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神獣の花嫁〜かの者に捧ぐ〜  作者: 一茅 苑呼
伍 囚われの神女(めがみ)
35/73

《九》畏怖──お前が私を呼ぶのをためらうのなら神でなどいたくない。

 


 自分のもとへと呼び寄せるため、初めて告げる真名なまえ。咲耶は、少しの緊張を抱えながら白い神獣の名を口にした。


 ──音もなく、さりとて特別な兆しもなく。冷たい美貌びぼうの青年に化身した『白い神の獣』が、咲耶たちの前に現れた。


 すらりとした長身にまとう、着丈の短い白い水干と、黒い細身の筒袴。腰近くまで伸びた色素の薄い髪の先々にさえ、神々しさを感じさせるたたずまい。


 咲耶を抜かし場にいた者たちがひれ伏したのを、超然と見届けている。


「ハクの旦那……」


 しぼりだすような声音に反応して、青みがかった黒い双眸そうぼうが隻眼の虎毛犬に向けられた。


 まばたきだけで場にいる者を圧倒し、おそれを抱かせる存在であると、咲耶は初めて実感する──自分が『彼』に最初に抱いた感情が『畏怖いふ』であったことを、知る。


「咲耶サマを、頼みます……」


 自らの眷属けんぞくに近づき、和彰の片手が伸びる。こうべを垂れた赤虎毛の犬の額を、長い指の先が突いた。


「──休め」


 言葉と共に消え失せた手負いの甲斐犬を思い、咲耶はようやく我にかえった。


「和彰! 犬朗はケガしてたのよ? どうしたの!?」

「……あの者をいま側に置いても役には立たぬ。時がくればおのずから姿を現すだろう」


 抑揚のない返答に理解が追いつかない咲耶の前で、和彰は平伏した虎次郎を見下ろした。


「形ばかりの礼などいらぬ。顔を上げろ。なぜ私の花嫁を眷属の護りもままならないこのような山中に連れてきた」

「──おそれながら」


 すっと上体を起こし、しかし頭は下げたまま、虎次郎は言った。


「この度の御役目は、咲耶様ご本人の了承を得て、お連れした次第にございます。咲耶様の、民への深いご慈悲があればこそかと」


 どこかで聞いたような台詞を、いけしゃあしゃあと言ってのけた男に、咲耶の頬が引きつった。


(何が、『慈悲』よ!)


 罪悪だなんだとけなしておいて、どの口が言うのか。怒りと呆れのあまり、咲耶のほうが言葉を失った。


「咲耶の意思だと言うのだな?」

「左様にございます」

「分かった。では、お前は去れ」

「……は?」


 そこで初めて虎次郎は顔を上げ、和彰を見た。理解しがたい生き物を見るような不可解な表情が、一瞬だけ、忠実な仮面の下からのぞいた。


「聞こえなかったのか。立ち去れと、命じたのだ」


 冷ややかな眼差しと、いつもより、いっそう低い声音。そして、すでに終わったことのように、和彰は虎次郎を振り返らない。


「咲耶。寒くはないのか」

「えっ。……あ、そういえば」


 言われて、咲耶は身震いをする。

 次々と起こった出来事に気が動転し、また、自分が呼んだとはいえ突然現れた和彰に対し、反応に困っていた。だから咲耶は、自分の身体の状態など、二の次だったのだ。


 近づいた和彰の手が、咲耶の髪から頬、肩先へと、すべるようになでる。常には冷たいはずの手は不思議と温かく、触れられた部分から咲耶の濡れた髪は乾き、衣からは水分がなくなり軽くなっていた。


「……和彰?」


 肩に置かれたままの手に、咲耶は和彰を見上げる。ややしばらく無表情の和彰に見つめられ、何も言われないことにしびれをきらした咲耶は、虎次郎に声をかけた。


「“つぼみ”の庵っていうのは、この先にあるの?」

「左様にございます。……ご案内いたします」

「必要ない」


 立ち上がり歩きかけた虎次郎の背中に、和彰の取りつく島もない声がかかる。わずかに揺れる直垂ひたたれの背は、不快さを表していた。

 ゆったりとした動作で、虎次郎がこちらに向き直った。切れ長の目の奥から、鋭い光が放たれる。


「……では、私の付き添いは、いらぬということでしょうか」

「お前がいたところで役に立つわけではあるまい」


 応じる和彰は、にべもない。


(何これ……なんでこんなに険悪ムードが漂っちゃってんの?)


