《一》憐れな花嫁──罪をあがなうべき時が来たのだ。
❖作者より❖
この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。
この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。
日中はだいぶ暖かくなってきたが、春先の夜はやはり冷える。咲耶は手指をこすり合わせたあと、足の先もさすった。
わずかに欠け始めた月は、吹き抜けた風が運んだ薄紅色の花びらを確認できるほどには、辺りを明るく照らしている。
(同じ月に、見えてた)
咲耶が二十八年間、暮らした世界のものと。この夜空の、ずっとずっと遠い空の下に、母親や弟がいるような気がしていた。
(だから、私は──)
「何をしている」
抑揚のない低い声音が、咲耶の思考をさえぎる。弾かれたように顔を上げれば、整い過ぎて冷たく見える美貌の青年が、月を背に従え、咲耶をのぞきこんでいた。
「ゴメン……。結局、起こしちゃったね」
眠りにつけずに寝返りをうつ自分が、側で眠る白い神獣の安眠を妨害してしまうと思い、濡れ縁に出てきたのだが。
「構わぬ。お前が寝付けぬことの方が問題だ」
衣ずれのさやかな音と共に、包みこまれる身体。冷えた身に、和彰の体温が、心地いい。咲耶は、和彰の胸もとに額を押しつけた。
このままぬくもりに甘えて、突きつけられた真実から目を背けたくなる。……なぜ、いまになって明かされなければならなかったのか。
何もかもを水に流し、赦そうと思った愁月に対し、また憎しみに似た憤りをかかえることになるとは、思ってもみなかった。
「何を憂えている」
黙ったままでいる咲耶の耳に、和彰の声が静かに響く。
「師に何か言われたのか」
核心をつく問いに、咲耶の心臓が跳ねる。
どう伝えて良いのか分からず、昼のあいだも迷い続け、結果、何事もなかったように振る舞っていた。だが、愁月の所に行ってから様子のおかしい咲耶に、張り付くように側にいた和彰が、気づかないはずがなかった。
「私……」
咲耶は両手をにぎりしめる。愁月から聞かされた話を思いだしながら、震える思いで言った。
「本当は、ここにいちゃ、いけない人間なの」
──愁月の話は、こうだった。
「花嫁の召喚は各国の神官が香火彦様の御力を借りて行う。時の循環を司る彼のお方が、異界との接触を可能にする力をくださるのだ」
どういうことかと訊き返した咲耶に、愁月はまず、そう語り始めた。
「そして、一定の条件を満たした花嫁を召喚するため、我ら神官が“召喚の儀”を執り行う。
召喚条件は、その者を喚び寄せてもそのことによって異界にもたらすひずみが少なくて済むよう、あらかじめ香火彦様が取り決めたものだ。
ひとつ、慈悲深き者であること。
ひとつ、対となる神獣に無いものをもつ者であること。
しかし、この二つの要件は、あくまでも『こちら側の都合』の問題。最も重要なのは」
よどみなく、何も知らない咲耶に教えながら話す愁月が、そこで声をかすれさせた。続きを言うのをためらうように。
「……親兄弟と、死に別れていることなのだ」
何を言われるのかと身構えていた咲耶は、まばたきをひとつ、返した。ひきつった、嫌な笑みを浮かべてしまう。
「私の……母は、生きています。弟も」
「そうであろうな」
「じゃあ、なんで……」
言いかけて、咲耶は言葉をのみこむ。
確認するまでもない。おそらく愁月が、召喚条件を満たしていないと分かったうえで、あえて咲耶を召喚したのだ。
「だから……謝るっていうんですか……!」
咲耶の声が震えたのは、怒りのためだ。すでに咲耶はこの世界に『存在してしまっている』。それを──。
「ハクコの“契りの儀”が三度で打ち切られるという事態に、私が召喚する者の条件を変えたのだ。死に別れた者ではなく……親兄弟から『心が離れている者』に」
憐れむような愁月の眼差しに、咲耶は唇をかみしめる。あの日の自分の境遇と、心持ちを思いだしたからだ。
(二人とも勝手にすればいいって、思った)
