《十》貴女様なら、必ず御名をお伝えできると信じております。
森を抜けた頃には、陽はすっかり昇っていた。
闘十郎が追ってくる気配はなく、咲耶は岩壁をよじ登っていた。岩をつかむのは咲耶の素手で、所所にある出っ張りやくぼみに足袋の足がかかる。
やがてたどり着いた先──。
長い黒髪をたなびかせ、はためく中華風の着物から、白くなまめかしい脚を出した美女が立っていた。
「闘十郎は、あとから来る追捕の者らに、お前の身を預ける気でいたようだな。……昔から、妙に手ぬるい男で困る」
体勢が整わぬうちに、百合子の手刀が咲耶を襲う!
かわす身が、後方にある先ほど登ってきたばかりの崖下に、おどりかけた。ぐい、と、咲耶の袂が引き寄せられる。
「結局──『お前も』私が葬るはめになるとはな。ハクの花嫁は、本当に不運だな」
百合子の顔が近づくと、彼女の一方の上向いた手指の先が、咲耶の目の前で肉食獣を思わす鋭い爪へと変貌する。
「せめてものよしみに、一撃で心の臓をえぐり出し、あの世へ送ってやる。それが、多少なりとも関わってしまった、お前へのはなむけだ」
「やめて、百合子さん!」
咲耶の叫びは懇願ではなかった。やりきれない想いの果ての怒りが、強い拒絶となって表れたのだ。
なぜ、この世界で知り合い、同じ境遇にある者同士が、憎しみでもなく利益を得るでもなく、殺し殺されなければならないのか。咲耶のひるまない眼差しが、優位にあるはずの百合子の心を、髪の一筋ほど迷わせたようだった。
──短く、犬貴が叫ぶ。
『“真空、裂破”!』
咲耶の右手が、上がりざま、百合子の左半身をかすめる。一瞬のち、血しぶきがはねた。次いで、咲耶の右足が、百合子の右横腹の辺りを蹴り飛ばす。
小さくうめく百合子の身体から、反動で咲耶は横に飛びのいていた。そうして、百合子との距離を置く。
「……なるほど。犬貴と言ったか? ハクがお前以外の眷属をもたずにいても、事足りると勘違いしていたのもうなずける。咲耶の影にありながら、これだけの“術”が遣えるのだからな。強力な『もののけ』だ」
左肩から布が裂け、あらわになった二の腕から血をしたたらせ、百合子が笑う。妖艶な微笑は、どこか状況を楽しんでいるようにも見えた。
「手加減は無用ということだな?」
乱暴に片そでを破り、百合子は、裂いた布で腕の付け根を縛り上げる。瞬間、咲耶の身体が脱力感に襲われた──犬貴が、咲耶の影から抜け出たのだ。
「しばしのお別れにございます、咲耶様。貴女様なら必ずやハク様に、御名をお伝えできることと信じております」
支えられた身体に、犬貴の声がかかる。次いで、ふわり、と、咲耶の身体が宙に浮く。
「東風よ、この御方を彼の地へ」
言葉と共に咲耶は、暖かく優しい風につつまれていた……。
気づいた時、咲耶の側には、犬貴も百合子もいなかった。空は青く、手を伸ばせば触れられそうに近くに感じる。おもむろに咲耶は身を起こした。
遠目には、うっそうと生い茂る木々が濃い緑となり、固まって見えた。そこから一本の細い道が、咲耶のいる場所にまで続いている。
(転々もタンタンも……犬朗も犬貴も……いなくなっちゃったな)
手も足も、鉛のように重い。全身が気だるくて仕方なかった。それでも咲耶は、自分の進むべき道を見据えるため、立ち上がる。
視線を転じると、そびえ立つ岩山の手前、咲耶のいる所より少し先が、切り崩したような崖になっていた。ここで、行き止まり──。
咲耶は、茜の助言を思いだした。
「目に見えるものは、信じちゃダメよ? 見えないものが、そこに存在すると、信じること」
まるで謎かけのようだ。地図も、あいまいな位置関係しか記されておらず、口頭の説明はさらに難解で。正直、自分が神獣の里にたどり着けるかどうか、不安だった。
だが──。
犬貴は茜がくれた地図を、目にしてはいなかった。にもかかわらず「彼の地へ」と言って、咲耶を送りだしてくれた。
(犬貴は神獣の里を『知っていた』んだ)
信頼に足る眷属は、情報規制が多すぎる。咲耶のためを思ってのことと考えていたが、それとは別の部分で、ハクコですら知りえない『何か』秘密を握っている気がした。
けれどもいまは、そのことは二の次だ。この行き止まりに見える先、いや見えない先。
