《八》私の花嫁はお前しかいない。お前以外の者では意味がない。
茜は、咲耶たちのことなどどうでもいいと言っていたが、それでも彼なりの協力を惜しまなかった。神獣の里へ行くための地図と心得を、咲耶にくれたのだ。もとより、咲耶の『逃亡先』を案じていたのだろう。
「──まぁ、ここから出られなきゃ、意味ないんですけどね」
自嘲ぎみに笑う咲耶に、立ち去りぎわ、茜は優しく微笑んだ。
「それでも、待ってるんでしょ? 『彼ら』を。
アタシが得た情報は、猿助を通じてアッチにも届けてあるわ。……アンタにできるのは、信じて待つことだけよ」
ひらひらと片手を振る茜を見送りながら、咲耶は大きくうなずいた。茜の言う通り、咲耶が頼れるのは自分が『約定の名付け』を行った者たちだけだった。
咲耶は、茜と美穂のおかげで空腹と寒さをしのげたことに感謝しながら、自らの眷属の訪れを待った。ところが──。
「……このような所においでになるとは、何か問題でも?」
「いや、あの者の移送前に、一度 結界の強化をしておこうかと思うてな。不浄のモノらに入って来られては、そなたらも困ろう」
「左様でございましたか。お気遣い、痛み入りまする。さすが愁月殿、目配りに秀でておりますなぁ……」
咲耶の閉じ込められた牢に、近づいてくる会話。一人は、この一週間ほど咲耶を監視していた者だろうが、もう一人は──。
(愁月!? ふざけんじゃないわよ、どのツラさげて来やがったっての!?)
尊臣の発案、と、誰かが言っていたが、それは表向きのこと。神現しの宴などという、ふざけた催しを開こうと提案したのは愁月に違いないと、咲耶はにらんでいた。
あの時は、ハクコや犬朗のために場を収めよう、ひとまずは大人しく従っておこうと、愁月の脅しに屈した咲耶だったが。『用済み』の烙印を押されたいま、そんな遠慮は無用だ。
「ハクを、返してくださいっ! つまらない出世の道具になんて、二度としないで!!」
鉄格子をつかみ、近づくふたつの人影に向かって叫ぶ。洞窟内の薄暗さに慣れた咲耶の目に、狩衣の中年男らしき姿が入ってきた。
一緒にいた牢番が、あわてたように言う。
「こ、これ、言葉を控えぬか!
今までは静かにしておったのですが、急に気が触れたようにこのような……。やはり、モノノケに憑かれておるのでしょうか……?」
「可能性はあろうな。そなたはいったん、下がっておれ。あとは私に、任せれば良い」
「そ、そうですな。しかし、先ほどから気になっておりましたが、その籠の中身は、なんですかな?」
「ああ、これは──」
牢番の指摘に、手にした籠を開く愁月と思わしき男。瞬間、
「……っ! ……ぎゃっ……あだ、だ……ひぃっ……や、やめ……!」
鞠のような丸い物体が牢番の顔に張りつく。次いで、鋭い一撃が、顔を覆った男の首筋に加えられた。明るい茶と黒の縞模様の猫が爪で顔を引っかいたあと、飛び蹴りをくらわしたのだ。
「転々! ……じゃ、そっちは……」
不意討ちを受けた牢番にさるぐつわをかませ、素早く手足を縛りあげたのち、咲耶のほうへやってくる人物。雰囲気は愁月を思わせたが、薄明かりに照らされた顔は、愁月よりも人の良さそうな顔立ちをしていた。
「さささ咲耶様っ、遅くなって、申し訳なかったです……! えっと……あのですね、ボクたちは、その……」
「ああっ! 相変わらず、じれったい坊主だね!
咲耶さま、お迎えに来たよっ! 詳しい話は、あとでしますからねっ?
