《十一》その身にあるは人外の力。ぬしは、もはや人ではないのだから。
咲耶から手渡された組紐を、椿は大事そうに抱え微笑んだ。が、直後にぽろぽろと大粒の涙をこぼし、泣きだしてしまったのだった。
(まさか泣かれるとはね)
自分が今まで椿からしてもらったことを考えれば、大した『贈り物』ではなく、かえって申し訳ないような代物だったのだが。
主から『感謝の意』がこめられた形ある物を“下賜”されることは、名誉なことなのだと椿が泣きながら教えてくれた。
「こんな『姫』で、がっかりしたんじゃない?」
キヌから聞いた話を思いだして冗談まじりに訊けば、ようやく泣き止んだ椿は可愛らしい微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいえ、わたしのような者にも親しんでくださる優しい姫さまで感激いたしました。……その、考えていたよりは、お歳を召されていたのには驚きましたけど」
付け加えられたひとことに、椿の本音がかいま見えた。無理もない話だと、咲耶は苦笑した。
「──咲耶さま! 道、違いますよ」
隣を軽やかに並走していたキジトラの猫・転々に言われ、咲耶は回想から現実へと舞い戻った。
走り慣れた山中の獣道。
体力作りに費やした時間に比例し、同じような景色にあっても道筋は分かるようになっていたが、確かに違う道に入って来たようだ。
白い息を吐きながら辺りを見回した咲耶のもとへ、正しい道順で走っていたタヌキ耳の少年・たぬ吉が、呼びかけながら戻ってくる。
「さ、咲耶様ーっ。だだ大丈夫、ですかー? ……少し、休まれますか?」
「ううん、平気。前は確かにすぐにバテちゃったけどね、いまは……」
ふいに咲耶の鼻腔を、かぐわしい花の香がつく。沈丁花だ。咲耶は昔から、この花の匂いが好きだった。
「どうかなすったんですか、咲耶さま?」
不思議そうに転々に見上げられ、咲耶は香りを吸い込みながら応える。
「うん。良い匂いがするなぁと思って」
「じ、沈丁花、ですよね? あれ、でも、まだ時期が早いような……」
「誰かいる!」
言いかけたたぬ吉がタヌキの耳をぴくりと動かすのと、転々が声をあげるのが同時だった。
枝葉をかき分けて現れたのは、いつか出会った僧侶風情の男だった。一瞬、また結界のほころびができて、迷いこんできたのかとも思ったが。
つるりとした頭部をあらわにし、小脇に抱えた編笠を持つ手とは反対の手を掲げ、咲耶に問うてきた。
「この紐に見覚えは?」
男の片手から垂れ下がっているのは、白と黒と金の色が彩なす組紐。咲耶が椿に、渡したものだった。
「椿ちゃんの……! なんで、それを──」
胸騒ぎに似た嫌な感覚をかかえ問いかけた咲耶の言葉をさえぎり、男がふむと相づちをうつ。
「あの娘御は、椿と申すのだな。
──さて、白い花嫁殿。ぬしは、『再生』の神力を遣う気はないと聞いたが、相違ござらぬか?」
「なに……? それが、なんだって言うの?
それより、なんであなたが椿ちゃんにあげた物を持っているの?」
男に対する薄気味悪さは変わらずあったが、咲耶のなかでは椿のことのほうが気がかりだった。思わず男へと近づく咲耶を、たぬ吉が制す。
「さ、咲耶様! うかつに近づいたらいけません! この男……な、何やら臭います……!」
咲耶をかばうようにして前に立ち、たぬ吉は手の甲で鼻を覆った。咲耶の足もとで、転々が毛を逆立て牙をむき、威嚇する。
「坊主の言う通りだよ、咲耶さま! こいつ……ヤな感じだ!」
男がのどの奥で、笑った。
「……はてさて、いかがしたものか。手荒な真似はしたくはないのだが」
物言いとは対照的に、男の大きすぎる眼が、咲耶たちを不敵に見据える。手にした編笠を、地に打ち捨てた。
次の瞬間、男のほうから、まがまがしい気が発せられた。──たぬ吉が、叫ぶ。
「転々さん、影に!」
「咲耶さまっ、いいっ!?」
許す──咲耶がぎこちなく答えた直後、咲耶の身は垂直に飛び上がっていた。木の枝に絡まるように一回転したのち、枝もとに着地する。
見下ろす視線の先、咲耶の動きを読んでいたかのように、男はニヤリと笑い咲耶を見上げてきた。
「『物ノ怪』にその身を預けるとは。憑依されることに抵抗がないと見える。よほどの物知らずか、馬鹿がつくほどのお人好しか……」
「て、転々さんっ。ここはボクが!」
咲耶に向かい声をあげた たぬ吉の身体が、一瞬のちに変化する。牛の頭をもつ、絵本で見たような鬼の姿へと。
牛の頭をした巨大な鬼が、手にした金棒をぶるんとひと振りし、黒衣の男めがけて叩きつける!