そこに神獣の里の『入り口』が存在するのではないかと、漠然と咲耶は感じていた。「行けば自ずと分かる」と告げた茜の言葉にも、通じる感覚だった。
足を踏みだすと、身体中の関節がギシギシと音を立てるようにきしむ。犬貴に影に入ってもらい、日常ではあり得ない動きをしていたために、肉体が悲鳴をあげているのかもしれなかった。
(完全なる運動不足だよね。身体、少しは鍛えておけば良かった)
情けない思いを抱えながらも、一歩ずつ、ゆっくりと、咲耶は崖に向かった。
雲が下に見えるほどの標高にいるのが分かる。天上から身を投げるようなもの。麓が見えないほどの高さ。
咲耶は、眼下にある景色を前にして、急に足がすくんだ。高所恐怖症なのだ。
(見えないものを、信じる──)
頭のなかで、繰り返す。しかし、一向に恐怖がぬぐいきれない。逡巡する咲耶の耳に、馬のいななきと蹄の音が近づいてきた。振り返れば、弓矢をつがえた者が馬上に見える。
「ハクコの『仮の花嫁』、松元咲耶だな? この場で射掛けられるか、手順を踏んで処刑されるか、選べ!」
狙いを定め咲耶に問う騎馬の男に、内心で突っ込む。
(なによ、その救われようのない二択ッ)
そして、もうひとつの選択肢は崖に向かい一歩踏みだすこと──どの道、命がかかっている。ならば、茜の言葉と自身の直感を信じるより他はない。
ふたたび咲耶が、前に向き直ろうとし身体をひねりかけたと同時に、矢が放たれる。視界の端で捕えた咲耶は、矢よりも速く、自分に向かってくる白い軌跡をも捕えた──!
傍から見れば、咲耶は第四の死に方を提示されたようなものだった。美しい白い毛並みの猛獣が、咲耶に襲いかかるようにして、覆いかぶさったのだから。
『──咲耶、待たせた』
素っ気ないほど飾り気のない言葉が、咲耶の『内側』で響く。
一瞬にして咲耶の胸に、熱情が宿った。こみあげる激しい想いに身を任せるように、両腕を上げ、白い獣の首の後ろに回す。
「ハク……待ってたよ……!」
──そのまま、仮の花嫁と神獣は、奈落の底のような崖下へと、落ちて行ったのだった……。
あたたかく、やわらかい被毛に包まれた自分を実感するのは、何日ぶりだろう。
咲耶は、このままずっとまどろんでいたいと願い、腕を下ろし、楽な体勢をとろうとした──その手に、ヌルリとした、嫌な感触を覚えるまでは。
夢心地から一転して、目を開ける。
崖から落ちた瞬間、どこかで、死んでもいいと思った自分がいた。
死んでもいい、もう何日も会うことのなかった自らの半身のような存在と、ふたたび出逢えたのだから。あの刹那、死への恐怖をはるかに越える想いが、咲耶のなかに灯ったはずだった。
「ハク!?」
その想いの果てが目の前のハクコの姿だとしたら、思いもよらない結末だとしか言い様がない。
激しく上下する、腹部。閉じられた、青いはずの瞳。わずかに開かれた口もとから、舌と牙がのぞき、苦しそうにあえいでいる。
いつかの朝のように咲耶の下敷きになっているハクコは、しかし今は、獣の姿でいて。薄い黒の縞模様がある背中から、白いふさふさとした胸にかけて、一本の矢に貫かれていた。
「ハク!!」
馬鹿のひとつ覚えのように、咲耶は彼の仮の名しか叫べない。
白い毛並みを染めあげる、赤い色。
荒くなる呼吸。
……何がなんだか、分からない。
『死ぬぞ』
突然その声が、咲耶の耳に入ってきた。年若い女の声だった。
急に聞こえてきた声の正体よりも、咲耶の脳内は放たれた言葉に反応し、事態の終息に努めようとする。
(矢……は、抜いちゃマズいんだっけ?)
刺さっている箇所にもよるだろうが、抜くことにより大量の出血が考えられる。しかるべき処置ができるまで、圧迫するのが良かったのではないか。
そこまで考えて──咲耶は、絶望する。この世界には、救急車も病院もなく、医者……獣医師も、いない。
『なぜ手をこまねいておる。そなた、白い花嫁ではないのか』
あきれたような物言いに、咲耶はハッとして辺りを見回した。
穏やかな木漏れ日が差し込む、森のなか、だった。木々に被われているわりに陽当たりが良いのか、小さな草花が、そこかしこに咲いている。
こちらの季節は、そろそろ冬にさしかかるような秋の気候に思えたが、咲耶がいまいる場所は、なぜか春を思わせる暖かさだ。
(ここが神獣の里なの……?)
