《六》どうか、私をお赦しにならないでください。
非情なる毒気に穢された身体は、咲耶に永遠ともいえるほど長い眠りを要求したかに思えた。
しかしながら、神籍にある咲耶の魂魄は、先に与えられた白き神獣の加護もあり、深奥まで侵されることはなかったらしい。
──その極限にまで追い詰めたのが、誰あろう当人だとしても。
「……目覚めたか」
素っ気なく冷たい物言い。声色が女性のものでなければ勘違いしそうになると思った自分に対し、咲耶の目が潤んだ。
(和彰……)
初めて会った時を思わす、冴え冴えとした眼差し。ここ最近は、あんなにも咲耶に対し、感情を示してくれていたのに。
(知らない人、みたいだった)
姿形は同じでも、まるで違う存在のような。だが、あれほどの美貌をもつ者が他にいるとは到底思えない。認めたくはなくとも……あれは和彰だったのだ。
「──ここが何処で、お前が何者だか解るか?」
のぞきこむ黒い瞳が咲耶を案じているのに気づき、あわてて口を開く。
「場所は分かりませんが、自分のことは覚えています」
そう応じたつもりの咲耶の声はしわがれていて、自分で自分に驚いてしまう。そんな咲耶に軽くうなずいて見せたのは、黒髪の美女──百合子だった。
「……ゆっくり、含め」
片腕で咲耶の背を抱え、もう一方のしなやかな指先で持つ椀を、咲耶の口もとに運ぶ。恐縮しながら言われた通りにすれば、甘い液体が口内を満たし過ぎ去った。
「ここは、お前の屋敷だ。お前の眷属たちは出払っていて、お前に付きっきりだった花子は、先ほど私が強引に休ませた」
玲瓏な声音が淡々と告げる。百合子は、咲耶に身体の状態を訊いたあと、現在、咲耶が置かれた状況を教えてくれた。
まず、咲耶がつい先ほどと感じる和彰との再会は、約一ヶ月前の出来事になるらしい。それは、咲耶が眠り続けた日数でもあった。
百合子の言葉を借りれば、白い花嫁は『血の穢れ』の障りが大きい。そのため咲耶の心と身体が、深い眠りについてしまったのだという。
なかなか目醒めぬ咲耶に付き添い、ほとんど不眠不休だった椿を見兼ね、百合子が少々手荒な方法で休ませたらしいのだが──。
「あの……来ていただいてこんなこと言うのはなんですが。どうして百合子さんが、こちらに?」
ためらいがちに尋ねると、短く息をつかれた。柳眉がひそめられる。
「セキの花嫁に泣きつかれた。お前の所に行き、様子を見て来て欲しいと」
美穂に頼まれ仕方なく、と、黒い花嫁である百合子は応えたが、百合子本人も咲耶を気にかけてくれていたのは明らかだった。
「尊臣の『影』からも内密に闘十郎へと話があったしな」
付け加えられたひとことに一瞬混乱しかけた咲耶だが、尊臣の『影』とは『影武者』の意──すなわち沙雪のことなのだと気づく。
横になったままの咲耶は、そこで思わず身体を起こした。
「……道幻、は……っ」
一ヶ月の眠りが、咲耶の身体を痩せ衰えさせていたようで、起き上がったつもりが、半ばで床に沈んでしまう。無理をするな、と、百合子の片手が咲耶の肩を押さえつけるように触れた。
「あれは元々はこの国では死した者。……しかるべき場所へと闘十郎が葬った」
「葬った……」
百合子の言葉尻をとらえ、咲耶は口のなかで繰り返す。
では、今度こそ本当に、先代の白い神獣の対の方は存在しなくなったのだ。しかも、その存在を葬ったのは──。
「神籍にあった以上、簡単に死ぬはずがなかったのだが、神獣自らが手にかけたと言えば、誰も反論はすまい」
事実を述べるだけの口調に深い意味はないはずだ。百合子が語るのは先代のハクコの話だろうが、咲耶の脳裏には、道幻の返り血を浴びた青年が浮かんでいた。
