《三》主命──今日から、よろしくね。
百合子と屋敷に戻ると、すでに闘十郎の姿はなく、そしてハクコも居なかった。闘十郎は自分の屋敷に戻ったようだが、ハクコの行き先は椿も知らないという。
「お前の気持ちは解ったが……。ハクコには、気をつけたほうがいい」
帰り際、百合子が咲耶の腕をつかみ、ささやいた。いぶかしく思う咲耶に、百合子が続ける。
「正確には、愁月に、だが。
ハクコは生い立ち上、愁月と懇意にしている。それを責めるつもりはないが、愁月が尊臣の忠実な官吏である以上、警戒するに越したことはない」
百合子がいうには、賀茂愁月は下総ノ国の神官で、さらにいえばハクコの育ての親だそうだ。
神官とは、咲耶のいた世界では祭祀を司る官吏をいうが、この陽ノ元では特に国獣と関わりが深く、国司との仲を執り持つ者をいうらしい。
しかし、こと下総ノ国においては、国司の命令を伝え行わせる……いわば国獣の監視役のようなものだと、茜が言っていた。
以前、ハクコが口にした『師』とは愁月のことであり、ハクコに書物を与え『人の世の理』を説いたというのは、咲耶もハクコ本人から聞いていた。
つまりハクコは、国獣でありながら国司・尊臣に近しい考えを植えつけられたともいえる。
だからこそ、自分たちと同列と考え、茜や百合子が尊臣を呼び捨てるなか、ハクコだけが「尊臣様」と呼んでいたのかもしれない。
「でも……ハクにとっては、親代わりみたいな人なんですよね?」
咲耶が訊き返すと、百合子はおおげさに溜息をついた。
「……だから厄介なのではないか。
お前は『白い神の獣の伴侶』だ。この先 神力が遣えるようになれば、国司にとっては平時にも戦時にも利用できる存在だ。少しは考えろ」
最後まで百合子は厳しい口調で咲耶をたしなめ、屋敷をあとにした。
(神力が遣えるようになればって、私まだ、その前段階でつまずいてるんですけど……)
百合子の危惧を頭に留めながらも、咲耶のいま一番の関心事はどうやってハクコに名前を伝えるか、ということである。
百合子にそれとなく(?)闘十郎に名前を伝えられた時のことを訊いてみたが「自分で考えろ」と、にべもなかった。
美穂と同じように寝床でホニャララかと思えば、そうではなかったようなので、咲耶は少し安心(?)したのだが。
「私たちは、それぞれ違う『神獣の花嫁』なのだ。神力を得るきっかけとなる『名を伝える方法』は、それぞれに違うのではないか?」
肩を落とす咲耶に、百合子はそう付け加えていた。
(あーっ、よけいワケ分かんなくなっちゃった!)
百合子にすれば親切な助言だったのかもしれないが、『正解』が定まっていないものほど難しいことはない。
(………………ま、なるようにしかならないよね、きっと)
考えに煮詰まると、開き直るのが咲耶の良いところでもあり、悪いところでもある。時と場合による『開き直り』が、今回は吉と出るか凶と出るか。まさに、神のみぞ知る、であろう。
(……に、しても……。ハクは、どこに行っちゃったんだろう……?)
日中、屋敷には居ないことが多いハクコだが、たいていの行き先は愁月のところである。しかし、今日に限っては違うようだ、とは、椿の弁だ。
咲耶が、黒虎・闘十郎への持て成しの残飯処理……もとい、おこぼれの相伴にあずかり、いつもより少しだけ豪華な夕食を終え入浴を済ましても、ハクコは屋敷に戻らなかった。
(どんなに遅くなっても、私が寝る頃には帰ってきて、人の布団に潜りこんでくるくせに……)
こんな夜更けまで、いったい何処をほっつき歩いているのだろうか? 咲耶は、母のような姉のような心情で、ハクコの所在を案じる。
(一緒に寝るのが当たり前になってるから、隣にいないと……なんか、眠れないじゃんか)
百合子によって気づかされた想いは、恋愛感情とは少し違う。けれども。
(いないと、淋しいって、思う)
誰かから、正面きって「必要だ」などと、言われたことはなかった。
自分の代わりなど、いくらでもいる。
仕事も恋人も友人も──人との繋がりはあっても、そこに「咲耶」という『個』を必要とする組織や関係など、本当の意味ではなかったのかもしれない。
自分以外の「誰か」でも、埋められる関係性──そんなものであふれた世界。そこからしたら、いまいるこの世界は、どうだろう?
