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神獣の花嫁〜かの者に捧ぐ〜  作者: 一茅 苑呼
漆 禍つびの神獣(かみ) ─後篇─
59/73

《十》白い神獣、降臨──なぜ、泣いているのだ。

❖作者より❖

この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。

この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。


 格子戸のすき間から夕陽が差し込んでいた。少し肌寒さを感じる風が、咲耶の頬をなでる。


「時が来るのを待て」と愁月が咲耶に告げたのは、何か行動を起こすつもりなのか。それとも、何かしらの行動を咲耶に期待してのことなのか。


 いずれにせよ、咲耶は現在、大神社内の片隅にあるほこらのなかに閉じ込められていた。


「儀式を終えたのち、また参ります。……どうぞ、ご辛抱くださいますよう……」


 そう言い残し、咲耶を祠に入れたのち格子戸を閉めた沙雪は、懐から取り出した短冊を戸の合わせに貼り、立ち去ってしまった。


 斜めに貼られたお札のようなそれは、咲耶を閉じ込めるための封印だろう。現に、何度か乱暴に戸を叩き開けようとしたが、びくともしなかった。


(このまま何もせずに待っているだけで、本当に良いのかな……?)


 愁月を信じると決めた。だが同時に、自分にできることがあれば何かしなければという焦りが、咲耶のなかにあった。


(和彰……)


 身の内に取り込んでしまった御珠を……白い神獣の化身を想う。


 飲み込んだ直後こそ、飴を誤飲してしまった時の感覚があったが、いまは胸の辺りがじんわりと暖かい。それはまるで、和彰が咲耶を内側から守ってくれているかのようだった。


(そうよ。目には見えなくても、和彰はここにいて(・・・・・)、そして、私は和彰の花嫁なんだから……!)


 そう強く思った時、咲耶の頭のなかで様々な事柄の断片が、ひとつ、ふたつ……と、つなぎ合わされた。


(まさか、愁月の狙いは──)


 はっとして、咲耶は顔を上げる。夜のとばりが周囲をつつみ始めていた。その時、静寂を打ち破るかのような鼓の音が空間を震わせた。次いで、しょうの音が、寄り添うように音色を奏でる。


(何……?)


 どくん、と、咲耶の心臓が脈打った。単調な曲でありながら、人の心をかきたてる音色。何かが、始まろうとしているのだ。


(私は……本当にここにいて、いいの?)


 祠とは、本来は神をまつるためのものだろう。だが、咲耶のいるここはまるで牢獄のようで、自分は罪人であるかのような扱いだ。


 格子戸に手をかけて、咲耶は追い立てられるように声をあげた。


「誰かっ……! 犬貴! 犬朗! タンタン! 転々!」


 愁月の手によって、封じられてしまった眷属。呼べば……いや、咲耶に危険が及べば、察して現れるはずのモノたち。


「みんなっ……お願い、ここから私を出してっ……!」


 自分は何度、彼らに「お願い」と懇願してきただろう。自分は彼らに見合うだけの主になれたのだろうか? 自問自答しつつ、繰り返し眷属たちの名を呼ぶ。


 すっかり闇夜に変わった格子戸の向こうを祈る想いで見つめる咲耶の目に、地を弾むまりのような物体が映った。「咲耶さまぁっ」──可愛らしい声と共に。






 突然 現れた存在は、呼び続けた眷属だ。咲耶はにわかに信じがたい思いで、キジトラ白の猫を見る。


「咲耶さま、いまそこから出して差し上げますからねっ」


 丸い瞳が咲耶を見返し、きらりと光る。たんっ、と軽く跳躍すると、前足の先で封印符であろうそれを破くようにはがす。ずっと壊れるほど叩き続けても開かなかった戸が、嘘のように軽く前に開いた。


