殿が想いを伝えるべき相手」


 猪子の指先が、咲耶の濡れた頬を優しくぬぐう。小刻みに震える唇で、咲耶は言った。


「私……もう一度、この世界に……陽ノ元に、戻って来られますか?」


 シシ神の女は、困ったように小さく息をついた。


「……お約束は出来かねます。ですが、それをカカ様に咲耶殿の口から願うことが、肝要かと」

「香火彦さんに……」


 時の循環を司どるという神。神獣ノ里のおさだということは、以前に和彰が教えてくれた。愁月が『様付け』していたことも考えると、咲耶が考えているよりも高位の『神様』なのかも知れない。


「えぇ。いまのカカ様なら(・・・・・・・・)おそらくは──」


 猪子が何かを言いかけた時、咲耶たちがいる場所よりも天に近い橋の上の方から、まばゆい光が放たれた。


「……なに? いまの……」

「ああ、なんてこと……!」


 白い輝きに目を細めた咲耶のつぶやきと、猪子のうめき声のようなそれが、重なる。


 一瞬のちには、辺りは薄闇に覆われていたが、猪子は上方をにらむように見据えたままだった。横顔からは先ほどまでにはなかった、あせりが見てとれる。


 咲耶は思わず猪子に声をかけた。


「どうかしたんですか?」

「……が、終わってしまった……」

「え?」


 よく聞き取れずに、猪子を見つめる。目を伏せたまま、しばらく何か考える素振りを見せたのち、思いきったように猪子が咲耶に向き直った。


「咲耶殿」


 ぎゅっ……と、咲耶の両手を握りしめ、真剣な目をして猪子が言う。


「わたくしが良かれと思って為したことは、無駄になってしまいました。ですが……咲耶殿が白いトラ神を強く想う気持ちがあれば、その想いこそが咲耶殿をふたたび、この世界へと導くことでしょう」

「……それは、どういう意味ですか?」


 あまりにも抽象的で予言めいた言葉に、咲耶はとまどいを隠せない。自分の命運が、これほどまでに心もとなく思えたのは、初めてのことだった。


(何が、起こったというの?)


 薄ら寒い心地でいる咲耶に対し、猪子はお構い無しに話し続ける。


「これから咲耶殿がお会いになるカカ様は、わたくしが咲耶殿にお引き合わせしようとしたカカ様とは、異なる存在なのです」

「…………香火彦さんと呼ばれる方は、何人もいるということですか?」

「いいえ」


 咲耶の推察を、猪子がきっぱりと否定する。次に猪子が話したことは、咲耶にはすぐに理解し難い内容だった。


「カカ様は『時の循環』をいわれにもつお方。我らとは違い、その身と心を循環する定めをもっておられるのです。

 それは“毛脱けぬけ”と呼ばれる心身の……いわば生まれ変わりのような事象。先ほどの光は、それが行われたことを示したものなのです」

「それで……そのことが私に、どういう影響があるというんですか?」


 一向に要領を得ない話の成り行きに、咲耶は不安のあまり、自ら死刑宣告をうながす想いで問い返す。


「分かりません。今度のカカ様(・・・・・・)が、どのような沙汰を咲耶殿に下されるかは」


 しかし、同じ『神』であるはずの猪子の答えは、結論を先延ばしにするという、咲耶にとって最も嫌なものであった。


「先ほどまでのカカ様は規律に厳しい面もお持ちでしたが、同時に温情あるお方でもありましたから、咲耶殿の処遇にも何らかの配慮をしてくれるはずでした。

 ですからわたくしも、“毛脱け”の前にと、咲耶殿をお迎えに上がったのです。ですが──」


 猪子の細い目が、上空へと向けられた。


「いま、あちらの宮に居られるのは……気まぐれで無邪気な、幼いカカ様。咲耶殿にどのように接するかは……ご気分次第でしょう」


 嘆息と共に猪子は告げたが、誰よりも嘆きたいのは咲耶のほうであった。


(私のこれからが、気分次第で決められるだなんて……)


 咲耶は、和彰や眷属たちと過ごした屋敷のあるだろう方向を、振り返る。


(和彰……みんな……)


 咲耶の胸にあるのは、彼らに対する想いと、それを伝えるべき者たちがいる故郷への想い。


 理不尽だと嘆いても、状況は変わらない。ならば、前を向き、自分が進みたい道をつかみとらなければ。


(もう一度、この世界に戻ってくるためにも)


 咲耶は意を決してシシ神の女を見つめた。


「……香火彦さんに、会わせてください」





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