気にはなったが、いまはそれどころではないと、咲耶は頭に浮かんだ疑問を打ち消した。声のしたほうを、振り返る。
「どなたか知りませんが、傷の手当てができる方を、呼んできてもら──」
そこにいたのは、人の姿はしていても半透明な存在だった。
(なんでよりにもよってこんな時に、あからさまに妖しいものに声かけられちゃったのよ、私!)
見ないふりをすることも考えたが、懐から布を取り出しながら咲耶は言葉をつなぐ。この際、選り好みはできない。
「お願いします! 誰か、傷の処置ができる方を、寄越してください!」
矢じり側の傷口を圧迫するように押さえつけながら、白い煙のような若い女に向かい、懇願する。
女が、笑った。
『何を申すかと思えば。そなた、白い花嫁であろう? なぜ己にできることを他人任せにするのだ』
「あの、私にできるくらいなら、最初から頼んだりしてません。お願いします、早く……!」
『笑止な。妾はそのような戯れ言を聞くために、ここに居るわけではないぞえ?
なんと薄情な花嫁か。憐れなものよ。その“神の器”は、もう、もたぬぞ』
女の指が、虫の息のハクコを差した。
咲耶は我に返って、手の下のハクコを見つめた。すでに布は、意味をなさないくらい、ぐっしょりと血で濡れている。
どうしていいのか、解らない──いや。
「ハク──」
呼びかけて、違う、と、つぶやく。それは、彼の真実の名前ではない。
そして、いま呼びかけて伝えなければ永遠に彼を失ってしまう。女の言葉が意味するのはハクコの『肉体の死』なのだろうと、咲耶は気づく。
でなければ、息も絶え絶えな白い獣の身体から、流れ出る血の説明がつかない。これは文字通り“神の器”なのだ。
「お願い、血、止まって!」
強く押さえつける指の間を、無情にも流れ続ける鮮血。咲耶は何度も何度も、お願い、と、声に出す。頭にはハクコの真の名が浮かんでいた。
(届いて、お願い──)
声にならない、叫び。
心から呼びかける、真名。
(あなたの、名前は)
魂が乞う、愛しい響き。
夢のなかで幾度も繰り返した、呼びかけ。
ドクン、と、強い脈動が、咲耶の手に伝わる。それを境に、ハクコの上下していた腹部が止まった。
……止まって、しまった。
(いや、ダメ、止まらないで……!)
完全に動きを止めた姿に、咲耶は現実を直視できずに思考を停止しかけた──次の瞬間。
グルル……グルル……という、規則正しい、獣がのどを鳴らす音がした。そして、鼻息がわずかに聞こえた直後、白い獣の肢体が起き上がった。ぶるん、と、その身を震わせる。
『……それが、私の名か』
青い瞳が、咲耶を静かな眼差しで見つめてくる。傍らに、先ほどまで自らの身体を貫いていた矢を、落として。
「身体……もう、大丈夫……なの……?」
『お前の神力で、再生された』
信じられない思いで問いかければ、信じられない答えが返ってきた。
──咲耶の“神力”。
治癒と再生──それが、『白い神の獣』が象徴するもの。花嫁が、代行する力。
『咲耶。もう一度、私の名を呼んでくれ』
白い神獣の鼻づらが、咲耶の鼻先にこすりつけられる。咲耶は、泣き笑いを浮かべた。
「──かず、あき」
初めて口をついて出た名前が、慣れなくて、こそばゆい。そう思った咲耶の頭に、バサッと何かが落ちてきた。
『……在り来たりな名じゃな。だが、まぁよい。これは妾からのほどこしじゃ。受け取れ』
見れば、白い袿で。咲耶はハクコの身体にかけてやった。
「あのっ、あなたは──」
次に咲耶が女のいた辺りを見やった時は、影も形もなかった。……誰、いや、何者であったのか。
疑問に思う咲耶の唇に、何かが触れた。視線を戻せば、袿を羽織った人姿のハクコの指先であった。
「なに……?」
あれほど逢いたかったはずなのに、久しぶりに面と向かえば、気恥ずかしい思いのほうが先に立つ。
上目遣いに見返すと、感情のない美しい顔立ちの男が、いて。自分をまっすぐに見つめていた。
「もう一度、この唇で私を呼べ」
抑揚のない、低い声音。
一緒に暮らすうちに、声の響きのわずかな違いや表情の微妙な変化に、咲耶は気づくようになっていた。……これは、何かに興味を示している時のもの。
「かずあ」
き、と、告げた瞬間、唇をふさがれた。押しあてるように触れて、わずかに離れる唇。
「……もう一度」
ささやく声が、頬に伝わる。
咲耶は、愛しすぎるわがままを叶えるために、彼の真名を唇にのせた。
「和彰」
そうして、自分からも近づいて、今度は心の声として届けられるように、くちづける。
何度も、何度も──。