「転々、どうして……」


 あまりにも思いがけずに叶った再会。喜びよりも疑問が先に立ってしまう咲耶に、転々が飛びついてきた。


「咲耶さま、咲耶さまぁっ」


 ゴロゴロとのどを鳴らしながら、転々は咲耶の衣に自らの匂いをこすりつけるように頬ずりをする。


「転々、愁月に封じられてたはずじゃ……」

「は、そうだった! 咲耶さま、犬貴たちの札、持ってますよねっ?」

「え? うん、ここに……」


 少し冷えた指先にやわらかな猫の毛並みとぬくもりが触れて、咲耶を癒やしてくれる。ついさきほどまでの追い立てられた感情が、やわらいでいくのがわかった。


「出して、あたいの前に並べてもらえますか?」


 言われて咲耶は、素直に虎毛犬たちとタヌキ耳の少年が描かれたものを、懐から取り出す。するりと咲耶の腕から降りたキジトラの猫が、置かれた札の前で目を閉じた。

 直後、開かれたその口からは、転々のものとまったく違う声音が発せられる。


『……“約定の名付け”において、付した決まりの第二条を解く。すなわちこれをもって、犬貴、犬朗、たぬ吉を主のもとへと放つまじないとす』


 転々の小さな前足が、三枚の封印札を順に弾き飛ばす。


『“解呪かいじゅ”』


 力強い響きの言葉が転々の口をついて出たとたん、ひらりと浮き上がった札が空中で静止する。


 すると、まばゆい光が辺りを照らし、驚きに目を見張る咲耶の前で、封じられていたはずの眷属らが姿を現した。


「みんなっ……」


 状況が分からずにとまどうタヌキ耳の少年。自らの身体を見下ろしたのち、咲耶に向けた隻眼をまぶしそうに細める虎毛犬。その中で、迷うことなく咲耶を見つめた精悍な顔立ちの虎毛犬が、口を開く。


「咲耶様、ご命令を」


 来るべき時がきたのだと、咲耶に知らしめるように。うながす犬貴に、咲耶の胸が緊張と興奮によって高鳴った。震える思いで、咲耶は主命を口にする。


「……私を、和彰の神の器のある場所に、連れて行って」






 調子をとるように打ち鳴らされる鼓、笙に合わせて豊かな彩りをそえる弦の音が、空間を伝わって流れてくる。


「……無茶なことをなさいました」


 ぽつりと漏らされた言葉には責めるところはなく、むしろ優しい嘆きでもって咲耶をねぎらう想いがにじみ出ていた。そんな犬貴に、咲耶は苦笑いを返す。


「うん。だけど……他に方法が思い浮かばなくて」


 思うように歩くことができない咲耶を支えるのは、たぬ吉の腕。前方を足早に、それでも主を窺いながら歩く犬貴。後方には辺りに目を配り、咲耶のあとを追う犬朗と転々がいた。


「……けどよ、その身体で神力が扱えるのか?」


 めずらしく渋い声で咲耶の身を案じる犬朗に、咲耶は笑ってみせる。


「扱えるわ。……ううん、扱うしか選択肢はないと思う」


 咲耶の推測が正しければ、愁月はその舞台を用意しているはずなのだから。


 ──和彰の御珠を体内に入れた咲耶は、和彰の魂の『依代よりしろ』となっているのだろうというのが、犬貴の見解だった。咲耶の数々の不可思議な体験は、和彰の魂の記憶に違いないと、と。


(犬貴や犬朗が私を見てすぐに気づいたように、愁月だって私がしたことに勘づいたはず)


 咲耶が身内に和彰を取り込んだことを。それをあえて指摘しなかったのには、やはり、別の思惑があったからだろう。


「咲耶様」


 緊迫した犬貴の呼びかけ。瞬時に、傍らの眷属たちに緊張が走る。音色の合間を縫って、人々のささやき声が聞こえてきた。


 石灯籠のわずかな明かりでは咲耶の目にはよくは見えないが、犬貴らの感覚では確かなものがあるのだろう。


「この向こうに、和彰の神の器が……?」


 皆まで言えない咲耶に代わり、黒虎毛の犬が静かに肯定する。


「左様にございます。……参りますか?」


 様々な決断を迫った確認に、咲耶はきゅっと唇を引き結ぶ。


「お願い」


 咲耶の言葉に、一斉に眷属らが己が役目を果たすべく動きだす。


 足早に歩き出した たぬ吉が「変化へんげッ」という短い語を放ち、姿形を変え堂々たる立ち居振舞いで、咲耶たちの前を行く。

 その後ろ姿を追った犬貴の身が煙のようなものに変わり、やがて闇夜に溶けこむようにして消える。後ろに控えた犬朗が、自らの背に咲耶を担ぎ上げた。


「さてと。俺たちも行くか、咲耶サマ?」

「行こう!」


 隻眼の虎毛犬の軽い調子でありながら鼓舞するような物言いに、咲耶も力強くうなずいた。

 直後、よく通る、若い男の声が辺りに響く。


「誰ぞの命があってこのような儀式を取り行っておるのだ。この国の長たる私をさしおき、よもやキツネにでも化かされておるのではあるまいな?」


 朗々たる声音を放つのは、官服を身にまとった若さに似合わぬ威厳をもつ青年。松明たいまつの灯りの下、揶揄をはらんだ物言いと姿は、咲耶のよく知る不遜ふそんで尊大な男と瓜二つだった。


