《七》神現しの宴──そなたは未だ、ハクコの名を呼べぬと見える。
月明かりのもとに現れた、神の獣。
白い毛並みに薄い黒の縞模様の、気高き虎──にもかかわらず、その高潔さを汚すかのように首にある枷の、なんと忌まわしいものか。
咲耶は、怒りと悔しさと悲しみがない交ぜになったまま、舞殿の階段を一気に駆け上がった。
『神』と謳いながら枷を付けることへの憤りを抱え、何も知らずに『宴』に参加しようとした自分の浅慮を悔やみながら。『現』の見世物とされてしまった、ハクコに近寄って行く。
「ハク……! ちょっと待っててね。いま私が、こんなの外してあげるから……」
たどり着いた先にいる優美な獣は四肢を折り曲げ、じっとしている。契りの儀の時よりは成長し、体つきも成獣に近づいてはいるが、やはり成長途中の感は否めない。
青い瞳をのぞきこむが、そこからはなんの意思をも見当たらなかった。
「ねぇ、ハク……どうしちゃったの? 私が、分からない?」
いつものように自らの内側で響く声を期待し、問いかける咲耶の二の腕が、ぐいとつかまれた。
「神現しの宴を中断させ、尊臣様の御前を汚した咎にて、そなたを拘束する。おとなしく──」
一瞬前まで咲耶を見下ろしていた男が、階段を転げ落ちる。代わりに、かすれた声音が咲耶の耳に届いた。
「うちの姫サマに気安く触んじゃねぇよ。俺が椿チャンや犬貴に、怒られんだろーが」
次いで、苦笑いへと変化した声の持ち主が、咲耶を隻眼で捕える。
「つーか、咲耶サマ? ムチャするときは、ひと声かけてくんねぇかな?」
ちら、と、舞殿の下方に目を向け、咲耶を捕えるために集まりだした者たちを見やり犬朗が言う。
「とりあえず、ここはバックレるしかねぇな。連中の『気』は、俺がそぐ」
犬朗の左前足が上がって、器用に立てられた指先が、咲耶の手首の数珠を突く。バチッと、静電気を思わす火花が散ると同時に、数珠玉が弾け飛んだ。
「テンテン、咲耶サマと一緒に屋敷に戻れ。……できるよな?」
犬朗の言葉と共に、咲耶の視界が広がる。先ほどまではざわめきでしかなかった『宴』に集まった人々の声が、はっきりと咲耶に届き始めた。
「検非違使は何をしておる! 早くあの者らを捕らえぬか!」
「尊臣様発案の宴を汚すとは……言語道断でございますな! 即刻、極刑に処すべきでございましょう!」
「物ノ怪も出現しておりまする……。早よう、なんとかしていただけませんかな、愁月殿……」
あちらこちらからあがる非難と怒声を、ひとつひとつ取りあげるように咲耶の耳が正確に拾う。いままでにない聴力は『眼』と同様に、転々の『耳』によるものだろう。
(──愁月、って……!)
呼びかけられた名前に、咲耶が振り返るか、否か。他の者とは違い、騒ぎに動じた様子のない声が、咲耶の耳をうった。
「おのおの方、静まれよ。それこそ、尊臣様の御前でございますぞ。あれは、眷属と呼ばれるモノ。主に仕えるモノなれば、いたずらに騒ぎ立てるは、かえって刺激することとなりましょう」
たしなめる口調と声色には、聞き覚えがあった。『契りの儀』直前、咲耶に命運を諭し、終えたのちに咲耶の進むべき道を示した中年の男。
「久しいな、咲耶。そなたは未だ、ハクコの名を呼べぬと見える。
して、この騒ぎ、いかにして着けようか?
