《七》乞い、慕う心──ひと晩かけて、仲良くしよう?
ひんやりとした手が、頬に触れる。心地よい感覚に、咲耶はまぶたを上げようとするが、それは半ばで止まってしまった。ぼやけた視界に、人の形をした影が入ってくる。
「──なぜ、私を呼ばなかった」
のぞきこむ影が放つ、低い声音。問いかけというよりも、自責の念にかられた響きの声に、咲耶は口を開く。
「……ずあ……」
呼びかけは、名前にはならなかった。だが、思うように出ない声は、本人には伝わったようだ。
「──遅い」
言った唇があえぐ唇をふさぎ、冷たい指先が額に落ちた髪を梳くようになでる。唇も指も、咲耶の熱を奪う勢いで冷たいのに、くちづけも愛撫も、泣きたくなるほどに優しいものだった。
身体は未だ思うように動かせないが、和彰の表情に乏しい整った容貌だけは、咲耶の目に、はっきりと映るようになる。犬朗の言っていた「生命力を分けてもらう」という意味が、やっと解った気がした。
「……禁足地に入ったと聞いた。あそこには、まからんやまぐもやふなたかざんはがちがいる。いずれも、神経に害を及ぼす毒をもち、刺されれば命はないと聞く。だからこその『禁足地』なのだ。それをお前は──」
聞き慣れない単語を交えながら、和彰が説明をし始める。
孝太の父親を救出に行った山中で神力を奮った。思えば、集中して治癒にあたったあの時、和彰のいう『なんたらかんたら』に刺されたのであろう。
自分の身に起こったことは解ったが──。
(この状況で小言を言われるなんて……)
次第にはっきりとする意識のなか、咲耶はふたたび気を失いたい思いにかられた。と、同時に、身体の芯を襲うかのような鋭い痛みが、大きな痙攣を引き起こした。
(……っ……!)
力を入れて痛みに対抗しようとするも、思うように力が入らない。そこへまた、痛みがやってくる。朦朧とした意識のなかでも、幾度となく繰り返された激痛。
抵抗する気力だけは戻ったためか、よりいっそう苦痛の度合いが増し、思うようにならない身体から痛みが去ると疲労感だけが残った。
「すぐに楽にする」
抑揚なく告げたかと思うと、和彰の右手が咲耶の肩口へと伸ばされた。布地の上から何かを確かめるように、そろえた指先が咲耶の身体の線をたどる。
(ちょっ……待っ……!)
肩から二の腕、手首から指先へとその辺りまでは、まだ良かった。だが、布の上からとはいえ、単衣の薄い生地ごしに胸を触られるのには、抵抗を覚えた。
──しかし。
和彰の長い指は、特になんの関心もなく、咲耶のふくらみを通過していった。……それはそれで、咲耶としては複雑な心境になる。
(……もうちょっと、なんかこう……ない、ワケ?)
びくん、と、身体に走る震えをよそに、咲耶の思考だけは身体の不調とは別のところで、恥ずかしさともどかしさを感じていた。
そんな咲耶の前で、和彰は普段どおりの冷静さで、咲耶の身体を観察するように、たどっていく。左脚に差し掛かり、ふと指先が止まった。
「──やっ……!」
短い悲鳴をあげる咲耶を、和彰が一瞥する。
「お前を癒やせるのは、私しかいない」
事もなげに言い、単衣のすそから手を差し入れ、はだけさせる。ぐいと持ち上げられた左の大腿は、咲耶が見た時とは明らかに違うものへと変化していた。
(ヤダ……なにコレっ……)
内ももからひざがしらにかけて、ぽつんとした赤い虫刺されのようなものが三ヶ所あったはずが、赤黒い水ぶくれの塊となり、大腿に広がっている。広範囲に渡るそれは、目を背けたくなるような状態だった。
咲耶自身でさえ「気持ち悪い」と感じるそこへ、和彰が顔を寄せる。半ば伏せられた瞳と近づく唇には、みじんのためらいもない。
舌が、水疱に触れた。和彰の綺麗な顔が自分の太ももにある醜い『ソレ』に近づく様に、咲耶はいたたまれず声をあげる。
「かずあきっ」
「──────……黙れ」
射るような眼差しと冷ややかなひとことで、咲耶は和彰に瞬殺された。息をついて、ふたたび和彰は咲耶の左大腿に顔を伏せる。
なめられて、唇が押しあてられ、吸われる。しびれるような感覚が、左脚を中心に広がっていく。断続的に襲った激痛が、少しずつ小さな痛みに変化していくのが分かった。
和彰の吐息を素肌に感じる頃には、咲耶の左太ももにあった醜い水疱は、跡形もなくなっていた。
「……気分は、どうだ」
痛みとは違う身体のうずきを感じた直後、咲耶は我に返って身を起こす。あわてて、乱れた着物をかき寄せた。心臓がばくばくと音を立て、頬が熱く、耳までも熱い。
「どどどどど、どうって……!」
「顔が赤い。他にも何か、お前の身体に害を及ぼしたものがあるのか」
軽く眉を寄せ、先ほどは触れなかった咲耶の右半身に、和彰が目を向け左手を伸ばす。
(男に身体さわられたあげく、内ももにチューされて、何も感じない女がいるかっ!)