(タンタンの“変化”の力、本当にすごいな)


 犬朗の背にもたれ、共に木陰で成り行きを見守る咲耶は、胸中で感嘆の声をあげる。


 案の定、祭壇を遠巻きに囲む人々からとまどいの声が上がり始め、宵闇に溶けこむように流れていた雅楽の音色も、徐々に消え失せてしまう。


 ──そして。


(やっぱり……!!)


 四方にある石灯籠と臨時に置かれたであろう松明のかがり火が、その中央に位置する存在をまざまざと見せつけた。


 祭壇の前に横たわる、白い神獣の化身。和彰の神の器が、そこにはあった。


 眠っているようにも見える姿は、しかし微動だにもせず、和彰に似せて造った精巧な人形のように、咲耶の目には映ってしまう。


 無理もない。あの神の器という肉体に宿るべき魂は、咲耶の身の内にあるのだから。


(……っ……)


 くらり、と、傾げる上体。咲耶を襲う、何度目になるか分からない、めまい。


「大丈夫か、咲耶サマ?」

「咲耶さまっ……!」


 咲耶の異変に気づいたらしい犬朗と転々に、強くうなずき返す。……ここで咲耶があきらめてしまえば、すべてが水の泡だ。


「……ほう」


 さざなみのように広がった人々の不審と疑念に対し、動揺する素振りも見せずにこちらを振り返ったのは、本物の国司・萩原尊臣だった。


「誰が仕組んだ余興かはしらんが、まがつ神を滅する儀を中断させようとはな。……いいだろう」


 ニヤリと不敵に微笑み、手にした細長い物を己の身を映したような存在へと、放って寄越す。


「“神逐らいの剣”だ。萩原家の正統な剣の継承者にしか扱えないとされる、な。お前が本物の萩原尊臣だというのなら、そいつを引き抜けるだろう?」


 自らに化けた たぬ吉に対し、証明を求めることで自分こそが尊臣本人であることを証明する。そこに、物事に動じない強かな精神力と、予期せぬ出来事を楽しむ余裕を感じさせ、格の違いを見せつけられた。


「も、物ノ怪だ! 尊臣様に化け、神聖なる儀式を邪魔する不届きな輩を即刻、引っ捕らえよ!」


 我に返ったように、どこからか声があがる。正体を見破られ、棒立ちになる たぬ吉を捕らえようと、周囲の者らが動いた。


 瞬間。地中から黒い煙が立ち上ぼり、風が大きな渦を巻く。


「うわあッ……!」


 集まり出した者たちを弾き飛ばす、旋風。衝撃に、幾つもの悲鳴とうめき声が、辺りにこだました。


(犬貴!)


 白い水干に身をつつんだ、黒虎毛の犬が姿を現す。恐怖をはらんだどよめきが、場にいた者たちからわきあがった。そのなかで、人よりも人らしく毅然きぜんとした態度で犬貴が言い放った。


「不当な手段で奪われた我が主を、返していただく」


 衣をひるがえし、和彰の神の器へと瞬く間に距離をつめる──はずだった。


 閃光せんこうが、行く手を阻むように犬貴の左肩を貫く。祭壇のある方角から、続けざま放たれる、まばゆい光の攻撃。


 咲耶は思わず、すがりついた犬朗の腕を、ぎゅっと握りしめた。


「犬朗っ……!」

「……咲耶サマ、まだだ」


 小声でうながす主を、かすれた声音が制する。その声に苦さが含まれるのは、咲耶同様、黒い甲斐犬をすぐにでも助けたい思いからだろう。


 空中に縫いつけられたかのように、光の矢は犬貴の身をその場に留める。四肢を拘束する力に対抗すべく、黒い甲斐犬がうなり声をあげた。

 咆哮ほうこうは周囲にいた者たちを震えあがらせたが、肝心の尊臣も力を差し向けた愁月も意に介した様子はない。


「尊臣様」


 白木のさやに覆われた大きな刀を拾い上げ、愁月は本来の持ち主へと手渡す。


(あれが……)


