《二》赤虎の招待──そうですね……姫さまの害になることはないかと思われます。
姿見の前で咲耶は得意げに、片手を腰におく。
(うーん、椿ちゃん、グッジョブ!)
鏡のなかに映しだされる咲耶は、着丈の短い白い水干に、ふくらはぎ半ばまでの黒い筒袴という装いだった。
(って。私のためを想って、用意してくれたんだよね、この着物……)
咲耶が、この世界で過ごしやすいように。
昨晩、椿に着替えを手伝ってもらった際、
「私もハクコみたいな格好のほうが、動きやすいのになぁ……」
という愚痴をこぼしてしまったのだが、それを聞いた椿が、夜なべ仕事をしてくれたらしい。
(なんか、元の世界に帰りたいとか、言いだしにくくなっちゃったな)
深く考えずに言った自分のひとことに、すぐさま対応してくれた少女。咲耶自身、好感をもってしまっただけに、困らせることはしたくない。
心苦しさのあまり何かお返しに、自分ができることはないかと問えば、
「いいえ、姫さま。わたしが姫さまにお仕えしている以上、姫さまの望むことをするのは、当たり前のことなのです。
そのように、お喜びいただけることが、一番の褒美にございます」
と、微笑み返しされてしまったのだが。
この恩は、いつか返さねばと咲耶は心に誓った。
(椿ちゃんが私の身の回りの世話をやいてくれる人だっていうのは解ったけど。
私のワガママを、なんでも聞いてもらうっていうのとは、やっぱりちょっと違うよね)
『仕事の領域』、とでもいうのだろうか? それは、やはり分別をつけなければならない気がすると、咲耶は考えていた。
そこへ、椿から声をかけられ返事をすると、
「姫さま宛てに、文が届きました」
と、螺鈿細工が施された漆塗りの長方形の箱を持ち、椿が室内に入ってきた。
「……私に? 何かの間違いじゃない?」
咲耶がこちらに喚ばれたのは、昨晩のこと。知人はおろか、顔見知り程度の者ですら、皆無に近いのだ。そんな自分に手紙を寄越す者がいるとは、考えにくい。
「いいえ。ハク様の対の方……つまり姫さまにと、承りました」
やんわりと椿に否定され、咲耶は不思議に思いつつ、文箱を受け取る。
ちょう結びされた赤・黒・銀の三色の組紐をといて、ふたを開けると、和紙が折りたたまれていた。開くとほのかに芳香が漂い、咲耶は一瞬、良い気分になったが、直後に顔をしかめた。
(ミミズがのったくってる……)
いわゆる草書が、墨で書かれていた。かな混じりの漢字であることは解るのだが、なんとか拾い読みしようにも、咲耶の気力は途中で燃え尽きた。
「……椿ちゃん。悪いけど、要約してもらえる? できるだけ短く」
三十路間近の自分が、十代の少女に解読を求めるのは、恥かも知れない。だが咲耶は、解らないことを解ったようなふりをするのは、性に合わなかったのだ。
椿は、そんな咲耶を馬鹿にしたりあきれたりするような素振りはつゆほども見せなかった。丁重に咲耶から受け取った文に目を通すと、わずかなのちに言った。
「──セキ様と、セキ様の対の方様からの文で、屋敷に招きたいので都合の良い日を教えて欲しい、と、あります」
「セキ様って……赤虎ってコト?」
朝食後、少しだけ椿から聞かされた話によれば。
この国──下総ノ国には、三体の神獣がおり、ハクコの他に、赤い虎の赤虎、黒い虎の黒虎が存在するという。
儀式の直前、咲耶の前に現れた少年が黒虎──名は闘十郎というらしい。二十歳前後の美女は、黒虎の花嫁・百合子だろうと、椿が教えてくれた。
「お返事は、いかがなさいますか? 姫さま」
「うーん……。実は、ちょっと会ってみたいかななんて、思ったりもするんだけど。……椿ちゃん、どう思う?」
「そうですね……。
わたしも、直接お会いしたことはないのですが、セキ様の花子であるお菊さんから聞いた話からすれば、姫さまの害になるようなことは、ないかと思われます」
椿によると、花子というのは神獣と、その花嫁の世話をする者をいうらしい。ちなみに、魚類の『穴子』と同じ発音をしている。
自分と同じくここではない何処かから、喚ばれてしまった花嫁。
咲耶にとっては、いわば『先輩』にあたる人物が、屋敷に招きたいと言ってくれているのだ。できるなら、会って、話をしてみたい。
「じゃあ、今日これから会ってみたい! ……なんていうのは、ムリかな、やっぱり」
冗談半分に咲耶が言うと、椿は手もとの文を一瞥した。
「あちら様は、姫さまのご都合がよろしければ本日でも構わないとも、おっしゃっておられますが」
「そうなの?」
「はい。──では、そのように、使者どのにお伝えいたしますか?」
軽い驚きも束の間、椿が言いつないだひとことに、もう一度、咲耶は驚かされた。
「え……えっ? 使者どのって……ひょっとして、いま現在、私の返事を待ってる人がいるの?」
「はい。お待ちです」
「うわ、そうだったんだ。じゃ、早く返事してあげないと……」
人を介在しての手紙のやりとりは間接的な郵便くらいしか経験がなく、直接、人から人への受け渡しをすることの意味に、ようやく気づく。人を待たせるというのは、長年の販売経験から苦手なのだ。
「あっ、姫さま……!」
あわてたように椿が声をかけてきたが、その椿のおかげで、いまの咲耶はゆうべとは違い、軽快に歩ける。使者らしき者を求めて屋敷を歩き玄関にたどりつく。
(───ん?)