ほらっ、坊主、鍵ッ!」
牢番の腰に下がった鍵をくわえ、転々が愁月に化けたタヌキの坊主……もとい、たぬ吉に放って寄越した。すかさず、たぬ吉が解錠する。……動作は速いのに、口が回らないのはなぜだろう。
咲耶の素朴な疑問をよそに、たぬ吉と転々の連携により、もう一人の牢番も捕えると、咲耶の入っていた牢へと二人を運ぶ。錠をかけのち、眷属たちが咲耶を振り返ってきた。
「じゃ、咲耶さま、行こっか!」
どこに? と、咲耶は尋ねなかった。信じて待った『彼ら』と行動を共にするのに、疑問をはさむ余地などなかったからだ。
転々に咲耶の影に入ってもらい洞窟を出ると、外には澄んだ空気のなか、星空が広がっていた。
たどたどしい たぬ吉の説明によれば、この辺り一帯は確かに愁月が結界を張っていて、犬朗のような強力な『物ノ怪』は入ることすら叶わないようだった。
「つ、強い力をもつモノほど拒むことができる、特殊な結界らしいです……。だから、その……ボクらで咲耶様を、お迎えに来ました。け、犬朗さんなら、もっと早く、咲耶様のもとにたどり着けたんでしょうけど……」
「ううん、そんなことないと思うよ。たぬ吉は、行動力はあると思うし。愁月の声色も、そっくりだったよ?」
いまはタヌキ耳の気弱な顔立ちの少年に戻った眷属は、咲耶の言葉に、はにかんで笑う。
「ええっと……ボク、実は、誰かに化けていたほうが、その、うまく話すことができるっていうか。は、話しやすかったり、するんです……」
「そうなんだ?」
「はい。なんというか、その……その人になりきろうとする気持ちが、はたらくというか……。
あ、咲耶様! そちらじゃなくて、こちらの方向です」
草木が生い茂る道なき道を平すようにして、たぬ吉が咲耶の前を歩き導いてくれる。口調は頼りないが、足取りはしっかりしていた。ハクコは、本当に良い眷属を見つけてきてくれたと、咲耶は思う。
(ハク……)
真実の名を呼ぶより、仮の名で呼びかけることに慣れてしまった存在。当たり前のように、一緒に寝て起きて、食事をして。なのに、この一週間、会うことも声を聞くこともなかった。
(側に行けなくて、ごめんね)
咲耶は胸もとに忍ばせている布を、着物の上から押さえた──契りの儀の時に手渡された、ハクコの真実の名前が記されたもの。咲耶しか読めない、咲耶しか知らない、真名。
「……咲耶様? だ、大丈夫、ですか……? あの……お加減が悪いのでしたら、少し、休まれますか?」
気遣わしげに、たぬ吉が咲耶を振り返ってくる。咲耶の胸のうちで『何か』がキュッと縮こまった気がした……転々も、心配してくれているのだ。
咲耶は浮かびかけた涙をはらうように、大きく息をついて、笑った。
つらい時こそ、口角をあげる。そうして、のりこえなければならない時がある──いまが、その時だ。
「大丈夫。だって、犬朗ひとりを待たせてちゃ、可哀そうでしょ?」
「……そうですね、行きましょう」
いたずらっぽく言ってのける咲耶の真意をくんだように、たぬ吉は相づちをうち、前へと向き直った。
「おっ、咲耶サマ。ちっと見ないうちに、女っぷりが下がったんじゃねーの?」
「──そこは嘘でも上がったって、言っときなさいよ、もうっ」
顔を見るなり告げられた軽口に、咲耶は犬朗の眉間あたりを指先ではじいてやった。
この一週間の絶食における血色具合は、握り飯の一つや二つで補えるほど、甘くはなかったようだ。鏡を見ていないため判らないが、咲耶の肌つやは相当よくないと思われる。
(茜さんが前に言ってた通り、死にはしなくても肌には良くないんだ……ショック)
こんな状況下において、肌の状態も何もないが、一応男性(?)に分類されるだろう犬朗の指摘に、咲耶は溜息をつきながら腰を下ろした。
犬朗と合流した場所は、咲耶がこの世界──陽ノ元に初めて降り立った、あの小さな社内だった。
