《一》月からの迎えも天に帰る羽衣も、ないからではなくてか?
❖作者より❖
この作品は、日本の歴史的背景を参考にしております。が、用語・様式など本来の意味とは違う単語もあります。
この作品において通用する語句として捉えていただければ幸いです。
神力を得た咲耶への追捕の令は、即日中に撤回された。
また、“治天の君”と呼ばれる陽ノ元の統治者より『正式に国獣ハクコの花嫁として認める』との“宣旨”が下った。
「認めるも認めないも、アンタがハクの花嫁である事実は変えようがないんだけどね。形式にこだわって権勢を振るいたいだけだから、黙って受け取っておきなさい?
拒んで面倒なことになることはあっても、受けて損することはないから」
と、“宣旨”の使者が来る数日前に、セキコ・茜が教えてくれた。
咲耶は、花子である椿に使者を持て成す礼儀作法を習い、丁重に“宣下”を受けたのだった。
「──犬朗、調子はどう?」
西日が差し込む部屋の障子を開け咲耶はためらいがちに声をかける。陽が落ちるのが早くなり、日中でもかなり肌寒くなってきていた。
咲耶とハクコの眷属のうち、追捕の者らを引き寄せる囮となった転々と たぬ吉は、うまく逃げられ無傷であった。
しかし、神獣であるコクコ・闘十郎と、その花嫁・百合子を留めおくために力を奮った犬朗と犬貴は、無傷というわけにはいかなかった。
犬貴は全身傷だらけの血まみれ姿でいて、咲耶は卒倒しかけたが、すぐに自らの神力によって助けられることをさとり、力を尽くした。
だが、次に向かった犬朗のもとにたどり着いたときには貧血に似たような症状に見舞われてしまい、瀕死の重傷を負っていた犬朗に対し、充分な治癒をほどこせなかったのだ。
「もう大分いいぜ、咲耶サマ? だから、そんな顔しないでくれよ」
屋敷の一室をあてがわれた犬朗は、居心地が悪いといわんばかりに部屋の隅で壁に身体を預けたまま、隻眼で咲耶を見上げた。
部屋の中央には椿が整えたであろう布団が、使われた様子もなく敷かれている。咲耶は眷属たちの習性のようなものをすべて知り得ていないため分からないが、ひょっとしたら床に就くことはないのかもしれない。
「……やっぱり、こっそり治しとくってのは、駄目かな?」
「勘弁してくれよ、咲耶サマ。それじゃ、せっかく治してもらっても意味ないぜ。ハクの旦那に殺されちまう」
苦笑いの咲耶に、言葉通り大分よくなったと見える右の前足を上げ、犬朗は冗談っぽく自らの首をちょんと叩く。このひと月ほどのあいだ、幾度となく交わされた会話だった。
「でも……神力が遣えるようになったのに、なんか歯がゆいっていうか……」
犬朗が負傷したのは、もとはといえば、咲耶を逃がすためである。それを思えば、咲耶が責任をもって犬朗の身体を元の状態に戻してやるのが筋ではないかと、咲耶は考えた。
「──勘違い……しちゃ、いけねぇよ、……咲耶サマ?」
犬朗が、思うようにならない身体の位置を変えようとしているのを見てとり、咲耶は手を貸してやる。軽く礼を言って、犬朗が続けた。
「あんたの神力は、本来はこの下総ノ国の民のものだ。
俺たち眷属が、あんたや旦那のために力を尽くすことはあっても、その逆は、ねぇんだよ。……あっちゃ、なんねぇのさ。
ほどこすべき相手を、間違えちゃいけねーよ?」
やんわりとした口調で犬朗が咲耶をたしなめる。
ハクコ──和彰は、犬朗に治癒を行う最中めまいを伴った咲耶を見て、
「お前の身体に害を為す神力なら、扱うな」
と、めずらしく顔をこわばらせて止めた。
直前に治癒をほどこした犬貴には、
「咲耶様。私のようなモノのために、稀有なお力を、二度とお遣いになりませぬよう。どうか、これより先は、捨て置きくださいませ。放っておいても時が経てば己の力で治せるのですから」
と、困ったように諭されてしまった。
もちろん、双方、咲耶の身体を心配した言葉であるのは、尋ねずとも分かる。彼らなりの咲耶に対する気遣いが違う形で出ただけだろう。
だが犬朗が言ったのは、そういった部分を切り離した、咲耶の“役割”の真を問う話だった。咲耶は和彰と犬貴の態度に、釈然としないものを感じていたのだが……その正体が、これだったのかもしれない。
(確かに……勘違い、してた)
咲耶の身のうちに宿った神力は、本来は『白い神の獣』であるハクコ・和彰が象徴する力だ。咲耶は、それを代行する存在にすぎない。
つまり──私欲で扱ってはならない力なのだ。それがたとえ、大切な存在を救うという、純粋な想いからなるものだとしても。
(公の……公平にほどこすべき力だってことなんだよね、きっと)
考えだすと、かなりややこしい立場になってしまったようで、咲耶は大きな溜息をついた。そんな咲耶の耳に、犬朗のかすれた声が響く。
「でもって、もひとつ勘違いしちゃなんねーのはさ」
咲耶の目の前で、犬朗が前足の指を一本立て、いたずらっぽく振ってみせた。
「俺も犬貴も、咲耶サマが必要以上に気にかけてくれているのは、すげー嬉しいんだって、コト。
──知ってるか?