投げやりな気分のまま、仲間外れにされたことを、拗ねた子供のように恨んでいた。どうせ自分は独り、あのボロ家で暮らすことになるのだからと。
(あんな家に帰りたくないって、思ってた)
友人や弟に結婚話が出たことに対し、三十路間近の自分はといえば、一生懸命に勤めた職を解雇され、彼氏と呼べるような存在もいない。周囲の人間から取り残されたような、空虚な思いをかかえていた。
そんな時──召喚された陽ノ元という世界。
(あの日、和彰が……私を必要だって、言ってくれた)
咲耶は、この世界に喚ばれ『何ももたない自分』を必要としてくれる存在に出逢えたことが、嬉しかった。初めてそんな風に誰かから言われ、とまどいよりも期待に応えたいと思ったのも事実だ。
「そなたが喚ばれるのは分かっていたこと。召喚前に、私もハクコも、そなたの魂と出会っていたのだからな。……この庭で」
愁月が向けた視線の先の藤棚を見て、和彰の魂と同化し分かたれた時のことが、咲耶の脳裏をよぎった。月下の庭と、愁月の意味深長な言葉。
「どこから来たのかは分からないが、いずれ、また……って」
「そなたの魂が、神獣の加護を受けているのが視えたのだ。それも、白き神獣のな。
ならばそれは、この先の未来──ハクコの花嫁となる者であろう、と」
卵が先か、鶏が先か、それは解らない。咲耶がここにいること、それがすべてではないのか。
「それなら……私が喚ばれたのは、必然ではないんですか?」
肯定を求めて言った咲耶に対し、愁月は首を横に振る。
「私が条件を偽ったからこそ、そなたはいま、ここにいる。……香火彦様にそれを知られてしまった以上、そなたは本来あるべき場所へと戻されるだろうな」
「戻されるって、そんなっ……!」
すでに決まったことのように、愁月の声音は揺るぎない。咲耶は、言われたことの意味を考えたくなくて、無理やり声をあげた。
「だって……! 私は、和彰の花嫁なんですよ? 神力も遣えるし……“仮の花嫁”とは違って、簡単には元の世界に戻れないって……」
自分の存在価値を必死に言い募る。だがそれが、自らを苦しめる事実をはらむことに、気づく結果となってしまった。
簡単には戻れない。それは、裏を返せば──。
「先ほども申した通り、香火彦様は時の循環を司るお方。過去・現在・未来を支配される、神なのだ。そなたのいた異界へ……そなたを召喚した『時と空間』に戻すのは、容易いことだろう」
唐突に愁月は咲耶に向き直ると、床に額をつけるように頭を下げた。
「このような結果となり、すまない。すべては私の身勝手が招いた罪。誠に……そなたには、申し訳ないことをした……」
愁月の片腕は、だらりと垂れ下がったまま、身体にあるというだけで、もう機能していないように見える。その声と姿からは、いつもの飄飄とした余裕が感じられない。
初めて本心を語るだろう愁月の姿に、咲耶は何も言えなくなってしまった。恨む言葉も呪う言葉も、罵る言葉でさえも。
「──それで、お前はどうしたいのだ」
黙って咲耶の話を聞いていた和彰が、ぽつりと言った。
「お前は羽衣を手にしたのだろう? 元の世界に帰りたくなったのか」
淡々とした口調で問われ、咲耶は顔を上げた。
まっすぐに咲耶を見る和彰からは、なんの感情も窺えなかった。それが、咲耶を無性にいら立たせる。
「そんな訳ないじゃない! 私は、みんなの……和彰の側に、いたいのにっ」
不安が憤りに形を変え、咲耶の目じりに涙がにじむ。
愁月が明かした真実は、咲耶に「お前は用済みだからこの世界を去れ」と言っていたのも同然だからだ。その事実が、咲耶を一番に傷つけた。
「いまさらなんなの? 花嫁の召喚条件を偽っていたから、元の世界に戻らなきゃならないだなんて。私の気持ちは……どうだっていいって、いうの?」
「違う」
愁月にぶつけるはずの怒りの矛先を、和彰に向けるのは筋違いだ。それが解っていながら声を荒らげた咲耶に、和彰の冷静な声音が制する。
「師は間違っておられる。私の花嫁は、お前しかいない。お前が私に名をくれたのが何よりの“証”だ」