目を閉じても開けても、あの時の光景が焼き付いて離れない。咲耶は猛烈な吐き気に襲われ、口もとを覆う。
「──……黒い甲斐犬……犬貴といったな。あやつが道幻を手にかけたと聞いているが?」
横向きになった咲耶を、百合子が窺うように見てきた。目線で咲耶は問い返す。どういうことか、と。
「……事実はどうあれ闘十郎は有りのままを尊臣に報告した。
つまり──道幻が息絶えた横でお前が血まみれで倒れ、闘十郎が着く前にお前の眷属が、すでにあの場にいた、と。
……これだけの状況報告では、お前を護るため眷属が道幻を襲い、殺めたと考えるのが筋だろうな」
言外に、『違う事実』を知る咲耶に確認するように、あるいは『その事実』を伏せるように、百合子は話を続ける。
「常には眷属とはいえ只人を手にかけたモノは、処罰の対象となりえる。そして、『人でないモノ』は私と闘十郎が処分を受け持つ。
だが、お前が下総ノ国の白い花嫁であることを考えれば、眷属が主を護るため手を下したのは、至極まっとうなことだ。
相手が自らの死を偽装した花婿で、なおかつ花嫁を我が物にしようと企んでいたのなら、咎がどちらにあるのかなど言うまでもない」
ひと息に告げた百合子は、咲耶をじっと見つめた。
「少なくとも、尊属を殺めたなどという事実よりは、な」
暗い穴の底をのぞくような陰鬱とした瞳の色。百合子の表情は、咲耶に、彼女のなかにある塞いだ想いを感じさせた。
(和彰がしたことを百合子さんは気づいてるんだ。気づいていて、事実を伏せようとしてる……)
真意は解らないが、百合子の態度からは如実にうかがえた。それは、和彰の為というよりは、百合子自身の心の問題のようだった。
「律令下で尊属殺しは重罪だ。私や、お前のいた世界と同様にな。……たとえそれが神獣と呼ばれる存在だとしても、民や官からすれば赦し難い罪に映るはずだ」
百合子の言葉に、咲耶は学生の頃に社会科で習った授業をうっすらと思い返す。昭和にあった事件をきっかけに、違憲とされた法律だったのではないかと。
だが、百合子の知っている法を自分の知り得た情報とすり合わせたところで、事実が変わるわけではない。いま一番の問題は──。
「百合子さん……私が知りたいのは、なぜ和彰があんなことをしたのかって、ことなんです」
思うように出ない声はか細く、まるで咲耶の胸の内にある心もとなさを表すかのようだった。
「そのことだが」
重い口調で百合子が言いかけた瞬間、
「咲耶さまぁっ」
勢いよく開いた障子の向こうから、茶褐色の丸い物体が飛んできた。すかさず百合子の片腕が上がり、咲耶に着地する寸前で受け止められる。
「躾がなってない」
冷ややかな眼差しで主に苦言が呈された。対して、ふにゃあう〜、と、不機嫌そうな鳴き声を漏らしたのは、転転だった。
「さ、咲耶様っ……。も、もう、お目覚めにならないかと……うっ、うぅ……」
障子の枠づたいに、くずれ落ちるタヌキ耳の少年。こぼれ落ちた涙を片手でぬぐう たぬ吉の頭に、赤虎毛の犬の前足が置かれた。
「言っただろ? みんなでちゃんとイイ子にしてれば、目を覚ますって。
──よぉ、とんだ寝ぼすけだな、咲耶サマ。脳ミソ腐ってんじゃねぇか?」
泣きじゃくる半妖の少年を慰めた虎毛犬の隻眼が、咲耶を見て優しく細められた。かすれた声音の軽口と共に。
咲耶は百合子の手を借りて、上半身を起こす。転々が頭と前足を器用に使い、咲耶のために脇息を用意してくれた。
こすりつけられたキジトラ模様の頬をなで、咲耶は犬朗を見返し笑ってみせる。