道すがら、たぬ吉から聞かされたのは、限られた者しか存在を知らないこの場所で、今後のことを話すのが良いだろうと、眷属たちで話し合ったらしい。
咲耶としても、ひとまずは状況把握と問題の整理をつけたかったので、異存はなかった。
「つまり、尊臣とやらが咲耶サマを亡き者にしようとしてんのは、旦那のホントの名前が呼べない──神力が遣えない花嫁は、自分にとって利用価値がねぇからっつうコトなんだよな?」
「そんなの、ハク様と咲耶さまには、関係のないことじゃん! 花嫁をなんだと思ってんのさ!」
犬朗の冷静な分析に対し、転々がガリガリガリーッと、板の間に爪を立てる。
「で、ですから、咲耶様がハク様に御名を伝えられるまで、じ、時間稼ぎをするってことで、いいんですよね? あの……ボ、ボクらが咲耶様を神獣の里に、お連れするって、ことで」
「……だな? けどよ、咲耶サマ。あんた、ホントにそれでいいのか?」
たぬ吉の言葉にうなずいて、犬朗は咲耶から受け取った神獣ノ里までの道のりが記された地図から、顔を上げた。じっ……と、犬貴とよく似た、深い色合いのひとつの眼で、咲耶を見てくる。
「いいのかって……何が?」
「元の世界に戻らなくても、ってぇコトさ。少なくとも、それなら死なずに済むだろ。違うか?」
間、髪をいれずに犬朗が問い返してくる。咲耶の真意を探ろうとする眼差し。
「……私にとって、それが『一番良い選択』なのは、解ってる」
茜は、この世界に留まろうとする咲耶に対し、『正しい選択』と評した。それは、咲耶が人としてする……「人の道においての正しさ」だ。
良識をもつ、と、犬貴が表現した茜の見解なら、そうなる。だが──。
「自分のことだけを考えて、ただ死なないで済む方法ってことなら、確かにそうだけど。
私が死なない限り、ハクに新しい花嫁が召喚できないってことは……私が自分の都合だけで元の世界に帰ってしまったら、この下総ノ国の人たちは、永遠に白い神獣からの恩恵が、受けられなくなるってことなんだよね?
自分の命が危ういからって、自分の責務を全うしない。それは、人の道にもとる行為で、尊臣と同じ利己主義な考え方になってしまう……」
言って、咲耶は肩をすくめた。
「なんて。それは、カッコつけの表向きの理由。本当は……このままハクと会えないままで、元の世界になんて、戻れないから。
──ハクに、もう一度、逢いたい」
告げた唇が、震えた。咲耶の本心から出た言葉は、思いがけないほど咲耶自身を揺さぶった。
「逢いたいの……ハクに。そのためには、生きて、この世界に留まらなきゃ。だから私は、神獣ノ里に、行こうと思う」
まっすぐに犬朗を見つめ返す。それから咲耶は、キジトラの猫とタヌキ耳の少年に視線を移し、最後にもう一度、赤虎毛の犬を見た。
「お願い。みんなの……力を貸して。
いま言った通り、この世界に留まるって決めたのは、私の身勝手な想いからの結論で……あなた達からしたら、私に元の世界に帰ってもらったほうが、都合が良いかもしれない。ハクにとっても……新しい花嫁が来てくれたほうが、良いのかも──」
ふいにわきあがってきたハクコを想う気持ちと、咲耶の個人的な想いにより巻き込むことになる者たちへの、後ろめたい気持ちが、咲耶のなかで葛藤する。言葉を重ねるほどに、揺れ動き、惑う心。
場にいた者たちが、そんな咲耶に対し口を開きかけた刹那──突風が、三畳ほどの狭い板の間を吹き抜けた。警戒する眷属たちにつられ、咲耶も身を構えたが。
「おそれながら、それは間違っておられます、……咲耶様」
室内に響く、落ち着きはらった声音。直後、声の持ち主以外みな、脱力した。
「犬貴!」
あらぬ方向に目を向け犬朗が叫ぶと、そこへ、すうっ……と、薄い煙のようなものが現れた。やがてそれは、咲耶のよく知る黒い虎毛犬へと形を成す。
