《十》つぼみの庵──だからこその巡り合わせ。ご縁というものでしょう。
中空に浮かぶ月からの光はか細く、咲耶と、前を歩く和彰の行く手を照らしていた。
結局、虎次郎から聞かされた道筋は、暗闇で方向感覚も鈍った咲耶には、なんの役にも立たなかった。咲耶と違い、虎次郎の話を聞いていないようだった和彰のほうが、よほど道順を覚えていた。
「この斜面を下れば、すぐそこだ」
咲耶を振り返った和彰の両頬は赤かった。漫画のような手形こそ残らなかったが、それは、咲耶が和彰の頬を力任せに叩いた跡であった。
(つい、叩いちゃったけど……)
白い水干の背中を見る咲耶の胸に、後悔の念がわきあがる。和彰のあとに続き、並び立つ樹木に手をかけながら斜面を行く。
「……っ……!」
気をつけて下りてはいたものの夜露にぬれた草を踏み、咲耶は足をすべらせてしまう。すかさず、和彰の腕が咲耶を抱き止めた。
「──気をつけろ」
抑揚なく告げた唇からは小さな溜息も漏れた。咲耶を案じてくれているのが、訊かなくとも伝わる。直後に、すっ……と、咲耶から離れた身体を追いかけるように、咲耶はおずおずと口を開いた。
「あの……和彰? さっきのは別に、和彰自身がダメだってことじゃなくて、場所がダメってことなんだからね?」
伸ばした指先で離れ行く絹衣の端をつかめば、自然と和彰の歩が止まった。
「──……解っている」
低い声音が応じて、そのままの姿勢で言葉がつむがれる。
「お前の側にいたい。お前に触れていたい。……それらはすべて私の一方的な想いだ。お前の望まぬことを強いるつもりはない」
きっぱりと言い切って歩きだす和彰に、咲耶はあわてて言い募る。
「だからっ……一方的とかじゃなくて、TPO──時と場所と場合っていうか、なんていうか……。ああ! もうっ……なに拗ねてるのよーっ」
追いかける咲耶を振り向きもせず、和彰はどんどん先に進む。
月下に照らされた獣道は徐々に拓かれていき、やがて視線の先にかやぶき屋根の建物が見えた。
ちょうど戸口から人が出てくるところで、大小の人の姿が見えた。屋内の灯りの逆光で、顔ははっきりとは判らない。
大きな人影は編笠を被り、白い着物に右肩を出すようにして掛けた黒い布をまとっていて、咲耶に僧侶を思わせた。
「法師さま。もう行かれてしまうのですか?」
「キヌ殿も、大分よくなられたようだ。これ以上の長居は、却ってぬしらのためにならなかろう」
幼い少女の残念そうな問いかけに、壮年の男の声が応える。こちらに向かい歩きかけ、咲耶たちに気づいたようで軽く頭を下げすれ違って行く。
ふいに和彰が、咲耶を隠すように自らの背に追いやった。いぶかしく思った咲耶は、なにげなく僧侶風情の男に目を向けた。
笠の下からのぞく、ぎょろりとした大きな目。咲耶と目が合うと、笑ったようにも見えた──とても奇妙な笑みで。
(なに……?)
背筋に気味の悪いものを感じた咲耶は、思わず和彰に寄り添った。
「──……お前も感じたのか?」
「え?」
遠ざかる黒衣の男を見送って、和彰が声をかけてきた。咲耶は和彰の言いたいことが解らず、長身の美貌の主を見上げる。
「あの者からは、邪な『気』が感じられた。お前に害を及ぼす者かもしれぬと思い、背に隠した」
難しそうにひそめられた眉に、先ほど自分が感じた嫌な感覚を否定したくなり、咲耶はわざと茶化してみせた。
「やだ、和彰ってば。私がそんなに、モテるとでも思っているの?」
「……お前は、自分には価値がないと言いたいのか」
切り返された声音は、言外に否定を含んでいた。
呼応するように、咲耶の脳裏によみがえる、いつかの和彰の言葉。──お前は我らにとって、かけがえのない存在なのだ、と。
「犬朗が己の身を犠牲にしてまで特殊な結界の内に入ったのは、お前の為だ。
身をけずり力を弱めたが為に、お前を護れぬと悟り私に頼むと告げたのも、すべてはお前の身を案じたからではないのか」
和彰の言葉は正論で、偽りがない。真っすぐな指摘は、咲耶に反論の余地を与えなかった。和彰や眷属から寄せられる想いが、咲耶という『個』を大切にしてくれているのが、解るだけに。
そこにあるのは下総ノ国の民から注がれる眼差しとは違い、花嫁であるとか神力が扱えるという理由からの『価値』ではない。咲耶がただの咲耶であっても『価値』を見いだしてくれる者たち──。
「……うん。そうだよね。ヘンなこと言って、ごめんね、和彰」
犬朗の傷ついた姿を思いだし、泣き笑いになった咲耶を、とまどったように和彰が見下ろしてくる。
「なぜそんな顔をするのだ。私の言ったことはお前を悲しませることなのか?」
「違うよ、逆。和彰や、眷属の気持ちが嬉しいの」
物事の道理は解っても、人の心──とかく女の複雑な心理が解らない白い神獣。だが、それすら飛び越えて、咲耶の心に近づく術をもっている。
「……和彰のそういうとこ、好き」
白い水干の端をつかんで告げると、さらに和彰は困惑したように眉を寄せた。
「……ここでは駄目だと言ったのは、お前だ。そのような睦言で私を惑わすな」
わずかに染まった和彰の頬に、咲耶がくすっと笑った時、幼い少女の声が割って入った。
「あ、あのっ……。おそれながら、白い花嫁さまにございますよね……!?」
ためらいながらも興奮した口調に、咲耶はあわてて少女に向き直った。
(しまった! また本題からズレてたよ、私!)