 “神逐らいの剣”という大層な名の割には、何の飾り気もない質素な造り。剣というが、片刃の太刀たちであろうことがうかがえる、細身のものだ。だが、その存在ゆえに、和彰たち神獣が軽んじられてきたのも事実なのだ。


 咲耶は、大きく息をつく。気を抜くと、自身を保っていられないほどの、何か大きな『力』に支配されてしまうような感覚にとらわれる。


(怖い……)


 その感覚に呑み込まれそうな自分も。この先に待ち受ける事態も。


 揺れ動く視界に、咲耶が懸命に目をこらした、直後。尊臣の手で、すらりと引き抜かれた刃が、白い神獣の化身へと、突き立てられた──。


「……っ、あ……」


 鈍痛が咲耶の身を襲うのとほぼ同時。黒い獣の怒りに満ち、たけり狂う声が、空間を震わせた。


「咲耶サマ……!」


 犬朗の呼びかけに声に出さずにうなずき、傍らで心配そうに咲耶を見上げるキジトラ白の猫に、無理やり微笑んでみせた。


 それから、大きな背中に合図を出すように、しがみつく。息苦しさのあまり必要以上に力が入ったが、赤虎毛の犬は主の身体の状態よりも、その想いに応えることを優先したようだった。


 右腕で咲耶を背負い、左手にいかづちの力を凝縮した剣を手にして、隻眼の虎毛犬が跳躍する。


「行くぜッ……“神鳴しんめい剣”!」


 空を切り軽々と人身の頭上を越え、犬朗は和彰の神の器がある祭壇の前へ、咲耶ごと着地しようとする。

 降りざまに振りかざした斬撃は、神をもはらうとされる剣に真っ向から受け止められた。拍子に、咲耶は犬朗の背中から転がり落ちる。


「咲耶!?」


 不遜な男の顔に、ここにきて初めて動揺が走った。その目が、背後にいる己の命に忠実であったはずの官吏に、向けられる。


「愁月ッ……!」

「……おっと。よそ見をしてる場合か? 国司サ、マっ!」


 相対する男のゆるんだ力と体勢に、すかさず赤虎毛の犬は握る剣に拮抗きっこうをくずさんとする力を込める。とたん、小さな稲光が発せられ、辺り一面を昼のように明るく照らした。


(和彰……待っててね、いま助けるから……!)


 咲耶は朦朧もうろうとする意識の影響で、たたらを踏みながらも和彰の身体に近づき、“神逐らいの剣”によって負わされたであろう傷をのぞきこむ。


「……っ……」


 大量出血していないのが不思議なほどに、首筋には大きく裂かれた傷跡があった。咲耶の脳裏に、以前、愁月に見せられた綾乃あやのの神の器が浮かんだ。


(いまの和彰の神の器は、仮死状態ってことなのかもしれない)


 魂魄こんぱくを切り離された状態。愁月がした綾乃の神の器の説明は、そのまま目の前の和彰にも当てはまる。違うのは、和彰の場合はあらかじめ愁月が人為的に(・・・・)こころ』と『からだ』を分けたことだ。


(私のもつ神力は、『治癒と再生』)


 斬られれば神の器でさえ再生を許さないとされる、“神逐らいの剣”。反して、白い花嫁には、死者すらよみがえらせる神力ちからがある。


 まるで『矛盾』の故事を彷彿ほうふつとさせるような事態に、しかし咲耶には、愁月を信じて神力を奮うより他に、道は残されていない。


(和彰、お願い、還ってきて……!!)


 何より、咲耶自身が和彰を取り戻したいのだ。神力を遣うことに迷う理由は、どこにもなかった。


 咲耶の右手の甲に刻まれたあとが熱くなる。いつもより強く感じる熱は、まるで焼きごてでも当てられたかのようだ。


「か……っ、は……!」


 込み上げる、吐き気。ぐるぐると回る視界。脳を揺らすように咲耶のなかで奏でられる、不協和音。ここではない何処か──うつつではない場所に、連れて行かれそうになる。


「咲耶サマ!」


 尊臣と剣を交える虎毛犬から、かつとも言える声が飛んできて、咲耶の身体と心を現実世界に引き戻す。


「だい、じょ……ぶ……やれる、わ……!」


 深呼吸をしようと息を吸い込む。が、思うようにいかない。


(私が……私しか、和彰を助けられない……!)


