《七》醜聞──私がお前に忠告したことを覚えているか?
❖作者より❖
この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。
この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。
咲耶が深い眠りについてしまっていた間に、季節は早春に移り変わろうとしていた。耳に心地よい鶯のさえずりが、屋敷の外から聞こえてくる。
犬貴が約束通り咲耶たちに語る場を設けたのは、咲耶が体調を元に戻してからだった。
「──私は以前、綾乃様……ハク様の親神様に、お仕えしておりました」
うららかな陽差しが照らす中庭に面した濡れ縁。そこに腰かけた咲耶のひざ上に転転、右隣にはあぐらをかいた犬朗、少し離れた左隣に正座しているのは、たぬ吉。
そして、咲耶の真向かい、地面に片ひざをつき、軽く頭を下げた犬貴がいた。
「その人が……前に犬貴が話してくれた『彼の御方』ね?」
「はい」
ためらいながら問い返した咲耶に対し、落ち着いた声音でもって犬貴がうなずく。
なぜ神獣の里を知っていたのかと疑問を投げかけた咲耶に、目の前の眷属は、かつての想い人を通じて知り得たのだと答えてくれた。あの時は、犬貴の私的な感情に、自分が好奇心を向けてしまったことを悔いたのだが──。
「道幻は綾乃様の花婿でした。しかしそれは名ばかりで……実の伴わないものだったのです」
努めて冷静に語ろうとしている風に見えた犬貴だが、そこで吐き捨てるように低く言い切る。
犬朗が、口を開いた。
「あ~……、お前があの坊さんを気に食わなかったのは解るけどよ。実が伴わないってのは、言い過ぎじゃね? 実際、真名は伝えられたみてぇだし、旦那っていう『実』を結んだワケだしよ?」
犬貴にしたら、道幻という花婿は、面白くない存在だったろう。そう思って、妙な納得の仕方をした咲耶の心中を代弁するかのような、犬朗の指摘。
じろり、と、隻眼の虎毛犬をねめつけたのち、精悍な顔つきの虎毛犬は咲耶を真っすぐに見返した。
「道幻は、綾乃様に真名を伝えてなどおりません」
「え? だって……」
「綾乃様という御名は、ご自分で名乗られたものなのです」
咲耶は目をしばたたいた。隣で犬朗が「自称かよ」と、あきれたようにつぶやく。
「そういう……御方だったのです。
国獣という地位にありながらも、国司に屈せず、女の神を尊ばない民に対しても、どこ吹く風といったご様子で……。型にとらわれないといいましょうか……自由で、気ままなご気性の御方でございました」
要するにワガママってことだろ? という犬朗の率直な感想は、犬貴に黙殺された。
では本当に、沙雪の言っていた通り、道幻は『仮』のまま死んだということになる──結論に時差はあるが。
「でも……あ、こういう言い方が正しいのかは解らないんだけど。和彰のお父さんにあたるのが、道幻なわけでしょ? だったら……」
犬貴が綾乃を慕っていたことを知る咲耶は、気まずいながらも確認をしようとした。ところが──。
「これは私の推論で、確証があるわけではございませんが」
事実を確認するだけのつもりが不確かであると言いながらも、きっぱりとした声音に、さえぎられる。
「ハク様のお生まれに、道幻が関わりあるとは思えません。なぜなら、綾乃様の御心は、他の方のものであったからでございます」
「他の……?」
咲耶の心のうちで、さざなみが立った。理由のない不安な想いをかかえ、思わず訊き返す。
「それは、誰?」
核心をつく問いだと気づいたのは、自らの逸る胸のうちと、哀しい色に染められた黒い虎毛犬の瞳が、同調したように感じたからだ。
犬貴の口が、ゆっくりと開かれる。
「この下総ノ国の神官──賀茂愁月様にございます」
告げられた秘め事は、咲耶の心のなかで、すんなりとなじむものであった。
和彰が『師』と仰ぎ、愁月の屋敷に日々通っていたことも。愁月が咲耶と和彰の行く末を、お膳立てしているように感じたことも。すべてそれが、犬貴の推論が理由であるというのなら──。
少なくとも咲耶にとって、道幻が和彰の『父親』かもしれないと思った時よりは、違和感がなかった。
「……ああ、そりゃあ……マズイな」
うめくように言った犬朗が、片方の前足で口を押さえた。
「神獣と神官が恋仲だった、なんてな。この陽ノ元全体の制度を揺るがす醜聞じゃねぇか」
「どうして?」
単純に疑問に思い、咲耶は隻眼の虎毛犬に目をやった。
「どうしてって……ああ、咲耶サマはこっちの生まれじゃねぇから解んねぇのか」
一瞬だけ、あきれたように咲耶を見返した犬朗だが、すぐに思いだしたように理解を示す。わずらわしそうに、耳の後ろを掻いた。
「まぁ、陽ノ元の言い習わしのひとつだけどな。
『神獣の対の方は異なる世界の者に限る』っつーのがあってだな。