履き物を脱ぐ石段に腰かけた後ろ姿は、やけに毛深い。というより、赤い法被からのぞく頭と腕は、どうみても──。
(猿、じゃない!?)
咲耶の気配を感じたのだろう。その者は、おもむろにこちらを振り返った。ニホンザル、が、服を着ている。
「おっ。咲耶さまにござりますね?
あっしは、セキ様の眷属で、名は猿助と申しやす。
夕べは滞りなく儀式を終えられたそうで、ようごさんした。ハク様にもお祝いを述べたいところでやんしたが、お留守とうかがい、残念無念。
と思いきや、対の方さまには、せめてひとこと──」
ぽかんとする咲耶の前で、サルが頭をかきながら、人語をしゃべっている。
奇怪な状況に、咲耶は、やはりこれは夢なのかもしれないと思い、呆然とその場に立ち尽くしていた……。
「では、その旨、しかと承りましてございやす。──御免!」
言うなり、法被を着たサル……もとい、猿助は、煙のように消え去った。
あとには未だ事態がつかめず放心状態の咲耶と、猿助の機関銃のごとき一方的な話しっぷりに閉口しつつも、咲耶の代わりに返答してくれた椿が残った。
「……驚かれているのですね、姫さま?」
「え? いや……だって、サルが服着て話してるって、なかなかシュールっていうか……」
しゅうる? と、一瞬首を傾げたものの、椿はいたずらっぽく笑って咲耶を見上げた。
「姫さま。
姫さまは、神獣の御姿にお戻りになったハク様をご覧になっているはず。そう驚かれることでは、ないのではありませんか?」
「うん。あれはビックリしたけど。私、驚きよりも、嬉しさが先に立っちゃったんだよね。
だってホワイトタイガー……あ、白い虎ってめずらしいし、それに好きだから」
「まぁ……!」
咲耶の言葉に、椿が頬を染める。次いで、にっこりと微笑んだ。
「姫さまは、率直な物言いをなさるのですね。ハク様も、お幸せですわね」
なんの気なしに口をついた言葉が誤解を招いている。
咲耶は否定しかけたが、それよりも前に、椿が語りだした。
「わたし……ハク様にお仕えするのは、少し……ほんの少しですけれど、その……おそろしかったのです。
ハク様は、他の虎さま方と違うって聞いておりましたし、実際にお側にあってからも近寄りがたくて……」
咲耶の顔色を窺うように、ためらいながら話す椿に、咲耶は、初めて歳相応の少女の姿を見た気がした。
「何をお考えになられているのか分からないと申しましょうか……。
もちろん、神獣という尊い御方であられるわけですから、わたしのような下々の者が、お心うちを察するなど、おこがましいのかもしれませんが──」
そこまで言いかけ、椿は、ハッとしたように口もとを押さえた。いきなり、その場にひれ伏す。
「申し訳ございません! つい、出すぎた口を……!」
咲耶は、あわてて椿の側に座りこんだ。
「いやいや、椿ちゃん。そんな気にしないで? 正直、椿ちゃんがそういう風に感じるのも、ムリない話だと思うし……」
初めて会った時の、ハクコの冴え冴えとした眼差しを思いだす。
三十年近く生きてきた咲耶ですらすくんだのだ。ハクコの感情のない話し方や態度に、年端も行かぬ者が気後れしてしまうのは、当然のことだろう。
むしろ咲耶は、隙のない少女に見えた椿の本心が聞けて、ホッとしたくらいだ。
花子という役目からすれば、褒められた言動ではないのかもしれない。そして、仮にも対の方などと言われる自分なのだから、ハクコのために、椿をたしなめる必要も、あるのかもしれない。
だが咲耶はまだ、この世界のこともハクコのことも、よく解っていない。そういったことは、いえた義理ではないだろう。
(それに、いい歳した男が、こんな少女に気を遣わせるって、どうなのよ……)
きちんと訊いたわけではないが、ハクコの人姿は二十四五の大人の男性だ。そのくらいの年齢なら、もう少し他人に対する気遣いができても、よいのではないだろうか。
(人から疎まれてる、みたいなことも言ってたから、ひょっとしたら、何かヤな思いもしたのかもしれないけどさ)
恐縮して謝り続ける椿をなだめながら、今夜ハクコが帰ってきたら、少し説教してやろうか、などと、咲耶は考えていた。