「可愛い猫と心優しいタヌキ耳の少年。それから、ふてぶてしい赤い犬が私の大切な眷属だってこと。ちゃんと、覚えてるわよ」
言って、この場に顔を見せない最後の眷属を想う。
「……融通が利かない、黒い犬はどこ?」
苦笑いの咲耶に、ふてぶてしいと言われた赤虎毛の甲斐犬が、背後を振り返る。
「ほら、顔見せろって、言われてんぞ?」
なんとなくではあるが、咲耶には黒虎毛の甲斐犬が姿を見せない理由が解っていた──誠実で生真面目な眷属が、いま何を考え、何を思っているのかを。
そのすべてを把握しているつもりはない。しかし、咲耶の我がままではあるが、彼の顔を見て言いたいことと訊きたいことがあった。
「犬貴」
呼びかければ、落ち着いた声音が「はい」と短く応じる。ただし、姿は見せないままだ。
咲耶は語調を強めて言った。
「犬貴、私の側に来て」
忠実な黒い虎毛犬が逆らえるはずもなく、咲耶の視界のなかに、ようやく姿を現す。敷居を跨がずに、片ひざをつき、こうべを垂れた。
頑ななまでの距離の置き方に、咲耶の内にささやかな嗜虐心が芽生える。
「私……起きて間もないの。あんまり大きな声も出せないし、そんな遠くにいられたら、うまく言葉が交わせない」
「…………はい」
これ以上、主の意に背くことができないと観念したのか、姿勢を正したまま、犬貴はゆっくりとひざを進め咲耶に近づいた。手の届く範囲にまで来たところで、咲耶は声をかける。
「自分を責めてるんでしょ? 犬貴」
唐突に低くもちだした咲耶の問いかけに、黒虎毛の犬の耳がぴくりと反応する。苦々しい響きの答えが返ってきた。
「……どうか、私をお赦しにならないでください」
思った通りの返答に、咲耶は嘆息する。
「和彰なら──」
口にした真名にわずかに声と身体が震えたが、構わず、咲耶は自らを律する眷属に告げる。
「たぶん、こう言うわ。『お前を処したところで、何にもならぬ。捨て置く』って。だけど、私は和彰じゃないからあなたにきちんと罰を与える」
百合子を除き、場にいた者が息をのむのが分かった。咲耶の言葉は眷属たちにとって、想定外だったらしい。
咲耶は、まだ思うように動かない左手を上げた。ぺちん、と、人差し指と親指の先で犬貴の額をはじき、にらむように見据える。
「自分ひとりで、何もかも背負わないで」
「──咲耶様……」
仕置きにすらならない主の行いにか。それとも、深い想いのこめられた言葉にか。咲耶を見返した犬貴の目が、大きく開かれた。
「あなたには、私という主も仲間である眷属もいるでしょ? ひとりで抱えこまないで、私たちに話して欲しかったわ。
……そりゃあ犬貴からしたら、私も含めて、頼りない面々かもしれないけども」
最後は冗談めかした言い方になった咲耶に、犬朗が不服そうにうなってみせた。
「咲耶サマはひとこと多いぜ」
とたん、たぬ吉は噴き出し、転転は腹を出して倒れこんだ。一気に室内が、なごやかな雰囲気となる。
咲耶もつられて笑い声をあげたが、それさえも今の咲耶の身体には負担がかかって、脇息にもたれこんでしまう。
「咲耶様!」
瞬時に伸ばされた白い水干の腕と、気遣う声音。深い色合いをした瞳が、咲耶をのぞきこむ。
「……大丈夫よ」
潔癖で真摯な変わらない眼差しに、咲耶は微笑み返した。ふたたび、強い口調で告げる。
「私に……ううん、みんなにも、あなたが胸に秘めてきたこと……話してくれる?」
黒虎毛の犬の目が、何かを思うように閉じられた。しばしののち、心を決めたようにまっすぐに咲耶を見返してくる。
「仰せのままに、……咲耶様」
咲耶が気に入っている、その呼び方で。




