《二》尊臣からの使者──率直に申し上げれば、主に会っていただきたいのです。
布団のなかで一度、大きく伸びをして、それから咲耶は思いきって上半身を起こす。寒々とした部屋の空気に、もう一度あたたかな空間に戻りたい衝動にかられるのをなんとか押し留め、起床した。
(……寒い……眠い……)
呪文のように頭のなかで繰り返し、椿に手伝ってもらいながら身支度を整え、朝食の膳についた。向かいに座る、澄ました顔の男に声をかける。
「おはよ、ハ──和彰」
顔を洗ってスッキリとしたのは、一時的なものだったらしい。まだ頭が寝ぼけているせいか、名前を言い直した咲耶を、和彰がちらりと見返してきた。
「私の名に慣れぬなら、以前のように呼べばいい。お前が私をどう呼ぼうと、私は私だ。変わりはない」
言って、食事に戻る和彰の姿に咲耶の頬が引きつった。……詭弁だ。初めて自らの名を知った和彰が、咲耶の口から何度も真名を聞こうとしていたのを、咲耶は忘れたわけではない。
第一、
「私が呼ばなかったら、誰もあなたを、名前で呼ばないでしょう?」
必然、皆にも知れ渡ったはずの神獣ハクコの真名だが、咲耶とは違い、眷属たちも花子である椿も、畏れ多いという理由から口にすることはなかった。
(そういえば、茜さんも闘十郎さんのこと、『コクのじい様』って言ってたし)
そもそも名前が分かったところで、通称呼びが変わるものではないのかもしれない。
(でも、それとこれとは話が別じゃんか!)
「せっかく名前があるんだから、ちゃんと呼べるようにするわ。だから、そんなに拗ねないでよ」
「──拗ねる……?」
思わず口をついて出たのは、咲耶自身ですら意表をつき、言い得て妙といった感じとなる。しかし、肝心の当人は、自分の心の機微が解らなかったようで、きょとんとしていた。
「私がお前に名を呼ばれないから拗ねたというのか?
──よく、分からない……。師のところで、熟考してくる」
ややして難しそうに眉を寄せた和彰に、咲耶は半ばあきれながらも、うなずき返した。
「うん。ちゃんと自分の心を理解したほうが、いいよ。
で、私はハ──和彰のことを、さらっと呼べるようにするからね?」
和彰は未だ変わらずに、自ら師と仰ぐ下総ノ国の神官である賀茂愁月のもとに通い、教えを乞うていた。
もっとも、和彰から聞いた話からすると、愁月がもつ蔵書を片っ端から読みあさり、和彰が疑問に思ったことに愁月が答えるという図式らしいが。
(正直、複雑っちゃ、複雑なんだけどね)
和彰を出世の道具にし、また、咲耶に追捕の令を下した国司・尊臣の忠実な官吏だという、愁月。咲耶の印象は、最悪なものでしかない。
そして、顔を合わせた時に見せたあの、何もかも先を見越しているような、得体のしれない微笑みと眼差し。腹の読めない男だということだけは、間違いないだろう。
(でも、ハ──和彰の親代わりみたいな人っていうのは、どうしようもない事実だし……)
どのような経緯かは知らないが、和彰を育て、和彰自身からも信頼を得ている。和彰は愁月のことを多くは語らないが、彼の言葉の端々から、そうと窺うことができた。
ちなみに、以前は一緒にしていた寝所も、いまの咲耶と和彰は別だった。これも、和彰によれば愁月からの助言らしく、
「時が来るまで、寝所は別にするといいと、師に言われた」
と、あっさり咲耶に告げて、和彰は咲耶と共寝をしなくなっていた。
その代わりなのかどうか、床に就く前、和彰が咲耶の部屋を訪れるという奇妙な習慣が始まったのだが。
(時が来るまでって、いったい、なんの『時』なのよ?)