「そっ、そういうことじゃないでしょっ! なんで和彰ってば、そんなに冷静でいられるのよっ!?」
自分ひとり、何やら反応してしまった身体に、恥ずかしさのあまり叫ぶ咲耶に対し、和彰の眉がさらに寄せられた。
「私のどこが、冷静でいたというのだ?」
「は?」
「お前が倒れたと聞き、師の言い付けを破り、お前のもとへ人の姿のまま駆けつけた。意識のないお前を抱き上げ、この屋敷に運んできた運んできた。
──『人ならざる力』を、公然と使ってしまったのだ」
強い語調で話す和彰は、確かに『冷静』でいるようには見えなかった。毒気をぬかれ、ただ見返すことしかできない咲耶を、和彰の真剣な眼差しがつらぬく。
「師に戒められた力を使ったことに、後悔はない。私は、私の為すべきことをしたまでだからだ。だが」
言い切った和彰の腕が、咲耶の身体をさらう。自分に引き寄せて、咲耶を閉じ込めるように力をこめてきた。
「お前に残した言の葉が、的確でなかったことを悔いている。……お前の身が危うくなった時などと言わず、いつでも呼べと、なぜ、言わなかったのかと」
かすれた声音が、己を責める和彰の苦い思いを表していた。咲耶は、息苦しいほどにつつみこまれた自らが、どれほど和彰のなかで大切に扱われているかを知り、胸がいっぱいになる。
泣きたくなるようなせつなさを抱え、小さな声で問いかける。
「…………いつでも、呼んでいいの?」
「そうだ」
「……大した用もないのに呼ばれたら、迷惑じゃない?」
「お前を失うことに比べれば支障ない」
自信なく問う咲耶に、和彰はきっぱりと答える。
──つまらない用で呼ぶなと、あきれられるのが恐かった。呼んでも、来てもらえないかもしれないことは、もっと。咲耶は、自分が和彰に甘えても良い存在なのだと、その時やっと気がついた。
和彰の保護者のような気分が、自分のなかで大半を占めていると信じて疑わなかった。けれども、いつの間にか、残りの隠れた想いのほうも、強くなりつつあったのかもしれない。
(どうしよう……)
強く焦がれるような、相手を求める想いの先を、知りたい気持ち。知って、相手にも感じてほしいと願う気持ち。
乞い、慕う……心。それは──。
腕のなかで身じろげば、力がゆるめられて。咲耶は、おそるおそる和彰を見上げた。
整った顔立ちの冷たい声音の持ち主。女心の機微が解らず、なのに、時折むけられる優しさが胸をうつ──幼く優美な、神の獣。
(……幼い、ままなのかな……?)
指を伸ばして頬に触れれば、青みを帯びた黒い瞳が、真っすぐに咲耶を見つめてくる。もう一方の腕を上げ、和彰の後ろ髪に手を入れた。
自分が抱いた想いを確かめるように、名を呼ぶ。
「……和彰……」
身体に残された官能の口火に突き動かされ、咲耶は和彰の唇を奪った。少しだけ強引で、試すようなくちづけを。
「──……今日は、一緒に寝よっか?」
わずかに離した唇で問いかければ先ほどとは違い、とまどったように揺れる瞳と目が合って。薄明かりに照らされる頬に赤みがさしたように見えるのは、光の加減なのかと考えていると。
「一緒に……寝るだけか?」
思いもよらない問いかけが返ってきた。咲耶は、くすぐったい想いに身を任せるように、和彰の首の後ろに両腕をまわす。
「ううん。寝るだけじゃないわよ? 私……もっと和彰のことが知りたいし、和彰にも私のこと、知ってほしいから」
言いながら和彰を引き寄せ、後ろへと体重をかける。高鳴る胸の鼓動を落ち着かせるように息をつき、和彰に微笑んだ。
「……ひと晩かけて、仲良くしよう?」
誘う言葉が、はたして正確に伝わるかどうか。それは咲耶にも分からなかったが、だからこそ言葉通りに、ふたりの距離を縮めてみる価値はある気がした。
和彰は、ややしばらくのあいだ咲耶を見下ろしていたが、やがて思いきったように口を開いた。
「──それが、お前の望みなら叶えたい」
咲耶の手をつかみ寄せ、自らの口もとに押しあてる。触れる体温が、先ほどよりも高く感じられるのは、気のせいだろうか。
ぽすん、と、背中から落ちた褥の感触と、咲耶に向けられる和彰の微笑み。和彰の首の後ろから離れた咲耶の片腕に、そのまま和彰の片手が寄り添うように重ねられた。
「お前の望みは、私の望みでもある。
ひと晩かけて、お前のことを私に、教えてくれ……」
告げる唇が甘やかな吐息を放ち、応じる唇からはまた、押し殺したせつなげなささやきが夜通しつむがれる──。