冷たい指先が、咲耶の興奮して熱くなった頬を、なだめるように伝う。
「お前がここにいることに誰の赦しが必要だというのだ。師の言葉も香火彦の取り決めも、関係ない」
言った和彰の両腕が伸びて、咲耶の身を自らに引き寄せる。
「私は、お前の望むことであれば、どんな願いでも叶えてやるつもりだった。だが……お前が陽ノ元を、私の側を離れたいという願いは、叶えたくないと思ってしまった」
耳に落ちる低い声音は揺れて震え、和彰自身、自分の気持ちにとまどっているのが分かった。
「お前の願いを叶えるのが、私の『理』であるのに」
──咲耶が真に望むのであれば例え間違った願いでも叶えると、ためらいなく言ってのけた、いつかの和彰。
「私の気持ちは……願いは、和彰の側にいることだよ? 元の世界に、帰ることじゃない」
和彰の腕のなかで、咲耶は甘えるように先ほどの言葉を繰り返した。
背に回された和彰の手のひらが、咲耶がここにいることを確かめるようになでさする。
「ああ。だから、安堵した」
仰向けば、微笑む和彰と目が合った。なんとなく照れくさい思いでうつむきかけた咲耶の顔に、月影がかかる。
和彰の吐息を唇に感じ、甘い予感に身をゆだねた、その時──。
「どうやら、わたくしはまた、無粋な真似をする者になるようですわね」
気取った女の高い声。ほぼ同時に、地鳴りが辺りに響く。
「なに?」
驚いて声のした方向を見ると、庭先に巨大な水柱が出現していた。しぶきと共に上がったそれは、見る間に水の龍となる。
「咲耶!」
和彰の声が咲耶の足もとでした──何が起こったのか、分からない。
気づけば咲耶は屋敷を見下ろす高さにいた。半透明な、龍の頭の上に。咲耶の身体を支えるのは、白い小袖のふくよかな腕。
「なんで私、こんな所に……」
「大人しくしてくださいまし、咲耶殿。すぐに済みますから」
背後で意味ありげに告げられた直後。咲耶ののどに、女の、火のように熱い指が絡まった。
「猪子、さん……?」
声と口調を手がかりに振り向けば、やはりそこには癖のある赤茶色の髪の、細い目をした女がいた。ふっ……と、咲耶に笑ってみせると、下方へ向かい鋭い声音を放つ。
「よく聞け、白いトラ神よ! そなたが駄々っ子のような恋慕で縛りつけた憐れな花嫁を、解放してやる時が来たのだ!」
猪子の言葉に咲耶が反論しかけると、のどもとに置かれた指にぐっと力がこめられた。咲耶の気道を狭めたのだ。
「……っ……!」
思うようにならない声に、咲耶は身体を揺さぶり抵抗する。すると、足もとから這い上がってきた水が、縄のように咲耶の胴と両腕を締め付けた。
ふたたび、猪子が耳もとでささやく。
「咲耶殿? いっときの感情で、判断を誤ってはなりませんよ?」
言いおいた猪子の、空いた片腕が上がる──闇夜に、轟音が大気を震わせ、火花が派手に散った。咲耶に向ける物言いとは明らかに違う口調で、猪子がすごむ。
「引っ込んでおれ、雷犬! そちらの風犬もだ! それ以上、一歩でも動かば花嫁のこの首、へし折ってくれようぞ!」
舞い上がりかけた竜巻が、瞬時に消え去った。それを見届けた猪子の細い目が、さらに細められる。
「白いトラ神よ、よく考えてみることだ。そなたが慕う神官が犯した過ちを。召喚条件を偽られたがために、本来あるべき場所から連れ去られた、憐れな花嫁のことを。
花嫁を慈しみ育てた者らから、この陽ノ元という異界へと奪い去った罪を、あがなうべき時が来たのだ」
それまでとは打って変わり、諭すように語る猪子に、こちらを見上げた和彰が身じろいだ。迷い子のような頼りなげな眼差しに、咲耶は首を横に振ろうとしたが、恐ろしいほどの握力に阻まれる。
「咲耶、私は──」
伝えたい想いは涙となり、咲耶の頬に月光の雫の跡を残す。その真意を、白い神獣はどう受け取ったのか。
心のうちで呼び続けた真名の持ち主は、かすれる低い声音で応えた。
「……香火彦に……願い奉る。私の花嫁を、本来あるべき時空へと、戻してやって欲しい……」
──それは、咲耶の望む応えでは、なかった。