幼い少女の前で『ふたりの世界』に入っていた自分を反省しながら口を開く。
「夜分に来て、ごめんなさい。
こちらで、庵を預かってる方の具合が悪いって聞いてきたんだけど……会わせて、もらえますか?」
「庵主さまに、ですか?」
パチパチとまばたきをする少女に、咲耶は自分が名乗りもせずにいたことを思い、言い直す。
「あ、えっと、私は松元咲耶っていいます。
虎次郎さんから事情を聞いて、差し出がましいとは思うけど、その……庵主様? の身体を楽にしてあげられたらと思って。
なかに、入れてもらえますか?」
咲耶の問いかけに、少女は急におろおろと落ち着きがなくなった。
「ええと……庵主さまは……な、なかに入られるのですか? その、あっ……し、しばしお待ちを!」
勢いよく頭を下げ、少女は庵のなかへと戻って行った。
ややしばらく待たされた咲耶たちを出迎えたのは、年の頃は三十半ばくらいの褐色の肌の女性であった。
「このような荒屋に、私のような者のためにお越しいただき、恐縮にございます」
平伏したまま告げる庵主──キヌに、あわてて咲耶は、顔を上げるようにと応じた。わずかな間をおいて上げられた顔は、彫りが深く、咲耶が元いた世界での異国の地の者を思わせた。
キヌは、両隣と後方にいる“つぼみ”たちの名を呼び、面を上げさせる。
「あの……お加減は、もうよろしいんですか?」
「えぇ、この通り。わ……虎次郎殿に、余計な心配をかけさせてしまいました」
苦笑いを浮かべる頬には多少のやつれが窺えるが、無理をしているようには見えなかった。けれども、表に出てきた少女・ツネの態度を思いだすと、病み上がりで大事をとって臥せていたのかもしれない。
(に、しても。「わ……」とかって、言いかけてたよね)
沙雪と同じく、虎次郎という人物が萩原尊臣であると知る一人のようだ。何やら、複雑な心境にならなくもない。
咲耶は急に、夜分に押し掛けた自分たちの存在を、ばつ悪く感じてしまった。
(……まさかコレ、あいつの嫌がらせだったりする!?)