地響きと共に砂煙が舞い上がったが、衝撃よりも早く、男の身は飛ぶように後ずさっていた。見届けた咲耶の身体が、ふたたび地に降り立つ。
「タンタン、無茶しないでね!」
気弱なタヌキ耳の少年が化けた牛鬼の背中に叫び、しなやかで小さな獣を身内に宿した咲耶は、走りだした。
転々の自由に任せた咲耶の肢体は、ぐんぐんと風をきり、森のなかを駆けていた。木の幹や枝を恐ろしい速度で寸前にかわすが、避けきれない身体のあちこちに切り傷が増えていく。
(早いけど……身体が保たないかも……!)
以前、犬貴や犬朗に預けた時とは、勝手が違うのが分かった。あえて言葉にするなら、転々が咲耶の身体を巧く操れていない感じだ。
いつも咲耶を専属で護衛していた犬朗は、いまは“霞のなか”にいた。そこは人の目に触れず、外敵にも襲われない場所らしい。
和彰の説明によれば、自ら傷つけた“仮宿”と呼ばれる肉体の回復に専念するためだという。そこで養生中の犬朗には、常には伝わるはずの咲耶の危機も声も、届かない──。
(犬朗は来られない。それなら)
古株の眷属と、いつでも呼べと言ってくれた白い神獣を頼るべきだ。咲耶がそう結論づけた刹那。
キィーー……ンという耳鳴りが、咲耶を襲った。脳髄に直接響くような、御しがたい寒気のする『音』。それまで、人身とは思えない速度で駆けていた咲耶の身が、糸の切れた操り人形のように山道を転がった。巨木にぶつかって、止まる。
したたか打ちつけた背中に息が止まりそうになった咲耶の耳に、獣の苦しそうな息遣いが届いた。
「……転々……!」
咲耶の影にいたはずのキジトラ白の猫が、仰向けになって肢体をくねらせているのが目に入った。苦しむ眷属に腹這いのまま近づこうとした咲耶の前で、わらじの足が転々の身体を無造作に蹴り飛ばした。
「転々っ」
地面に這いつくばった状態で見上げれば、黒衣の男が憐れむように咲耶を見下ろしていた。……男の身体から、沈丁花の香りが強く漂ってくる。
「骸を増やすおつもりか、白い花嫁殿。確か、サクヤ姫と申されたか。『再生』の神力は遣わぬと言いながら、周りのモノの『治癒』は厭わぬと聞く。
ふむ、我には道理が解らぬのだが。『再生』も『治癒』も、自然の摂理に反した行いであろうに」
咲耶の抱えた矛盾を、男は淡々とした口調で断罪する。いっそう強くなる芳香は、もはや咲耶にとっては「良い香り」でなく、吐き気を覚えるものとなっていた。
「ならばいっそ、白い神獣の花嫁として、その名に違わず『神の女』として振る舞われたらよろしかろう。
──その身にあるは、人外の神力。ぬしは、もはや人間ではないのだから」
告げた男の手が、咲耶に伸びてくる。めまいがひどく、嘔吐しそうな身体にあらがい、咲耶は必死に唇を動かした。
「かず、あき……」
呼びかける、愛しい者の真名。側に来て、助けてくれと、咲耶は願う。
だが──。
和彰は姿を現してはくれず、そうして咲耶は、深い闇のなかへと囚われてしまったのだった……。