 和彰の口調が素っ気ないのは、いつも通りだ。けれども咲耶には、二人のあいだに流れる空気が、冬の寒空の下、なおも冷え冷えとしていくのを感じた。


「あの……じゃ、和彰も来てくれたことだし、場所だけ教えてくれる? その、庵にいるどなたかの、具合が悪いってことなんだよね?」

「──……えぇ」


 なぜ自分が、この二人のあいだに挟まれて、気を遣わなければならないのか。


 咲耶は、そんな理不尽な思いにかられながらも、

(まぁ、歳だけ言ったら、私が一番年長だろうしね)

 と、自分が『大人として』振る舞うことを優先した。


 虎次郎は咲耶に“つぼみ”の庵までの簡単な道筋を説明した。そして、庵を預かる女性が流行り病に倒れ、つぼみ達が困っているだろうことも。


 その間、和彰は黙っていた。咲耶と虎次郎のやり取りを少し離れた位置で見つめ、現れたときの威圧感もなく、周囲の景色に溶け込むかのように。


「──では、よろしくお願いいたします」


 虎次郎が咲耶に頭を下げる。和彰にも同様に立ち去る礼をとったが、当人は無反応だった。


 場を取りつくろうように、咲耶は気になっていたことを虎次郎に尋ねる。


「さっきの……カラスのお化け、どうなっちゃったの?」

「……気になりますか?」


 和彰の死角になる位置で、虎次郎がにやりと笑う。懐から、青銅色の鞘の小刀を取り出した。


「これは“神逐かむやらいのつるぎ”と呼ばれる聖なる剣の付属の刀です。その名の通り『神さえ追い払える』とされるもの。付属とはいえ、先の程度の物ノ怪であれば、はらえる力を持ち合わせております」

「それで……あのカラスは、成仏できたの?」

「そうですね、おそらくは」


 結論を求めた咲耶に対する答えは、あいまいなものだった。不満な思いが顔にでたのだろう、虎次郎が苦笑いを浮かべる。


「私には、本当の意味では神々やあの世のことは、解りかねますので」


 いま現在『生きている自分』には死後の世界は解らない、と。意外にも誠実な言葉に、咲耶は思わず虎次郎を見返す。

 すると、声をひそめて虎次郎が告げた。仮面の下の、男の声で。


「いいか、咲耶。これだけは覚えておけ。秩序や道徳にこだわれば、いつかはおのれが人であること自体を否定したくなる。違うか? それは、むなしいことだと俺は思うがな。

 ……人が『ヒト』であることを忘れるな。人が、愚かであることを」


 言うだけ言って、虎次郎は来た道を帰って行った。その背中を見送り、咲耶は、自分がまだ学生だった頃に感じたことを思いだす。


(私はただの人に過ぎなくて……そして、『ヒト』という理性をもった『獣』でもあるんだよね)


 咲耶は虎次郎の残した言葉を胸の片隅にしまった。


「じゃ、和彰、行こっか!」


 気を取り直して押し黙ったままの青年に声をかければ、咲耶を見てはいるものの、反応がない。


「ちょっと……和彰? こんなふうに呼びだしたこと、ひょっとして怒ってたりするの?」


 近寄って、白い水干の胸もとをつかむ。おもむろに咲耶に落とされた視線は、返事の代わりに肯定を示していた。


「……なによ」


 突き飛ばすように、咲耶は和彰を押しやる。


「いつ呼んでも構わないって、言ったくせに」


 寂しいような申し訳ないような気分とは裏腹に、咲耶は和彰に背を向け歩きだそうとした。次の瞬間、ぽつりと和彰が言った。


「私は……お前に必要とされない存在なのか?」


 問いかけられた内容に、咲耶は驚いて和彰を振り返る。


「急に、なに?」

「お前は、なかなか私を呼ばない。今日もお前の気の乱れを、何度も感じた。けれども……お前は私を、呼ばなかった」


 いつもの淡々とした口調ではなく、どこか思いつめたような感のある声。怒りとも悲しみともつかない感情を、咲耶に伝えてくる。


「それは……和彰は、簡単には『呼んではいけないひと』だって、気づいたから」


 ──犬朗に指摘され自覚したこと。安易に和彰を呼び寄せてはいけないのだという思いが、咲耶の心の奥底にあることだった。


「なんだ、それは」


 理解しがたい言葉を聞いたかのように、和彰は首をかしげ、眉を寄せる。咲耶の言ったことの意味の、十分の一も解らないようだった。


「私はお前にいつでも呼べと言ったはずだ。お前に災厄が訪れなくとも」


 重ねられる言葉に、咲耶は自覚した苦い想いを打ち明ける。


「だけど……和彰は、『神様』なんだよね? 私、いままであんまり実感わかなくて……だから、和彰を呼ぶこと、簡単に考えてたっていうか……」


 商人司しょうにんつかさの屋敷で、咲耶にひれ伏した民人たみびとたち。彼らの姿を見たとき、咲耶は改めて、自らが白い神獣の花嫁であること──その代行者であることの意味を、考えさせられた。