何度もこけにされてきただけに、そんな疑いを虎次郎に向けかけたが、さすがに考えすぎだろうと、改め直す。
「咲耶様、ハク様。よろしければ、夕餉を召し上がっていかれませんか?」
「へ? ……ああ、えっと、ご好意は嬉しいんですが、椿ちゃんが用意して──くれてるよね?」
言いかけて思いだした咲耶は、隣の和彰の顔をちらりと見やった。
「無論。お前がいらぬと言わぬ限りは支度をするのが花子の務めだ」
無表情な肯定を受け、咲耶はまたしても、己の手落ちを反省する。
(椿ちゃん……心配してるよね……)
夕食の時間を過ぎても戻らない主に、気をもんでいるだろうことを思うと、申し訳ない気分になった。そんな咲耶の様子を見つめ、キヌが口を開く。
「椿は、お役に立っておりますか?」
穏やかな問いかけに、咲耶は思わず翠色の瞳を見返した。キヌが、微笑む。
「あの子に花子のいろはから教え、名を授け送りだしたのは私なのです」
「そうなんですか? 椿ちゃんも……このくらいの年齢から、こちらで?」
花子の見習いだという“つぼみ”。ツネを始め、少女たちの年の頃は七八歳くらいだ。咲耶の疑問の正体を見抜いたように、キヌは軽くうなずいてみせた。
「椿もそうですが、この者たちも口減らしのため庵に連れて来られたのです」
キヌによると、貧しい者が少しでも食い扶持を減らすのを目的に、奉公にだされること。つぼみたちが幼いのは、民の懐事情が、まずひとつ。
もうひとつは『神の獣』という特別な存在と、『異世界の者』である花嫁や花婿に対し、偏見のない状態での教育をするためらしい。
「もちろん、皆が皆、花子になれるわけではありません。この国に居られる神獣様は、三柱。巡り合わせも、ございますからね」
「巡り合わせ、ですか」
「えぇ。つぼみが花子になるには、大きく分けて二つの機会がございます。
一つめは、神獣様が国獣の地位に就かれたとき。二つめは、花子に就いた者が任を解かれたとき。
このうち二つめに関しては、相性と寿命によるものですから」
なるほど、それが巡り合わせということかと咲耶は納得し、ふと思いついて問いかける。
「じゃあ、極端な話、神獣と花嫁、どちらかと反りが合わなくて解任、なんてのも──」
「ございますね。……当代のコク様たちの花子は、二人目ですし」
キヌの苦笑いに、咲耶もつられて引きつった笑みを浮かべる。黒虎・闘十郎の花嫁、百合子の気性を思いだしたからだ。
「神獣様も対の方様も、それぞれにご性質が違われるように、花子にも気質がございますからね。だからこその巡り合わせ──ご縁というものでしょう」
キヌの言葉に、咲耶はしみじみとうなずいた。
「確かにそうですよね……。私は、椿ちゃんが私の花子だったから、この世界になじめたような気がします」
右も左も解らず。今でこそ和彰を頼ることもできるようになったが、契りの儀の直後は、何をどうしていいのか途方にくれたものだ。それを椿が、文字通り手取り足取り教え、屋敷まで導いてくれた──。
咲耶の言葉に、キヌは母が子を想うような笑みを見せる。
「咲耶様にそのように言っていただけるとは……あの子も花子冥利に尽きるというもの。よき働きをしているようで、安心いたしました」
咲耶は大きくうなずいて、隣の和彰を見る。
「えぇ、そりゃあもちろん! ね、和彰?」
「椿は有能だ。常に先を読み行動できる」
淡々とした口調だが、だからこそ真になる響きをもつ。咲耶とその伴侶の同意に、キヌが異国の地の者を思わせる瞳を、おもむろに伏せた。
「……どのような姫様がいらっしゃるのでしょう。私、気に入ってもらえますでしょうか」
「え?」
告げられた意味が解らず、咲耶は目をしばたたく。キヌの翠色の眼が、ふたたび咲耶を映した。
「この庵を去るとき、あの子が私に申したことです」
遠い昔を懐かしむような眼差しで、キヌは先を続ける。
「私があの子に返したのは、ただ主様の心に添うことだと。一言一句、聞きもらさずに、主様が何を望んでおられるかを考えなさいと。そう助言いたしました」
そして椿はキヌの教えの通り、咲耶の一挙一動に心をくだいてくれた。
──咲耶が身にまとう白地に金の刺しゅうがほどこされた水干と、黒地に金刺しゅうのある筒袴に象徴されるように。
咲耶は、自らの衣に指を伸ばし、竹を思わせる図案の刺しゅうに触れる。『神紋』と呼ばれるそれは、神獣固有のもの──そして、花子が手作業で縫いつけるものだと、咲耶は以前、セキコ・茜から聞いていた。
(私が言った何気ないひとことを、聞き逃さないでいてくれた……)
急に咲耶は、椿の待つ自分たちの屋敷に戻りたい衝動にかられた。
「あ、あのっ。こんな風に押しかけておいて失礼かと思いますが、私──」
「はい。お帰りになられるのですね?」
心得たように微笑むキヌに、咲耶は、申し訳ない思いと心情を察してくれた気遣いに、深々と頭を下げた。
「急ぐのか? ならば、すぐに屋敷に戻ろう。私の手を取れ」