どこの国でも、きちんと手順を踏んで主になりえる人間を召喚してるんだよ。その召喚を執り行うのが神官なワケで、その神官は、誰よりも神獣について詳しいはずなんだ。
──この世界の人間が対の方になったって、神力は得られねぇってこともな」
最後のひとことは、声をひそめて付け加えられる。
咲耶は、ようやく合点がいった。つまり──神獣にまつわる諸々を誰よりも知る者が、自ら禁を犯すようなものだ、ということなのだろう。
陽ノ元において神官という地位にありながら神獣と深い仲になるということは、『民の恵み』を奪い、何よりも、他の者の信頼を裏切る行為になるのだ。
──人の信頼を裏切る者は、万死に値する。
咲耶が知る、とある作家の言葉だ。咲耶も大いにうなずける言葉であった。
けれども。咲耶は、人の心が、人が理想とするままに、動くだけでないことも知っている。……罪だと知っていても、あらがえない想いがあることも。
「だから……犬貴は、今まで自分の心のなかにしまっていたのね? 和彰の出生に関わることを」
目の前の眷属に視線を戻し、話の続きをうながす。
「……はい。私は綾乃様より、ハク様の御身をお護りすることを仰せつかっておりました」
それまで黙って聞いていたひざ上の転転が、不思議そうに首をひねってみせた。
「ハク様を護るって、何からさ? そもそも、あたいら眷属は、対の方さまを護るのが本来の役目のはずだろ?」
「た、確かに! 僕らの『力』よりも遙かに大きな御力をお持ちのハク様をお護りするなんて、おこがまし……い、ような気もしますが、い、犬貴さんや犬朗さんなら、話は別ですよね、ははっ……すすすすみませんっ!」
思わずといった感じで口を挟んだたぬ吉だが、ちらりと向けられた黒虎毛の犬の眼光に、廊下の端まで逃げるように後ずさった。
「……萩原家にあるっていう“神逐らいの剣”から──ってことか?」
軽く腕を組んだ犬朗が、眼帯に覆われてないほうの目だけを犬貴に向ける。それにうなずいてみせ、生真面目な眷属はふたたび語り始めた。
「綾乃様は民だけでなく、そのご気性のため官からも疎まれておいででした。筆頭は、先代の下総ノ国の国司・萩原匡臣。
──自分はどうなろうとも、ハク様には害が及ばぬように。良き縁に、恵まれるように」
そこで一瞬、犬貴の眼差しが、熱を帯びて咲耶を見据えた。
「それが、綾乃様の願いだったのです」
犬貴が和彰の眷属となり、咲耶という主に忠誠心を見せていた理由。
(そっか……だから犬貴はいつも……)
ひたむきで、時に大仰に思えるほどの表現は、黒い甲斐犬の情の深さによるものだったのだと納得する。
「“神逐らいの剣”は、この世で唯一“神の器”に『再生を許さない傷』をつけることができるもの。萩原家の者がこの剣を持つからこそ、下総ノ国では、国獣の地位が国司よりも平然と下に置かれているのです」
「そうだったんだ……」
咲耶は、ふと疑問に思い、それを犬貴へとぶつけた。
「再生できないって、私のもつ神力でも?」
「……解りません」
申し訳なさそうに、犬貴が目を伏せる。
「過去に『治癒と再生』の神力をもつ御方の対となる神獣様が、傷つけられたという事例があったかどうか……。
私が知っているのは、“神逐らいの剣”によって“神の器”を失くせば、常世には戻れず、現世にもいられないということだけです」
ひざ上に置かれた黒虎毛の犬の前足が、何かをこらえるように震える。
「咲耶様……」
落ち着いた声音が苦さを含んだ分だけ、揺れていた。ずっと胸の内に秘め、口にだすのをためらった事実を言葉にしようとする響き。
「私はこれまで、愁月様がなさることには必ず意味があり、綾乃様のご意思をくんだものであると考えておりました。
ハク様の契りの儀が、三度で打ち切られることに反対なされなかった時も。神現しの宴などという、ハク様を貶めるような行事を進言なされた時も。
……すべては、ハク様と貴女様に、結果として良い方へ向かわせるための試練をお与えになったのだと、思えたからです。
しかしながら」
犬貴の表情が息苦しそうにゆがむ。口にしたくはないのに、口にしなければならない責務を担う者のように。
「この度の愁月様がなされたことは、あまりにも……っ……」
言葉に詰まる犬貴に、咲耶の内でひらめく、先日の百合子の去り際の台詞。
「私が以前、お前に忠告したことを覚えているか?」
──愁月には気をつけたほうがいい、と。
咲耶は先ほど感じた不安の正体に、ようやくたどり着く。神現しの宴の時の和彰の姿が思い起こされた。……虚ろで、何も映さない瞳。
うめくように、犬貴が先を続けた。
「私には、愁月様がハク様を利用し、私怨をはらしたとしか、思えないのです……」
それは、咲耶の予想を上回る、残酷な真相だった──。




