《二》仮初の契り──それは、口にだしてはならぬ。
ハクコが儀式のために衣装替えをするとのことで、咲耶は先に神殿内へと通される。
そこは、咲耶が車のなかだとばかり思っていた、あの、一番最初におかしいと感じた場所と酷似していた。違うのは、その広さが倍になっただけである。
(布団……とかないし、やっぱ形だけってコトなのかな……?)
勝手に早とちりしていた自分に、咲耶は気恥ずかしくなってしまう。
(そりゃ、そうだよね。いきなり、お互いのコトなんにも知らない男女が、なんて)
「──待たせた」
言って、結っていた髪をほどいた袿姿のハクコが現れた。
咲耶は、思わず口を開く。
「あの、儀式って、具体的に何をするんですかね?」
「──証を、立てる」
「えーと……?」
「お前が、私の主であるという、証だ」
首を傾げた咲耶に、ハクコが言葉を重ねたが、重ねられるほどに疑問が増えそうで、咲耶はこっそり息をつく。
(全然、イミ解んないんですけど……)
それでも、文脈だけを捉えて、訊き返してみる。
「あなたが私の主、ではなくて?」
「そうだ。逆はあり得ない」
答えると、ハクコは自らの着物の帯を、するりとほどいた。
(へ?)
その所作に、咲耶の心臓が、どくんと強く脈打つ。
「ま、待って! あの……外、人がいっぱいいるよね? あの、ここでどうこうって、その……」
「場所を指定しろ。そこに痕をつける」
「はい?」
「お前の身体だ。お前の好きな箇所を選べ」
咲耶の真意はまるでハクコに伝わらず、そしてやはりハクコの言うことは、まるで理解ができなかった。
そんな咲耶の前で、ハクコが瞳を閉じた。自分の身体を抱きしめるように、その身をやや前に倒す。
ぶるっとハクコが身体を震わせると、ふっ……と、一瞬にしてハクコが袿だけを残して消えた──。
(嘘っ……)
目を見開いて、咲耶は床に落ちた袿を見つめていた。直後、袿が生き物のようにもぞもぞと動いて──否、袿のなかから、小さな白い獣が這い出てきた。
(ホワイトタイガーだ……)
その『音』の意味が、ようやく咲耶のなかで、正しい漢字として浮かぶ。
『ハクコ』というのは『白虎』、白い虎、ということなのだと咲耶は知った。
(なんで、『ビャッコ』、じゃないワケ!?)
突っ込みを入れながらも、咲耶は現れた白い獣に目を奪われた。
成獣ではなく、近所の日本猫と同じくらいに見える体躯。しかし、猫よりも頭は大きく、四肢は太くがっちりとしている。
素晴らしく見事な毛並みは、白色に薄い黒の縞が入っていた。
じっとこちらに向けられた青い瞳は、ハクコのそれと同じ光を宿している。
『場所は、決めたか』
その声は、頭に響く自らの声のようで。音として、空間を伝わってはいなかった。
呆然としたままの咲耶は、ぎこちなく首を横に振る。
──何をどう決めていいのか、分からない。
「身体のなかの……どこでもいいの?」
『そうだ』
「その……痛かったり、する?」
『私は、今まで主をもったことがない。だが、文献によると、多少は痛いらしい』
「じゃ、じゃあ、手で! 右手の甲で!」
意を決して言うと、白い虎は動きを止めて咲耶を見返した。が、じきに咲耶の身のうちに声が響く。
『では、右手を差し出せ』
おそるおそる咲耶が手を出すと、袿のなかから一枚の布を引きずり出し、口にくわえ、咲耶の手の甲にそれをかけた。
そして、おもむろに上げた前足でその上から爪を立て、引っ掻いた。
「痛ッ……!」
咲耶の口から短い悲鳴があがると、すかさず声が返ってきた。
『死にそうか?』
とまどったような調子の声が、なんだかおかしくて、咲耶は笑った。
「このくらいじゃ、普通、死なないんじゃ……」
『だが、一番最初の娘は死んだ』
「え?」
『お前と同じように、右手を差し出した。私が爪を立てた直後、悲鳴をあげて死んだ』
「それは……」
『なんともないなら良い。この布を外にいる者に渡せ。それから、私に袿を被せろ』
言われた通りに咲耶がすると、外にいた中年の男は咲耶を見て、ふっと笑った。
咲耶から受け取った布に向かい、小さく何言かつぶやくと、宙に指先で何やら描いた。
「……ここに、なんと書いてあるか、分かるか?」
布を広げて見せ、男が問う。
咲耶はいぶかしく思いながら、布に目を落とした。
(って、さっき見たときは、ただの真っ白な布にしか……)
「それが、そなたとハクコの仮初めの契りの証だ。真の証となるかは、そなたたち次第だ」
(───あ)
「この文字は、そなたにしか見えぬ。解るか? これが、ハクコの名だ。そなたが呼ぶことで、初めてあれは、名をもつことになるのだ。
──ただし」
そこで言葉を区切って、男は咲耶の瞳をのぞきこむ。
「それは、口に出しては、ならぬ」