咲耶の考えすぎかもしれないが、自分たちの進む道を、愁月がお膳立てしているような気さえしてしまう。何か、意図的なものを感じるのだ──。
「姫さま、よろしいですか?」
ふいに椿から声がかかり、咲耶は我に返った。あわてて、それまでしていた作業をやめ、うるし塗りの小箱に手にした『物』をしまう──椿に見られては、まずいのだ。
「えっと…………はい、どうぞ」
「失礼いたします」
咲耶の返事を受けて、椿が室内に入ってくる。
昼前のいまは、普段なら“市”と呼ばれる場所に食材や日用品を買い出しに行っているはずだが、今日はまだ、屋敷にいたようだ。
「国司・尊臣様からの使者どのが、姫さまに目通りを願われていますが、いかがなさいますか?」
「………………え?」
椿の言葉に、咲耶は顔をしかめた。
先ほど玄関の方角から人の話し声はしていたが、まさか来客だったとは。てっきり眷属たちの誰かと、椿が話しているのだろうと思い、気にもしなかったのだ。
しかも相手は茜いわく「尊臣っていう『面倒ごと』」の使者だという。
咲耶は一瞬、仮病を使うことも考えたが、花嫁は神籍にある以上、なかなか病気になりにくい。すぐに嘘と分かる口実は、使わないほうがいいだろうと思い、考えを改めた。
「用件は何か、訊いてる?」
「いいえ。姫さまに、まずは目通り叶えばと、それだけにございます。あいにく、わたしのような身分の者が、国司様の使者どのに深く尋ねるのは、失礼にあたるかと……」
申し訳なさそうな椿の様子に、咲耶は心を決める。
しっかりしているとはいえ、年端もいかない少女に、国司の遣いと渡り合えというのは酷だ。客間で待つという使者に会うため、咲耶は重い腰を上げた。
「お初にお目にかかり、光栄にございます、白の姫君。私は、尊臣様の乳兄弟で側仕えをしております、虎次郎と申します」
柔和な笑みで咲耶を見て軽く会釈したのは、年の頃は二十代後半くらいの男だった。漆黒の長い髪を高い位置で結び、あまり派手ではないが、仕立ての良さそうな直垂姿をしている。
「えっと、あの……見ての通り、かなり歳くってますので、姫って柄じゃないですけど……。
松元、咲耶と申します」
居心地の悪さに、本音が先に口をついて出てしまう。そんな咲耶に、虎次郎と名乗った男が小さく笑った。
「いえ、噂で聞くよりも、ずっと愛らしい面立ちで、けれども、芯のある女性とお見受けいたします。姫君と、呼んで差し支えないかと」
(──ヤバイ。寒い……)
こちらの季節は、確かに冬を思わせる肌寒さになっていたが。表情から察するに悪気はなく、社交辞令だとは解るが、咲耶にとってはいたたまれない修飾語であった。
「それで、ええと……。今日は、どのようなご用件でいらしたのでしょうか?」
これ以上の美辞麗句を並び立てられる前に、本題に入ってもらおうと先をうながす。
すっ……と、虎次郎の顔つきが、神妙なものへと変わった。咲耶に対し、ひれ伏すようにして頭を下げてくる。
「まずは、我が主が行った先の追捕の令に際してのご無礼を、心よりお詫び申し上げます。早まった行いであったこと、主共々、深く恥じ入っておりますので、寛容なお心で赦していただければ有り難く存じます」
伏したまま届く声音はくぐもっていて、やわらかな口調ながらも反省の意は伝わってきた。咲耶としても、謝意を示す相手に向かい、とやかく言うつもりはなかった。顔を上げて欲しいと、声をかける。
「……やはり、白の姫君は常人とは違われますね。実は、主の命とはいえ、こちらに伺うのもはばかられる身なれば、お目通りも叶わずに追い返されることも覚悟して参ったのですが……。
なかなかどうして、お見かけ通り優しく清らかな姫君であらせられる」
ホッとしたように表情を和らげたのもつかの間、虎次郎の口からは咲耶を持ち上げる言葉が、よどみなく出てくる。
(ナニこの人、どこの太鼓持ち芸人!?)