年端もいかぬ少女ならまだしも、年嵩のいったそなたが起こした振る舞い。ハクコにも、そこな眷属にも、相応の代償を払ってもらわねばなるまいな。
──して、いかにする?」
あの日と同じ、狩衣姿。眼差しと、得体の知れぬ奇妙な微笑み。
賀茂愁月は、暗に咲耶に対し、自ら捕縛されることを望んでいるのだ。さもなければ、自分が手にした鎖の先の白い神獣と、咲耶の傍らの赤い甲斐犬に、害を及ぼすと。
脅しは、理不尽なもの。咲耶自身、間違った行いではなかったと考える。
しかし──やり方は、まずかった。自分の激情と引き換えに、ハクコや犬朗を、これ以上の不当な目には合わせたくない。
「……この騒ぎの発端は、私です。ですから、責任は彼らの主である私が、すべて負います。どうか、それでご容赦ください」
──自分で蒔いた種は自分で刈る。それ以外の選択肢は、その時の咲耶には、思い浮かばなかった。
(寒い……それに、お腹減った……)
ひざを抱え、咲耶はぼんやりと目の前の鉄格子を見つめた。
ぴしゃん、と、どこかで水音がする。
咲耶が座るのは、岩肌でできた牢獄の一室。……と言っても、洞窟内の小さな空間に鉄の柵を取り付けただけのものであろうが、非力な咲耶では壊せるはずもなかった。
自ら捕らえられたのち、咲耶は桶のなかに押し込められ、気づいた時は、この岩屋の牢に入れられていたのだ。
愁月の言葉に従おうとする咲耶に犬朗が抗いかけたが、咲耶は主命でもってそれを止めた。舞殿を立ち去る際、どのような呪かは知れないが、転々も咲耶の『影』から切り離されてしまった。
(さっき灯りを替えに来てたから……あれから一週間くらいは経ったのかな?)
鉄格子の外に置かれた灯火が、外界から遮断された咲耶が時間経過を知る唯一の手段だった。
咲耶を監視している役人風情の男らが、交替制で灯りをくべている。その間隔から察するに、二人が交互に来て昼夜二回ずつとし、ほぼ一日と考えられた。
(私の身体……本当に変わっちゃったんだな……)
こんなふうに飲まず食わずにいて、一週間も生きていられるなど、普通ではあり得ないことだ。ちょっと気力がないだけで身体も思考もいつもと変わらずにいられる自分に、咲耶は改めて神籍に入ったのだと実感させられた。
(ハク……大丈夫だよね……?)
悔しいが、ハクコは愁月の『出世のための道具』にされているのだろうと、咲耶は考えた。それならば、ハクコ自身に危害が加えられることはないはずだ。
ただ、ハクコの様子が尋常ではなかったのが気がかりではあった。
(あの愁月って人……なんかイロイロおかしな『呪』が遣えそうだし)
愁月がハクコになんらかの暗示をかけたのではないか。咲耶は、そういう推測をする。
ふう、と、息をついて、咲耶はひざ上に顔を伏せた。とりとめもなく考えたあとは寝るだけだ。熟睡はできないが、多少は眠れる。
そんな咲耶の耳に、岩の上を下駄が鳴らす音が入ってきた。牢番ではない。履き物の種類が違う。
「──アンタって、バカな子ねぇ……」
顔を上げた咲耶の目に映ったのは、赤褐色の髪を高い位置で結び、羽織袴姿の若武者を思わせる装いをしたセキコ・茜だった。
「とりあえず、コレ、渡しとくわね。アタシと美穂から差し入れ」
鉄格子の隙間から風呂敷包みを縦にして、無理やり入れてくる。なんの気なしに受け取れば、布地のような感触と小さな塊があった。
「……開けてもいいですか?」
「どうぞ。そのために持って来たんだから──で、食べながら、聞いてちょうだい」
茜の言葉通り、包みを開くと、なかから笹の葉にくるまれた握り飯と、打ち掛けが一枚あった。早速、袖を通させてもらい、握り飯もありがたくいただく。
そんな咲耶を見下ろして、茜は溜息まじりに言った。
「……アンタの処分が決まったわ。神現しの宴をぶち壊したことに関しては、不問に付すって」
咲耶は、口に頬張った少し塩辛く不恰好な握り飯を飲み込んでから確認する。
「えっと……つまり、お咎め無しってことですよね?」
「まぁ、いま現在、仮にも国獣の伴侶が、こんなトコロに入れられてるのをなんとも思わなければ、ね。アタシからしたら、これでも十分な『仕置き』だと思うけどね」
軽く首を横に振ったあと、茜が眉をひそめた。
「ただ、そのこととは別に、アンタ達には新たな問題がもちあがっているわ」
「私とハクに……ですか?」
「そう、アンタと『ハク』に」
強調された仮の名に、咲耶は嫌な胸騒ぎをおぼえ、茜の鳶色の瞳を凝視した。すると、茜のほうも、咲耶をじっと見つめ返してくる。
「名前……まだ伝えられていないようね?」
「……はい」
「尊臣は、そのことを今回の一件で知って……花嫁の首をすげ替えろと言ったそうよ」
茜の表情に、怒りと嫌悪がうかがえる。次いで、吐き捨てるように言った。
「花嫁を馬鹿にした発言よねぇ? 役職じゃないんだから。文字通り首がかかっているのを知っていて言ってんのよ? ふざけてるわ」
話の方向からして嫌な予感はしていたが──。
「それって、私は用済みってことですか?」
他人事のように訊き返す咲耶に、茜はゆっくりとまばたきをしながら首を縦に振ってみせた。
「そう。──殺されるわ、アンタ」
茜の死刑宣告に、咲耶は一瞬意識が遠のきそうになったが、気を取り直して確認する。
「えっと。それは、決定事項なんですか? せめて猶予期間とか……」
「尊臣は気が短いの。聞いたことない?