 代行する力よりも遙かに強大な『神の力』。いま、咲耶の身の内に宿るのは、白き神獣の真なる御力みちからなのだ。


「……かず、あき」


 自分の物ではないような右手を必死で伸ばし、愛しき者の身体にあてがう。触れる肉体は冷たく硬い。見た目以上に人形のようだ。


「還って……還って、きて。あなたの、身体に……!」


 咲耶が触れた場所から、みるみるうちにふさがれる傷口。椿を蘇らせた時と同様、咲耶の手のひらに確かな生命の手応えが伝わってきた。だが──。


「かずあき……?」


 鼓動は感じられるのに、和彰の目が開く気配が全くない。


「咲耶サマ、旦那はっ……?」

「どうして……? なんで和彰、目を開けてくれないの……?」

「──無駄だ。“神逐らいの剣”が断ち切るのは、魂魄のつながり、なんだから、なっ。人の傷や病をやすのとは、訳が違うっ……!」


 剣戟けんげきの合間に、急かすように問いかける犬朗と、鼻で笑ってみせる尊臣。ふたりからかけられる声がやけに遠く感じられ、咲耶は横たわったままの和彰を呆然と見下ろす。


「身体……温かいのに……」


 そして、咲耶の内側で荒れ狂った白き神獣の甚大なる力は、先ほど奮った神力と共に、身の内から消え去っていた。そのため、信じられないくらいに身体が軽い。


(どうして? 私の中にあった和彰の力と一緒に、和彰は和彰の身体に、戻ったんじゃないの?)


 咲耶は神の現し身であるその身体を、両手で揺さぶった。


「和彰、お願い、目を開けて!」


 叫ぶ咲耶の耳に、ひそやかな笑い声が届く。


「……咲耶。そなた大事なことを忘れておるのではないか?」

「え?」


 独特の抑揚ある男の声に反応し、咲耶は思わず顔を上げる。気づけば、すぐ側に愁月がいた。隙をつかれたといわんばかりに、犬朗たちの動きが一瞬、止まる。


「愁月、何を──」

「何度も言わせんなよ? あんたの相手は、この俺だっ」


 言葉の勢いのまま、赤虎毛の犬が振り下ろす剣が、稲妻の軌跡を描く。すかさず、衣冠姿の若い男は、舌打ちしながら後ずさった。


「忘れてるって……」


 素直に訊き返す咲耶に、神官である男は、自らの胸もとに軽く握った拳を置いた。能面のような顔に、微笑が浮かぶ。


(そうだ! 御珠!)


人形ひとがたでしかない神の器に魂を吹き込める(・・・・・・・)のは、そなただけ」


 告げる言葉が意味するのは、咲耶の身の内にあるあたたかな存在を、本来あるべきところへ戻せということだ。


(……え? でも、それって……そういうコト?)


 つかの間、ためらい。そして、開き直る。


(……ああ、もうっ……、いいや、やっちゃえ!)


 咲耶はその身を伏せ、美貌の青年のあごを上向かせると、人工呼吸の要領で息を吹き込んだ。


(和彰、今度こそ戻って来て! お願い……!)


 ぎゅっと目をつぶり、唇を合わせたまま祈る。永遠にも思えるほどの時間──。


 しかしそれは、背中に回された力強い腕と大きな手のひらの感触によって、正常な時の流れを刻みだす。


(あ…………)


 確かめるようにたどるもう片方の指先が、咲耶の頬から耳を伝い、後頭部の髪をそっと絡めとる。


「か……っ……」


 言いかけて、呑み込まれる愛しき者の真名なまえ。離れかけた唇を奪ったのは、当の本人だった。


 ぬくもりも、吐息も。言葉よりも明瞭に、咲耶を求めているのが分かる。


「……なぜ、泣いているのだ」


 低い声音に問いかけられ、咲耶は強くまばたきをして涙を追いやった。青みがかった黒い瞳に自分が映りこみ、安堵あんどの溜息をつく。


「やっと……和彰に逢えて、嬉しいから」


 至近距離でささやき返すと、わずかに寄せられた柳眉が戻り、美しい面に笑みが浮かぶ。


「私も、お前に逢えて、嬉しい」


 ──それは、この下総ノ国に、ふたたび白い神獣が降臨した瞬間だった。





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