《五》凶夢の続き──見間違えようのない存在
香の匂いが鼻腔をくすぐった。軒先で、雨がはじかれるような音がする。
ぼやけた視界のまま、咲耶は、冷たく硬い感触のそこから頬を持ち上げた。
「──やはり、神力を遣われたか」
当然のことを確認するかのような口調。安堵にもとれる物言いだった。反射的に身体を起こし、声の方向に目をやれば、不動明王像を背にした黒衣の男がいた。
「あなた……道幻!」
あまり大きくは感じられない、仏堂を思わせる造りの室内。板の間に座禅を組むのは、咲耶たちの前から突如として消え去った壮年の男だ。
「やはりって……まさか本当に、椿ちゃんを利用したの?」
咲耶をここへ、喚び寄せるために。『再生』の神力を、遣わせるために。
そのためだけに椿を死に追いやったのだと、いまの道幻の言葉が証明した。
(なんなの……この男! なんなのよっ……!)
爪が食い込むほどに拳を握りしめ、咲耶はわなないた。あまりの怒りに、身体の震えが止まらない。
「『理不尽に命が奪われたのであれば助けたい』。それがぬしの答えであったな。ならば、九分九厘神力を遣うだろうと、我は考えたのだ」
「何が、したいの!?」
怒りにまかせ、咲耶は前のめりに床板をどん、と、叩いた。言ってから、かろうじて冷静な咲耶の脳の一部が、的確に言い換える。
「私に……何を、させたいの」
答えが欲しいわけではなく、翻弄され続ける自身の現状に、嫌気がさしての言葉だった。
──咲耶の行動の何がいけなかったのか。
椿は助けなければならなかった。いや、本音を言えば助けたかった。理不尽さを感じたかなど、関係ない。
権ノ介はどうだったか? 義憤にかられていたには違いない。助けなければと、心と身体が自然と動いていた。
虎次郎が連れてきた少女はどうだろう? 可哀そうだという憐憫の情から、気づいた時には頬に手が伸びていた──。
(いつも、自分の心の赴くままに神力を遣ってきた)
判断を下したのは、己の心。だからこそ自らが為したことに、責任がとれるのだ。
(和彰……)
想うは、咲耶の心を自由にした、気高く美しい白い神獣の言葉。
「お前が信じることを為せ」
そう告げて消えた愛しい面影を胸にいだき、咲耶は道幻を見据える。
「あなたがどんな理由で私をここへ喚び寄せたのかは知らない。でも……どんな理由があったとしても、椿ちゃんを手にかけたことは絶対に赦せない!」
叫ぶ咲耶を物ともせず、ふむ、と、道幻は相づちをうつ。
「元より、赦しを乞うつもりはない。我が求めるは、ぬしの神力の使い途」
「使い途……?」
人を助ける以外に、何があるというのか。そう思う咲耶の心中を察したかのように、道幻が応じる。
「赤い花嫁のように、無闇にただ与えられた『神の力』を授けるのではなく。黒い花嫁のように、自らの内にある『神の力』を忌みながら遣うのではなく。
我は、ぬしのように自らの内にある『神の力』を尊び、あらゆる民に授けようとする心意気を欲したのだ、白い花嫁よ」
言って立ち上がった黒衣の男が、両手を広げる。
「か弱き者を助けるための神力。その力でもって、共に衆生の魂を救おうではないか!」
大きな目をさらに見開いて咲耶を見る道幻に、吐き気を覚えた。
(本当に、この人は、何を言っているんだろう)
いわんとすることは解るが、咲耶に対し「矛盾している」といった口が言うことではない。
「……犬朗が言ってた通りだわ。あなた、本当になまぐさ坊主ね」
ぼそりと告げた咲耶に、道幻の左眉がピクリと跳ね上がる。咲耶は大きく息を吸い込み、勢いこんで言った。
「犬貴が言っていたように、耳を貸す必要も、なかった! あなたとの問答は、ムダだったわ!」
吐き捨てるように、今度ははっきりと非難をこめる。初めて、道幻の顔がこわばった。
「か弱き者だの衆生の魂だのと、結構なお題目を並べてくれたけどあなたが言ったことは全部、偽善よ! 自分が椿ちゃんや権ノ介さんにしたことを、忘れたとでも言うの!?」
「……大義の前の些事をあげつらうとは。見た目に反し、幼い花嫁であったか。残念なことよ」
ゆっくりと頭を振る姿に、咲耶は、自分と男の価値観の隔たりを感じ、いったんは口を閉ざす。
これ以上の議論を交わしたところで、何が生まれるわけでもない。互いの主張は互いに相容れない……それだけは解ったのだから。
だが咲耶には、ひとつだけ、何をさし置いても譲れないものがあった。
「あなたの目的も考えも理解はできませんが、知ることはできました。その上で、はっきりと言わせてもらえば、あなたと私の道は違うんだってこと」
法衣をまといながら、その本質たるものを見失っている者へ向け、咲耶は決別を告げる。
「私は、あなたには協力しません」
ゆるぎない想いでもって応じた咲耶を、のどの奥で笑い、道幻が歩み寄ってきた。
「……そう我を邪険にするものではない。ぬしと我は同じ境遇にある者──同士なのだから」
遠くのほうで、雷鳴がとどろく。堂の外では、雨脚が強まっていた。
道幻の声は大きくも小さくもない。雨音に消されたわけでもないが、咲耶は自分の耳を疑った。
「え……?」
虚を衝かれ、近寄る壮年の男を見上げる。
「ここではない何処かより喚ばれた存在。つまり──我はかつて白い花婿と呼ばれる者であった」
衣のそでをめくり、咲耶に見せる。道幻の毛深く太い腕にあるのは、見覚えのある白い痕。咲耶の手の甲にあるものと、同じだった。
咲耶の頭のなかで、こちらで得た情報が錯綜する。目の前にある事実と、自分がいままでに伝え聞いた話──。
「どういうこと? だって……」
下総ノ国の歴代の神獣は男が多いが、先代のハクコは女で、自らの花婿を手にかけたという。それが、咲耶が沙雪から聞いた話だ。
(和彰は、お母さんにお父さんを殺されたんだって……)
神獣という特別な存在であっても、心をもつモノである以上は、咲耶と何ら変わるものではない。だからこそ咲耶は、あの時、いたたまれない気がしたのだ。
(道幻が、和彰の……お父さん、なの……?)
