《一》人は私を疎ましく思うらしい。私が人でも獣でもないからだろう。
❖作者より❖
この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。
この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。
夢であると思いたいのはやまやまではあったが、どうやらこれは夢ではないという事実が、ハクコとの儀式ののち、判明した。
──急に沸き上がった生理現象は、それを難なく済ませることが可能だったからだ。
(いっつもトイレに行きたくなって、でもできなくて、何度も何度もトイレに行ってるうちに目が覚めるっていうのが、夢のパターンだもんね……)
ふうっ……と、咲耶は息をついた。
儀式を終えた直後、ハクコは中年男に呼ばれ何処かへ消えてしまった。
神殿内に置いてきぼりとなるかと思いきや、いつの間にか側にいた椿という名の少女に連れられ、咲耶はいま『咲耶の屋敷』にいる。
「では、わたしはこれで失礼いたしますね。今宵はお疲れでしょうから、明日また、姫さまのお訊きになりたいことに、お答えいたしますので」
にっこりと笑う顔には幼さが残る愛らしい少女だ。
おそらく十四五歳かと思われるが咲耶を屋敷まで案内してきた口振りも、湯殿から着替えまで手伝う間に見せたしぐさも、とても少女とは思えない感じであった。
「ありがとう、椿ちゃん。じゃあ、また明日、よろしくね」
「──……お休みなさいませ、姫さま」
抵抗はつかの間、椿はふたたび微笑むと、丁寧に指をつき頭を下げ障子を閉めた。
(姫さま……って、歳でも柄でもないんだけどね……)
名前で呼んでくれと念を押しても頑なに咲耶を『姫さま』と呼びたがる椿に、逆に咲耶は、呼び捨てにしてくれという椿を『ちゃん』付けにして返した。
『姫さま』呼びを止めてくれたら『ちゃん』付けを止めるという咲耶の提案に、椿がしぶしぶ折れた形だ。
椿が静々と立ち去る気配を感じながら、咲耶は椿が整えてくれた布団の上に、ごろんと転がる。
(あー、私、これからどうなるんだろう……)
『咲耶の屋敷』は、典型的な日本家屋で、部屋数は居室だけで五つあり、さらに客室が二間。台所と浴室、手洗いと、咲耶が一人で住むには充分すぎるほどの広さがあった。
その造りは咲耶の感覚からすると古かったが、それは年数を経ている古さではなく、旧式であるという意味だ。
咲耶は寝転がったまま、燈台の薄明かりを頼りに、右手を目の前にかざす。
(綺麗な三本線が入ってる)
普通、猫の引っ掻き傷などは、ミミズ脹れになるのだろうが、ハクコにつけられた咲耶の右手の甲には『白い痕』が残っていた。
湯船に浸かったときも、特に痛みはなかった。傷痕とは、違うのだろうか?
それにしても──。
(夢じゃないのは分かったけど)
椿にこの屋敷まで案内される道すがら、自分がこの世界とは別の異なる世界から召喚された『神獣の花嫁』だとの説明を受けた。
(なんか、流されまくってるな、私)
家屋の造り、人々の着衣などを見ていると、何かの間違いで時代劇の舞台装置のなかへと追いやられた、新人俳優のような気分がしてくる。
与えられた役柄を言われるままにこなしていれば、何も恐ろしいことは起こらない──。漠然とだが、咲耶はそう感じていた。
(お母さん、心配してるかな……)
結局、家からの電話には出ていない。
突然いなくなった娘を母親はどう思うのか。拉致を疑うか、失踪を疑うか。どちらにせよ、心配させるのは事実だろう。
(でも、帰ったところで私には何もないんだよな……)
母親のことを想うと胸が痛いが、それ以上に自分が何者でもないことに咲耶は深い溜息をつく。
(とにかく、今日のところは寝て、明日また考えよう)
半ば自棄になって咲耶は掛け布団を上げ、本格的に寝に入ろうとした。
が。
「失礼する」
言って、気配も足音もさせなかった袿姿のハクコが室内に入ってきた。ぎょっとして咲耶は、身を起こす。
「えっ!? な、なんでいるの!?」
驚いて思わず言ってみたものの、考えてみれば咲耶も感じた通り、この屋敷は咲耶一人で住むには広すぎる。『咲耶の屋敷』というよりは、『ハクコの屋敷』だというのが、正しいのかもしれない。
(椿ちゃん……もっとちゃんと説明して欲しかったよ……)
「あの……私に、何か?」
寝ようと思っていたところに突然の来訪者が現れ、咲耶はおざなりに訊いてみた。ところがハクコは、咲耶の予想もしなかったことを言いだした。
「外でもない。お前と夜を共にする」
「はい?」
「お前とは契りを交わした。それは当然のことだ」
(って、一緒に寝るんかいっ!)