咲耶を前に、片ひざをつき、こうべをたれる存在。一番初めに、咲耶を主として認めてくれた眷属が、口を開いた。
「咲耶様。お側に参じるのが遅くなり、申し訳ございません」
苦々しい口調は、律儀さの表れ。正す姿勢は、誠実な心を示す。咲耶は、変わらない姿に、胸を熱くしながらひざをつめた。
「犬貴……! 良かった……。身体は大丈夫、だよね……?」
側に寄って顔を見れば、犬貴はどこか、疲れたような表情をしていた。しかし、毅然とした態度で、咲耶の心配を受け流す。
「もちろんでございますとも、咲耶様。それより先程は、聞き捨てならぬことをおっしゃっていましたね? ハク様が、新しい花嫁を迎えたほうが良いのかも、と」
「それは……」
自身の迷う心から出た言葉は、当然ながら本心ではない。あくまでも、客観的な立場からみればそうではないかという、可能性のひとつだ。
そして……この一週間、ハクコと共に過ごさずにいたこと。最後に会ったハクコの瞳に自分が映らなかったこと。それらが咲耶のなかで、ハクコとの間柄を、不安定な結びつきのように感じてしまう要因となっていた。
「咲耶様」
力のこもった眼と声で、犬貴が咲耶を見る。
「私が今、この場におりますのは、ハク様の御心をお伝えするためにございます。
あの方は今、愁月様のお屋敷に居られます。ですが、お身体がまだ、本調子ではないのです。私は、そんなハク様を残し、ここへ……貴女様のもとへと参じました。それは、ハク様が、こうおっしゃったからでございます。
私がハク様の側にいても、できることなど何ひとつない。そうであれば、咲耶様のもとへ行き、咲耶様を護ることが、私の務めだと」
言って、犬貴が目を閉じた。ひと息つく。
「ハク様の“言伝”をお届け致します」
告げた犬貴の口から、直後、犬貴とは明らかに違う声色が、こぼれ落ちた。
『咲耶』
呼びかけてくる低い響きの声は、紛れもなくハクコのものだった。
『咲耶、お前の側に行けずに、すまない。
尊臣様が私に、新しい花嫁を迎えろと言っているようだが、もとより、私の花嫁はお前しかいない。お前以外の者では、意味がない』
ハクコらしい物言いに咲耶は苦笑いを浮かべる。『声』だけにもかかわらず、すぐ側にハクコがいてくれるような気がして、不覚にも涙ぐむ。
『今は、この身が叶わぬが、じきにお前の側に行けるはずだ。……お前の居場所を探ることは私にとって容易い。
先に犬貴をお前のもとへ送る。他の者と合わせ、お前の役に立つだろう。
──忘れるな。
私が欲しいのは名ではない。お前が私に与えてくれる、優しい彩りなのだ。それが私にとって、ただひとつの、かけがえのない『証』なのだから』
犬貴の口が閉ざされ、代わりに伏せられていた目が開き、咲耶をふたたび捕えた。
「お分かりいただけましたか、咲耶様?
ハク様は不自由な御身でありながら、愁月様を通じ尊臣様に向けて、貴女様以外の花嫁はいらぬと拒絶なさっておいでなのです」
咲耶は、涙でにじんだ視界の向こうの犬貴を、驚いて見返した。
ハクコにとって愁月は育ての親で、尊臣はその愁月の上に立つ存在だ。尊臣を『様づけ』し、愁月を『師』と仰ぐハクコが、二人に逆らってまでも咲耶を自分の花嫁と位置づける。それが、何を意味するのか。
咲耶は、一瞬でもハクコの真意をいぶかしんだ自分を、恥じた。同時に、惑う心に終止符をうつ、決意をもらう。
「……犬貴。さっきの話、まだ続きが、あるの」
指先でもって、目もとをぬぐう。言葉につまりながらも、咲耶は眷属たちに向かって微笑んだ。
「ハクコにも、あなた達にも、迷惑な話かもしれない。
でも。
──もう一度、言うわ。
私には、あなた達の力が必要なの。お願い、力を貸して。私を、神獣ノ里にまで、連れて行って、欲しい」
迷いの一掃された主の願いに、居並ぶ眷属たちは一斉に声をあげた。
「仰せのままに──!」
咲耶の言葉を待っていたと、いわんばかりに。