《四》道幻の目的──待たせてごめんね、椿ちゃん。
咲耶から受けた『恩』のためか。はたまた、風と雷を操る眷属たちの迫力に圧されたのか。──十中八九、後者だろうが。
“土倉”という高利貸し業者である権ノ介は、あっけなく椿の居所を吐いた。
「咲耶様、足もとにお気をつけて」
漆喰で塗り固められた壁の、大きな蔵の奥。地下にある隠し部屋につながる床の扉を開け、犬貴が咲耶を導く。そして、犬朗がそのあとに続いた。
黴臭さが鼻につくなか、ゆるやかな石段を降りて行く。狭い通路は、咲耶以外は頭がつかえる高さだ。犬貴が手にした燭台の灯りが、わずかに小さくなった。
「あのジイさん、嫌な目つきしてやがると思ったけど、まさかこんな馬鹿げたことを考えていたとはな」
大きな身体を窮屈そうに縮めながら、犬朗が鼻にしわを寄せる。
権ノ介は、咲耶の神力を独占しようと企み、増益護摩を頼んだ僧・道幻に話を持ちかけたらしい。誘いにのったかに見えた道幻だが、結果をみれば別の思惑があったのだと分かる。
「道幻は、何がしたかったんだろ……」
誰に訊くともなく口にした咲耶に対し、犬貴の背が震え反応したようにも見えたが、何も語らなかった。代わりに、背後で犬朗が応える。
「さぁな。金じゃねぇだなんて嘯いてはいたけどよ。存外ただのカッコつけで、金に困ってたかもしれねぇしな」
金銭目的だとすれば、咲耶の拉致を請け負ったことも合点はいく。しかし、禅問答のような会話を交わした咲耶には、道幻の狙いが他にあったように思えてならなかった。
「──咲耶様。着いたようです」
犬貴の声と手燭の灯りが照らす先、観音開きの扉が見えた。なかへ入るための錠は、犬貴が持っている。
「道幻の奴めが何か罠を仕掛けていないとは限りません。まずは私がなかに入り、様子を見て参ります」
「……分かった。お願い」
一瞬ためらったが、咲耶は自分が出しゃばることで、かえって眷属たちの負担が増えることをおそれ、犬貴の言葉に従った。
手燭を渡しながら犬貴は犬朗と無言で目を見交わし、うなずいた犬朗が咲耶をかばうように片腕に抱く。
キィ……という錆びた金具がきしむ音を立て、扉が開かれた。隠し部屋へと足を踏み入れる犬貴の後ろ姿を見ながら、言い様のない不安に駆られた咲耶は、犬朗の袷を片手でつかむ。
「どした? 咲耶サマ」
軽い口調ながらも、赤い甲斐犬のかすれた声音には、いたわるような優しさが含まれていた。うながされるまま、咲耶は自らの胸の内を吐露する。
「あのね、犬朗。和彰は椿ちゃんのこと……私の近くに『いる』って言わずに『在る』って、言ったの。それって……」
続きを言いよどむ咲耶に対し、犬朗の深い色合いの隻眼がじっと向けられる。
「俺は咲耶サマじゃねぇからナンの決定権もねぇけどな。花子は眷属とは違う。人間だ。……『人を助けること』を、俺は止めたりはしねぇよ?」
ぽん、と。咲耶の頭の上に、赤虎毛の犬の前足が置かれた。咲耶は、袷をつかむ指に力を入れ、うつむく。
「うん。……ありがと」
未だ心の片隅では、迷う気持ちがある咲耶の背を押す、犬朗の言葉。咲耶は肩の力を抜くように、大きく息をついた。
ややして、闇のなかで白く浮かび上がる絹衣を着た眷属が、扉の向こうから戻ってきた。
「──……咲耶様」
ためらいがちに呼びかけてくる犬貴に、自分の予感が的中したことを知る。あえてそれを尋ねずに、別の質問をした。
「入っても、大丈夫そう?」
「……はい」
心配していた罠はない。しかし、咲耶の心を乱す現実があるのだと、犬貴の静かな声が、触れずにいた問いの答えとなり返る。
(ああ……!)