心のなかで突っ込む咲耶を完全に無視して、ハクコは咲耶の布団に潜り込んできた。
「ちょっ……待っ……──」
思わず布団から抜け出しかけた咲耶だが、もぞもぞと白い虎がすり寄ってくるのが見えて、ホッと息をついた。
(なんだ、小トラになってんじゃん……)
近づく小さな生き物に、咲耶は手を伸ばし、なでてやる。
『……何だ』
「なんだ、って……。猫みたいで、つい……ダメ?」
『……よく、分からない……』
ハクコは目を閉じていたが、咲耶の内側に響く声は、困惑を伝えてきた。
『私は、今まで人から撫でられたことはない。人に寄り添ったこともない。
人は、私を疎ましいと思うらしい。それは、私が人でも獣でもないからだろう。
──お前もそうではないのか』
咲耶は、思わずハクコを見た。すると、白い獣の青い瞳も、見返してきた。
「あの……私、いま、一緒の布団に入ってるんですけど……」
『そうだな』
「あなたのこと嫌だったら、布団出てますけど……」
『そうか。それが、契るというものなのかも知れない』
「は?」
『契りを交わすことによって、お前は私を受け入れられるようになったのだろう。
──もう眠る。声をかけるな』
くるり、と、その肢体を反転させ身体を丸めると、ハクコは本当に眠りについたようだった。
(なんなの、この勝手な小トラは……!)
毒づいて、けれどもやはりその小さな獣は愛おしく、咲耶は白と黒の毛並みに触れ、そっとなでてやる。
ややして、ゴロゴロとのどを鳴らすのが聞こえ、そのまま眠りについた。
*
ゴロゴロと、獣がのどを鳴らしている。
「──規則ですから。契約時にも、きちんと用紙をお渡ししたはずです」
「だけど……生き物をそんな急に……簡単にはいきませんよ」
「規則は、規則です。今月中にどうにかして下さい。できなければ、退去していただきますので、そのつもりで」
ゴロゴロ……ゴロゴロ……。
咲耶のひざに身体を寄せ、長毛のシルバーグレイの猫が、のどを鳴らしている。
「出て行けったって、ウチ貧乏で金ねーからこんなトコに住んでるんだろ? どーすんの?」
「どうするって……一応、春子姉さんに訊いてみるけど……」
「春子伯母さんかぁ。動物あんま好きじゃないカンジだよね」
「……咲耶も、それでいいよね?」
「──うん……」
咲耶のふくらはぎを枕にして寝ている、やわらかなぬくもり。頭をなでてやると、ゴロンと身体の向きを変え、腹を出した。
──涙がにじむ。無力な自分に。
「ミーコ、元気かなぁ……」
「──え。姉ちゃん、まだ知らなかったの?」
「何が?」
「何がって……。あー、母ちゃん、まだ言ってないんだ」
「……何を?」
「んー……あのさ。ミーコ、春子伯母さんトコに行ったあと、環境になじめなかったらしくて……それで──」
──咲耶のそばでのどを鳴らした愛しい小さな獣は、もういない。
*
目もとをなぞる、あたたかな指の感触に、目を覚ました。
最初に眼に映ったのは、青味がかった黒い双眸。麗容な感情のない面が、咲耶をのぞきこむように見ていた。
「な、な、な、なに!?」
「──目覚めたのだな。ならば、椿に朝餉を用意させる」
言って、身を起こしたハクコの肩から、さらりと色素の薄い髪が裸の胸もとへ流れた。
(……裸!? なんで裸!? 裸の男と、一緒の布団に入ってるって、私……!)
目は覚めても頭は覚めておらず、咲耶は気が動転する。
が、すぐに昨夜の記憶がよみがえり『裸の男』はハクコという仮名の男で、自分はこの青年が変身した小さな白い虎と、一緒に寝ていたのだという事実に思い当たる。
(え? でも、寝る時は虎だったのに、なんでいまは人間で、しかも裸!?)
自分に記憶がないだけで、実はすでにこの身は『穢れなき処女』ではないのだろうか?
しかし、酒でも呑んでいれば別だろうが、人生初の情交に及んで、イタした記憶が欠片もないなどということが、有り得るのだろうか?
「あの、えっと……。私、何も覚えてないってゆーか……。
あの、あなた、私の記憶のなかでは、虎だった気がするんだけど……?」
「──獣の身では、お前の涙はぬぐえない」
しどろもどろになる咲耶の前で、特に気にした風でもなく、布団のなかの袿を取り出し、身にまとうハクコが抑揚なく告げた。
「あ、ありがとう……」
咲耶は、ともすれば冷淡に思えたこの青年が、実は優しい心根の持ち主なのかもしれないと、考えを改めかける。
だが、
「なぜ、そこで礼を言う? お前の涙が私の被毛を濡らした。私は、それが不快だったのだ」
「──ああ、それは……ご迷惑をおかけしました」
やわらかな被毛に頬を寄せて寝ていたのも、ついでに思いだした。
自分の涙のせいで気持ち悪くなったと言われ、咲耶はハクコの評価をふたたび『冷淡な男』に戻す。
「そう思うなら、今後は私に涙を見せるな。不快だ」
障子に手をかけたハクコが肩ごしに言いきり、そのまま部屋を出て行った。
(なんか……カンジ悪い男。小トラの時のほうが可愛いげがあるんだから、人間に戻んなくてもいいのにさっ)
いーだ、と、咲耶はハクコの背中に、思いきり顔をしかめてみせた。