あいさつもそこそこに、つぼみの庵をあとにした咲耶を追い和彰が声をかけてきた。足早に歩きだしていた咲耶は、歩を止めず和彰を振り返る。
「和彰の『力』を遣ってくれるってこと? それはダメ……っ……──」
暗い夜道の足場の悪さにつまずきそうになったが、和彰のおかげで難を逃れた。
「また『駄目』なのか?」
咲耶の腕をとった和彰の眉が、ひそめられる。自分に引き寄せた咲耶を見下ろし和彰は溜息をつく。
「お前は私を必要だと言った。だが一向に私は、必要とされてないように思える」
不満そうな低い声音に、咲耶は少し考えてから口を開いた。
「和彰は必要だよ? だけど、そういう……和彰を頼って、自分のできることを楽に済ませるっていうのは、駄目なの。私は、人間だから」
咲耶のひとことに、和彰の顔が強ばった。
「それは、私とは『違う』ということか?」
「じゃなくて! 私は人間だから、楽なほうに流されやすいってこと」
強くかぶりを振ってから、青みがかった黒い瞳をキッと見据える。
咲耶は、自分が流されやすい性質なのを、嫌というほど知っている。和彰のもつ『力』を利用して物事を進めれば、二度と『楽でない道』を選ばなくなるはずだ。
そういう生き方は、したくはない。和彰は、咲耶の『道具』ではないのだから。
「和彰が、大事なの。私の都合で、利用したくない」
言い切って、ふたたび咲耶は歩きだそうとする。しかし、その身は直後に、和彰に抱き寄せられていた。
「──お前に利用されることが私の存在する『意義』なのだ。それが、なぜ解らない?」
いらだちともとれる、早口な問いかけ。こんな風に感情をむき出しにする和彰を、咲耶は今日、何度見ただろう。
「お前が私を呼び寄せたのは、私の力を欲したからではないのか。私に願いを……叶えて欲しかったからでは、ないのか」
仰ぎ見た和彰の真剣な表情に、咲耶は息もつけなくなった。何も持たないはずの自分を、いつも求めてくる強い光。
和彰の手のひらが、咲耶の片方の頬に触れる。ひんやりとした冷たさとは真逆の魂に宿るもの。咲耶に相対する時に、和彰が見せつける、痛いほど真っすぐな想い。
「私に……お前の願いを、叶えさせてくれ」
向けられるひたむきな眼差しとかすれる低い声音は、咲耶の心を御していたものを容易にこわした。
(ああ、やっぱり私ってば、流されやすい……)
自分の意志の弱さを認めながらも、寄せられる好意を無下にもできない。そして、思い返せば最初から、咲耶は和彰の言うことに逆らえないでいた。
「……和彰って、私を駄目な女にする天才」
上目遣いにぽつりとつぶやく。すると、即座に否定の問い返しがきた。
「お前のどこが駄目なのだ?」
不思議そうに見返してくる瞳が咲耶を捕えて放さない。それこそが、咲耶を『駄目な女』にする証明───。
暗闇に浮かび白く光って見えるのは、椿が今朝方に活けてくれた菊の花だろう。かすかに香る花の匂いに、息をつく。
「……ありがと、和彰」
自分たちの屋敷──咲耶の部屋に戻ったのを実感し、咲耶は寄せた身を起こした。
「いましばらくこのままでいては駄目か?」
背に回された腕に力がこもる。離れたくないという意思表示に、小さな子の我がままを聞くような気分で笑う。
「……ちょっとだけ、だからね?」
繰り返し「ダメダメ」と言い続けた身としては、もうこれ以上、断りきれなかった。何より咲耶のほうが、和彰から寄せられる想いに応えたい気持ちがあった。
(少しだけならいいよね……?)
触れて、伝えて。「必要だ」と告げた言葉に偽りのないことを、和彰自身に解らせたくなったのだ。
衣擦れと息遣いに、室内の冷えた空気があたためられていく。少しだけ、という自身の枷は、ふたりで過ごす時間の前ではないも同じだった。
「──誰かいるのですか!」
毅然とした声音と共に開く障子。次いで、うわずった少女の声がした。
「お、お帰りに気づかず、ぶしつけな振る舞いをしてしまい、もっ……申し訳ございませんっ……!」
「やっ……ごめっ……椿ちゃん! ってか、謝るのは私のほうなんだけどっ……!」
椿の悲鳴のような謝罪に、咲耶のあわてふためく声が重なる。乱れた髪と胸もとを押さえる咲耶の背後で、和彰が冷静に言った。
「師が人は戸口を出入りするものだとおっしゃったのは、主の帰りを使用人に知らせるためなのだな」
「──っ……そんな分析、いらないからっ!」
八つ当たりぎみに和彰を怒鳴りつけ、咲耶は平伏して謝り続ける椿をなだめながら思った。
(もうっ、私ってば今日一日、ナニやってたんだろ……)
椿に日頃の労をねぎらう意味で用意した、心ばかりの『贈り物』。沙雪の来訪で渡しそびれ、つぼみの庵で我に返り、和彰の『力』をわざわざ借りて戻ってきたのに、この有様だ。
(私、本当にダメダメ女だーっ)
あまりの情けなさに泣きたい思いにかられる咲耶をよそに、夜は更けていくのであった。