アイツの側近連中も「御意ギョイ~」としか言わないから、議論もへったくれもあったもんじゃないのよ。
気の毒だけど、このままじゃアンタは確実に消されるわ。仮の花嫁とはいえ、すでにハクの主になっているワケだし……アンタが存在する以上、新しい花嫁は召喚できないから」
茜は咲耶の右手の甲を指差した。そこには、白い痕がある。
咲耶がハクコの主だという『証』。
「……アンタが『宴』に乱入したって話を聞いた時、アタシは馬鹿なことしたもんだって思ったわ。いい歳して、分別のない子だってがっかりもした。
けど美穂は、アンタの気持ちが解るって。アタシが同じ目に遭わされたら、迷うことなくアンタと同じことをしただろうって、言うのよ」
茜は目を伏せ、ゆるく波打つ髪に片手を突っ込む。
「だから……アタシがここにいるのは、美穂に言われたからなの。アタシは正直、尊臣っていう面倒ごとには、関わりたくはないのよ。
アタシの一番は美穂であって、アンタやハクじゃない。アンタ達がどうなろうと、知ったこっちゃないっていうのが、本心だし。けど……それこそ、美穂が黙っちゃいないだろうし、アタシも多少は、寝覚めが悪いしね。
──ってワケで、これがアタシの、精一杯の譲歩」
短く、茜は息をついた。その場でかがみこむと、咲耶と目線を合わせる。
「アタシに訊きたいことは、ない?」
情報提供──それが、茜ができる唯一の協力ということだ。咲耶は、すぐさまハクコと自分たちの眷属について訊いた。
「密偵にやった猿助の話によると、ハクは『宴』の前に愁月から特殊な香を嗅がされて、その上で呪をかけられたっぽいわ。で、その影響下から抜け出せずに、今も愁月の屋敷で軟禁されているようね。
アンタ達の眷属は、黒虎毛のコを抜かせば、無事のようよ。特に実害はないって、思われてるんでしょ」
黒虎毛──犬貴は、ハクコが軟禁状態にある以上、愁月の屋敷に留まっていると考えていいだろう。
(犬朗も転々も、大丈夫だったんだ……良かった……)
ホッと胸をなで下ろす。ハクコと犬貴は気がかりだが、少なくとも現状の咲耶よりは安全だろう。
「あの。これは、ダメ元で訊くんですけど。私がハクに名前を伝えられるまで、どこかに私を匿ってくれるような、人とか組織みたいなものって……ない、ですかね?
もちろん、この下総ノ国にはないでしょうけど……」
一瞬だが咲耶の脳裏には、以前に百合子から聞いた「仮の花嫁のうちは、元いた世界に戻れる」というものがよぎった。しかし──。
(できることを全部やって、そのうえで無理だって納得できるまであきらめきれない)
咲耶はハクコに「名前を伝えられるまでも、その先も、ずっと側にいる」と、誓ったのだ。いまさらその約束を反古にして、元いた世界に戻るなど、できない。……たとえ殺されると解っていても。
(だって、まだ私は生きてここにいる。希望が全部、費えたわけじゃない)
咲耶は、茜の返事を祈るように待った。果たして、茜は苦笑いを浮かべ、うなずいてみせた。
「そうくるとわね。でも、アンタの選択は正しいわ。
──『神獣の里』に、行きなさい。アンタは神力が扱えないとはいえ、ハクと正式な契りの儀を交わした花嫁なんだから、受け入れてもらえるはずよ」
返された答えは咲耶にとって、薄暗い岩牢のなかで、ひとすじの光明が射し込むものだった。