不敵に微笑む道幻のなかに、いくら探しても、和彰の面影はない。そもそも血のつながりというものが『神のあいだ』でどんな意味があるのかすら、咲耶には解らないのだ。
「──ふむ。我はこの世界では死した存在。いや、どこにおいてもか。
だが、いま論ずるべきはそこではないのではないか、サクヤ姫。ぬしと我の力を合わせれば、より多くの迷える魂を救うことができる。いざ、共に──」
咲耶の手を取ろうと伸びてきた道幻の片手が、見えない防壁に、はばまれる。咲耶を護る、白く輝く光。
驚いたように後退しかけた道幻は、何かを考えるように、そのギョロ目で一点を見つめる。自らのつるりとした頭をなでた。
「当代の白い神獣も、我を拒むと見える。つくづく……神と仏は、交われぬというわけか。我を不浄のモノとする──ならば」
独りごち、道幻は自らの懐に手を差し入れた。取り出されたのは、小さな布袋。思わず身構える咲耶の前で、道幻は袋から自らの手のひらに、白く半透明な玻璃の玉を落とした。
「清浄なモノとなれば、良いだけのこと」
指先でつまんだそれを、道幻は飲みこんだ。ごくりと、男が嚥下する音がおぞましく、ようやく咲耶は口にするべき言葉を思い出す。
「いぬ……──」
しかし、咲耶の眷属への呼びかけは、そこで止まってしまった。道幻に邪魔されたわけではない。呼ぶ必要が、なくなったからだ。
咲耶と道幻しかいなかった空間に、突如として現れた存在。冷徹ともいえるほど無表情な美しき面の青年が、そこにはいた。
「和彰……!」
畏れを感じたのは一瞬のもの。しばらくは会うことが叶わないと思っていただけに、咲耶の心と身体が喜びに満ちる。
──だがそれは、ほんのわずかな間だった。
嬉しさに涙ぐむ咲耶の視界のなかで、道幻が背後に立つ和彰を、振り返るか、否か。直後に咲耶は、赤いしぶきを浴びていた。
まるで道幻に見せられた、悪夢の続きのような出来事。和彰の長い指が、道幻の胸部を貫き、引き抜かれる。
まばたきもできない咲耶の眼前で、血へどを吐いてくずれ落ちる、黒衣の男。
声もだせない咲耶を見ているのは、白い水干を身にまとう、冷たい眼をした美貌の持ち主──誰と、見間違えようがあるというのか。
握られた拳から滴り落ちる、鮮血。あの手が自分に触れたぬくもりも、確かに咲耶は覚えていた。
「うそっ……こんな、こと……。和彰が、するわけがないっ……!」
道幻がまた良からぬ術を遣い、咲耶を惑わせているのだ──。
呆然として動くことのできない咲耶を、部屋の調度品でも見るような関心のなさで映す瞳。咲耶に対し、なんの感情も見せない青年に、たまらずに無意味な問いを放ってしまう。
「和彰、なの……?」
呼びかけた声は、応じるはずの者が消えた空間へと吸い込まれた。現れた時と同様、一切の兆しも見せず、白い神獣の化身は、すでにこの場にはいなかった。
緩慢な動きで、咲耶は首を横に振る。信じたくない思いが強すぎて、にわかに現実が受け入れ難い──鼻の奥へと入り込む血の臭いに、身体は拒絶反応を起こしているのに。
「……っ……!!」
言葉にはならない声が、咲耶ののどを焼くように出た。それは、咲耶の心の悲鳴だった。
そして、道幻の呪によって見せられた凶夢の比ではないところへと、咲耶の魂は、落ちていくのであった……。