確信を得てしまったことにより、咲耶の呼吸は速まり、視界がにじむ。目の前にいる黒い虎毛犬の姿が、ゆがんで見えた。それでも前に進むため、咲耶は強くまばたきをする。
室内へと踏み出した咲耶の視界を照らそうと、犬朗が掲げた灯りが見せたものは。──横たわる、花子の少女の姿だった……。
悪夢のなかで見たむごい有様ではなく、眠っているようにも見える姿。だが、寝息も聞こえず、呼吸のために体が上下することもない。
「椿ちゃん……?」
名前を呼んで頬に触れれば、信じられないほどに冷たい。やわらかさを期待した指先には、硬い感触しかなかった。
暗闇のなかで咲耶たちの到着を『物いわぬ姿』で待っていた少女──。
咲耶は、目を閉じた。想像していた現実のはずなのに、打ちのめされている自分がいた。
おもむろにまぶたを上げ、右手にある白い痕を確認する。脱力感に襲われた自分を奮い立たせるように、自らの頬を両手で打った。静まり返った室内に、ぱん、と、乾いた音が鳴り響く。
「さ、咲耶様……!?」
主の突然の振る舞いに、ぎょっとしたような声が後ろでした。痛む頬で笑みをつくり、咲耶はもう一度、少女に呼びかける。
「待たせてごめんね、椿ちゃん。お願い──還ってきて」
死びとの装束を着せられた、椿の左胸に右手を伸ばす。
熱を帯びた手の甲の“証”は、まっすぐに少女の身体へと、命の灯火ともいえる熱い光を送りこんだ。徐々にやわらかさを取り戻す身が、水を吸い込むように生命の滴を受け入れ、愛らしい彩りが頬に戻ってくる。
びくんっ、と。咲耶の右手に身体全体が弾む大きな手応えが伝わった。直後、伏せられた長いまつげが、震える。
「……姫、さま……?」
数度のまばたきののち、無理やりのように出された声は、とまどいと驚きを表わしていた。
「わたし……ここは……」
身体を起こした椿は、記憶の糸を手繰り寄せるように、辺りを見回す。ふいに上げられた片手が、自らの髪に触れた。
「いただいた組紐……わたし、髪結いに使わせてもらっていて……。あの法師さまの手に……追いかけて呼び止めようとして、それから──」
「椿ちゃん。無理に思いださなくてもいいの」
懸命に事の次第を思いだそうとする少女の言葉を、咲耶はさえぎった。『いらぬ出来事』は、思いださないほうが良いと、判断したからだ。すると、椿がハッとしたように咲耶を見返す。
「申し訳ございません、姫さま! わたし、なんということを……大切な組紐を、無くしてしまうだなんて……!」
顔色を変えて謝る花子の少女に、咲耶は軽く首を横に振ってみせる。
口もとを覆った咲耶よりも小さな手を引き寄せ、自分の手を重ねた。やわらかな体温が戻ったことを確かめるように、咲耶は椿の手をギュッと握りしめる。
「大切なのは、椿ちゃんなの。だから……もう、帰ろう?」
咲耶の言葉にとまどいを見せつつも、椿が素直にうなずく。
二人のやり取りを見守っていた眷属たちが、ホッと息をついたのが分かった。咲耶は顔を上げて、彼らを代わる代わる見る。
「じゃあ次は、転々とタンタンだね。犬貴たちは、何か知ってる?」
「ああ、そのことだけどな、咲耶サマ」
応えたのは、犬朗だった。どうやら異変を感じとった犬貴が、転々らの元に行き“霞のなか”へと運んでくれたらしい。生命力を奪われただけなので、しばらく養生すれば大丈夫だそうだ。
「椿ちゃん、立てる?」
『彼岸にあった魂』を引き戻した手前、咲耶は椿の身体の状態を気にかけ手を貸す。恐縮しながら椿が立ち上がり、地に足が着いた、まさにその瞬間、だった。
椿の足裏から光が放たれるようにして、まぶしい輝きが部屋の隅々にまで走る──! あらかじめ存在していたのかと思わせる、地に浮かぶ、模様──描かれていたのは、曼陀羅だった。
「咲耶様っ」
背後からかかる、犬貴の叫び声。驚きに目をみはる椿の顔が、咲耶の視界のなかでぼやけて薄れていく。
咲耶は、巨大な穴のなかに落ちていくような感覚に、のみこまれていった……。