俺ら眷属には、その『想い』だけで、かなりの『力』が与えられているんだ。だから、何もしてやれないだなんて、自分を責めっこナシだぜ?」
咲耶は思わず、犬朗のひざ上に顔を伏せた。こらえてきたものがあふれて、止まらなかった。頭上から、犬朗のぼやき声が聞こえてくる。
「──やべぇよ、咲耶サマ。ソレ反則。旦那に、なんて言い訳すっかなー……」
“証”のある右手が、犬朗の、まだ完全に癒えぬ身体に触れて。咲耶は犬朗の言葉通り、その想いによって、彼の身体を治してしまったのだった……。
「──……夕刻、お前の『気』の乱れを感じた。何があった?」
燈台の薄明かりだけが頼りの室内。咲耶から離れた唇が、低く問いかけてくる。
ちょっと笑って、咲耶は応えた。
「私が浮気してるとでも思ってんの? ハ……和彰ってば、意外に嫉妬深い?」
ずっと呼び続けた『仮の名』から『真の名』への移行が思うようにならず、咲耶は、いまだ慣れていなかった。……多少、名前で呼ぶ気恥ずかしさも、手伝ってはいたが。
「お前の言うことは、時々理解に苦しむ。私が訊いているのは、お前の『気』を乱した原因だ」
咲耶は、自分の吐いたつまらない冗談に、軽く落ち込む。言いたくないから茶化した咲耶に対し、和彰は突っ込むわけでもなく、正論で切り返してきたからだ。
「…………怒らないで聞いてよ? ……犬朗、治しちゃった」
告げた瞬間、息をつかれた。あきれるというより、得心がいったという表情だった。
「……そうか」
わずかなのちに相づちをうった和彰に、今度は咲耶のほうが納得がいかない気分になる。
「怒らないんだ?」
ホッとしたのと同時に、ほんの少しの不満が、咲耶のなかに芽生えた。和彰が以前、咲耶に見せた顔を思い、今まで犬朗を治すのをためらっていたからだ。
(なんだ。こんなことなら、もっと早く犬朗を治してあげれば良かった)
自らの右手の甲を、そっとなでる。
神力を扱う際、白い痕のある右手に意識を集中させることにより力を発動させられることは、犬貴を治癒させた時に気づいた。
和彰の時は無我夢中で真名を呼ぶことと、傷口から流れ出る血を一刻も早く止めたくてした行いだったのだが。結果的には、それが功を奏した。
「──お前の行動を御することはできても心までは制することはできない」
抑揚なく和彰が告げた内容に、咲耶は顔を上げた。青みがかった黒い瞳に翳が差しこみ、咲耶に憂いを伝える。
「私が側にずっと在れば、お前に害をなす行動を止めることはできるが、お前は人だ。自分の考えや想いに基づいて、自分の思うように動く。始終、側に在れない私には、お前の心の動きまでは止められない」
重ねられた言葉に、苦笑いする。
(……相変わらず、理屈っぽい……)
咲耶が無茶するのを止めたい気持ちはあっても、咲耶が咲耶の思いによって行動するなら、その『思い』は尊重したいと、そういうことなのだろう。
「今のお前の『気』からは、不調は読みとれない。ならば、それでいい」
原因が分かれば納得できる、と。そう言いながらも和彰は何かを思うように、咲耶を見つめたままでいた。
「なに? まだ何か、あるの?」
「──お前は、元々は、この世界の人間ではない」
返された事実に、咲耶は首をかしげた。
「うん。だから?」
「私はお前に、この世界に留まって欲しいと、願った。けれども、人は本来、己の在るべき場所に戻りたいと思うものだ。違うか?」
「……私が、元の世界に戻りたくても戻れなくなったことを、悔やんでるんじゃないかって、意味?」
仮の花嫁であるうちは、容易に戻れるはずだった。しかし、和彰の名前を呼べる呼べるいまは、咲耶は名実ともに花嫁である。そう易々と、元の世界に戻れない存在となってしまった。
和彰は、否定も肯定もしない。咲耶の心を見据えるように、咲耶に視線を合わせたまま、じっとしている。
「私、和彰にお願いされたから、ここにいるわけじゃないわよ?」
偽りもなく、それが咲耶の本心だった。和彰のほうも、それを解っていると思っていたのだが……違ったらしい。
「私は、私の意思で、この世界にいるの。椿ちゃんや私たちの眷属……それに」
とん、と。咲耶は軽く、和彰の袿の胸もとを叩く。
「和彰。あなたが、いるから……ここに残るって、決めたのよ?」
上目遣いに見て、小さくなる声を振りしぼるように言えば、和彰のとまどったような無垢な瞳が、咲耶の目に映る。
「──月からの使者の迎えも、天に帰る羽衣も、ないからではなくてか?」
和彰の口から出た言葉に、咲耶は目をしばたたく。
(えっと。それは、竹から生まれた姫の物語とか、海辺に降り立った天女の伝説とかを、なぞらえてる?)
自分のような者が姫や天女と同列に扱われるのは、気恥ずかしさを通り越して、何やら宇宙人との交信を思わせるとんちんかんぶりではあるが。
和彰の真剣な眼差しに、咲耶は笑いをこらえた。同時に、こんな自分に対し、そのような想いを抱いてくれる目の前の神獣の化身に、愛しさが募る。
咲耶は腕を伸ばして、和彰を抱きしめた。
「うん。月からの迎えが来ようと、羽衣が手に戻ろうと、関係ない。何があっても、和彰の側にずっといるから、安心して?」
「──分かった」
短く返された言葉は素っ気なく、抑揚もない。けれども、咲耶の背に回された手指と肩ごしに感じる息遣いが、和彰のぬくもりを伝えてくる。
(私ってば、なにこんなに愛されちゃってるの?)
和彰が寄せてくれる想いが、くすぐったいほどに胸をおどらせる。思わず、自分で突っ込んでしまうくらいに。咲耶は、よりいっそう和彰と二人でいられることの幸せを、実感するのであった。