 咲耶が扱う神力に対しての敬意は、ひいては和彰という『白い神獣』への感謝だ。決して、咲耶自身を敬っているわけではない。


(まさに、虎の威を借る狐って感じ……)


 自嘲じちょう的な気分だった。自分の力ではないと解っているだけに、彼らから向けられる敬服を、素直に受け入れる気分にはならなかったのだ。


「お前にとって私が『神』という存在で、そのことによって私を呼ぶのをためらうというのなら、私は『神』でなど、いたくない」


 めずらしく感情を露わにした和彰の言葉に、咲耶は、はっとさせられた。目を上げて和彰を見返せば、行き場のない孤独な魂をかかえた瞳が咲耶を映しだしていた。


「私は……お前に必要とされ、お前と共に在るモノでいたいのだ」


 切々と届く、低い声音。

 誰かの支えが欲しくなるほどに、咲耶の胸は打たれた──支えてくれる相手は、目の前にいるのに。

 咲耶は、自らの胸もとを押さえこむ。咲耶と和彰をつなぐ、目に見える“あかし”が刻まれた、白い痕のある右手でもって。


(私は……白い神獣の花嫁で、代行者だけど……)


 その前に、ただの『ひと』だ。授かった神力に恥じない自分でいなければと思うあまり、咲耶は大切なことを忘れていたのかもしれない──。


 何も言えないでいる咲耶とは逆に、和彰の口からはせきをきったように言葉があふれていた。


「仮に私が他の者にとってそうであったとしても、お前にだけは、そう思って欲しくはない」


 ──咲耶が忘れていた大切なこと。自分が彼を『和彰』という固有の存在であると認められる、唯一の者なのだ。


 漠然とした『神』などというものではなく。『和彰』という名をもつ『こころ』を宿した存在として、接することのできる『ついになる者』。彼の名を『呼べる』とは、つまりは、そういうことだ。


「ごめん……和彰」


 咲耶ののどの奥からでたのは、そのひとことだけだった。とまどったように、和彰が口を開く。


「……お前にとって私は、必要ではないということか?」

「違うよ、そうじゃない」


 繰り返された確認に、今度は即座に否定した。和彰を見上げ、告げる。


「必要だよ」


 にぎりしめた手のひらは、自分のためものではない。神獣というまれな存在でありながら、咲耶というちっぽけな存在を必要としてくれる、純真無垢な者に、差し伸べるためのもの。


 ようやく欲しい答えを得たように、和彰はやわらかな微笑を浮かべる。


「──……お前に触れても良いか?」


 咲耶は言葉ではなく、その身でもって答えを返す。寄せる身が和彰の両腕につつまれて、ぬくもりが咲耶を春色に満たしていく。


「咲耶……」


 ささやかれる声音の甘さと、咲耶の衣の上を伝う和彰の手指の行方。吐息と共に奪われた唇に応えかけて、拍子に、背中にあたった固い樹木の存在で我にかえった。


(──はっ。ここ、外だった!)


 それよりも何よりも、自分は確か、つぼみの庵へ向かうはずだったのではないか。咲耶の神力を必要とする、下総ノ国の民のもとへ。


「か、和彰……? あの、ちょ、ちょっと待って……。ここで、これ以上は、ダメ……」

「──……駄目なのか?」


 至近距離で咲耶を見つめる端正な顔立ちに、残念そうな表情が浮かぶ。本性は虎のはずなのに、その瞳が表す色は捨てられた仔犬を思わせる。


「だ、ダメじゃないけど……いや、ダメなの! ここ外だし、誰かに見られたら──」


 和彰の眼差しに一瞬だけひるんだものの、このような場所で情欲に流されてはまずいだろうと、咲耶は必死で理性を総動員する。そんな咲耶の言い訳に、問題ないといわんばかりに和彰が言った。


「心配せずともこの森のなかにヒトはいない。居るのは獣や力の弱いあやかしくらいだ」


 言って、ふたたび唇を寄せようとする和彰に、咲耶は天を仰いだ。


「もうっ、そういうことじゃなくてっ! ダメったら、ダメーっ!」


 ──すでに藍色に変わってしまった空に、咲耶の絶叫が、乾いた音と共に吸い込まれていった。





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