咲耶は今度こそ、叫びだしたいくらいのこそばゆさを感じた。が、咲耶のふざけた内心に反し、虎次郎の容姿は、つり目ぎみのすっきりとした顔立ちの美丈夫だ。
「ああああのっ、まずは、ということは、他にも何か、あるんですよね……?」
生まれてこの方、美形の男に正面きって褒められた経験がない咲耶は、動揺のあまり声がうわずってしまった。世辞と解っているだけに、自ら茶化して平静を装うつもりが、失敗に終わったのだ。
そんな咲耶の心中をよそに、虎次郎は咲耶に対し、とんでもない要求を突き付けてきた。
「率直に申し上げれば──これから私と共に、大神社に出向き、主に会っていただきたいのです。できるだけ、内密に」
咲耶は、虎次郎を客間にとめおき自室に戻って眷属たちを呼び寄せた。
「……って言ってるんだけど、どう思う?」
「どうもこうも、内密にってのがあからさまに怪しいだろ。つか、旦那のいない時を狙って来たみたいで、気分ワリぃし」
即座に応えたのは赤虎毛の甲斐犬・犬朗だった。頭の後ろで腕を組み、面白くないといわんばかりに鼻を鳴らす。それに同意しながら、タヌキ耳の少年・たぬ吉が、ちらりと上目遣いで咲耶を見た。
「あ、あのっ、会うだけでいいのなら、ボクが咲耶様に変化して、行ってきましょうか? そうすれば、良からぬ策をめぐらされても、未然に防げますし……」
最初に会った頃よりも、どもり癖のなくなってきた たぬ吉に対し、咲耶のひざ上で甘えるように寝そべるキジトラ白の猫・転々が言った。
「んー、でも、下手な小細工して国司さまの機嫌を損ねるのは得じゃあない気もしますよ? あたいら眷属は、付いて行っちゃだめだって、言いなさってるんですか?」
「一応、お供は少数で、とは言われたわ。目立たないようにって釘も刺されたから、影に入ってもらうか隠形で付いてきてもらうかに、なると思うけど」
尊臣は、少数の取り巻きを連れて大神社に滞在しているだけなので、咲耶のほうも仰々しい来訪は避けて欲しいとのことだった。
「尊臣は一体なんのために、咲耶サマに会いたいって言ってきてるんだ?」
「まぁ、本当かどうかは別にして、私に正式に謝罪したいってことだけど」
「……胡散くせぇな」
「だよね?」
犬朗が鼻にしわを寄せ、咲耶も苦笑いで応じた。
茜や闘十郎が話す尊臣像と「花嫁の首をすげ替えろ」発言を思えば、虎次郎を通じての申し出は、すぐには信じがたい。そんな咲耶と犬朗の会話に、転々がくるんと身体を丸めながら口をはさんできた。
「心配するのも無理はないですけどね、お三方。よく考えてご覧なさいな? いまの咲耶さまに害を為す必要が、いったいどこにあるって言うんですかね?」
尊臣は神力が扱える花嫁を望んでいたはず。手のひらを返して咲耶を大事にすることはあっても、その逆はあり得ないだろうというのが、転々の考えだった。
「……利用する価値はできたってコトか」
「け、犬朗さんっ、そんな言い方は……!」
耳の後ろをうっとうしそうに掻きながら犬朗が言ったのに対し、たぬ吉が声をあげた。身も蓋もない物言いを責めただけで、たぬ吉も同様に思っているらしい。
「問題は、どういう利用の仕方を考えているかってコトなんだよな」
独りごちたのち、犬朗は小さく息をつく。
「……しゃーねぇな。俺が隠形で付いて、タンタンが影に入る。テンテンは、念のため犬貴にこの件を伝えてくれ──ってな感じで、どうよ、咲耶サマ?」
実質、眷属たちのまとめ役のようになってしまっている犬朗が、最終判断を仰いでくる。咲耶は気が進まないながらも、遅かれ早かれ尊臣と対面することになる覚悟はしていたので、うなずいてみせた。
「うん、そうしよう。じゃ、みんな、よろしくね」
咲耶の了解を得て、うなずき返す眷属たちを見ながら、咲耶の胸のうちにはひとつの拠り所もあった。
(まぁ、転々の言う通り、殺されるとかはあり得ないと思うけど。ヤバそうだったらハ──和彰を呼べばいいんだもんね)
──『想う』だけで気持ちが『届く』存在になった相手。以前、そのように百合子が言っていたことと合わせ、和彰本人からも、
「お前の身に何かあれば必ず駆けつける。危ういと感じた時は、すぐに私を呼べ」
とも言われている。幸い、そんな機会は今までなかったので、試したことはないが。
(うーん、試してみたい気もするけど、そんな事態にならないのが一番だしね)
複雑な思いを抱えながら、咲耶は正装である白地に金ししゅうの水干と、黒地に金ししゅうのほどこされた筒袴に着替えた。