花嫁、主、『神の獣の伴侶』。
代名詞で呼ばれるわりに、咲耶という『個』が際立つような気がした。その実が、伴っていないにしろ。
だが、実が伴わないからこそ名に恥じないようにしたいと思うのは、人として当然の心意気ではないかと、咲耶は考える。
「──咲耶」
呼びかけに、ハッとして身を起こした。ハクコだ。
あわてて部屋を出ると、白い水干に黒の筒袴姿のままハクコが立っていた。この時間まで常用服でいるとは、めずらしいことだった。
「ハク、どうしたの? いままでどこに──」
「お前に渡したいものがある。こちらへ」
咲耶の疑問などお構い無しに、ハクコは咲耶の手を引き中庭のほうへと廊下を歩く。
(渡したいもの……って。プレゼントってこと?)
『こちら』でしか見られないめずらしい花や、特別にしか手に入らない高価な品物を連想した、乙女的思考の咲耶の脳内だったが。
(えっと……何? っていうか、誰? いや、何者!? が、正しいのかな?)
かしこまって座る獣耳──おそらくイヌ科だ──の少年と、だらんとした姿勢をあわてて正すキジトラ白の猫が、中庭に並んでいた。
「ああああのっ。ボク、今日からお世話になります、えっと、あの、タヌキの半妖で……その、ええと……──ぎゃっ」
「ああっ、じれったい! あたいから先に自己紹介するよ? 見ての通り、あたいは猫。特技は飛び蹴り。好物はカツオ節。で、タヌキの坊主は何が得意なの?」
おどおどと話すタヌキ耳の少年に、飛び蹴りをくらわせた人語を操る猫から、咲耶はハクコに視線を転じた。事もなげに、ハクコが応える。
「お前のための眷属だ。受け取れ」
(……実用的なプレゼントだわ)
あっけにとられたのは一瞬で、咲耶はすぐに噴きだした。ハクコらしさに苦笑いしつつも、素直に嬉しいと、思う。
(なんか、犬貴に比べたら、頼りないカンジの眷属だけど)
ハクコが咲耶のために連れてきたということに意味がある。……その気持ちが、嬉しい。
「えっと、ボクは、あの……へ、『変化の術』が、つつつ、遣えますっ!」
どもりながら言ったタヌキ耳の少年が、「変化ッ」と短く叫んだ直後。やや小さめで、気弱そうな青年ハクコが現れた。「なんか弱っちそうなハク様ね!」と、また猫に蹴飛ばされている。
微笑ましいやりとりを見ながら、咲耶がハクコに礼を言いかけた時、表のほうから聞き慣れない声がして、咲耶たちのいる中庭へ近づいてきた。
「──だーから、そーゆう堅っくるしいのは、俺、向かないっての!」
「私も、好きで貴様に頼むわけではない。だが、背に腹は代えられぬというだろう。いいから、しゃきしゃき歩け!」
ぞんざいな口調に気づくのが遅れたが、犬貴の声もする。目を向ければ、犬貴と、犬貴と同様に二足歩行をする甲斐犬──ただし、こちらは赤虎毛だ──が、中庭に姿を見せた。
咲耶の視線に気づいたらしい犬貴が、あわてたように地にひざをつきかけ、すぐに隣の赤虎毛の甲斐犬に、無理やり頭を下げさせた。
「申し訳ございません、咲耶様。ご無礼を……」
「いいよ、犬貴。それより、誰? 犬貴のお友達?」
瞬間、赤虎毛の犬が、ブハッと、盛大に噴きだした。すかさず犬貴が、その後頭部を殴りつける。
「いえ、あの……。同郷の者で、フラフラしているくらいならハク様にお仕えしろと誘いはしたのですが、何しろこんな有様で……」
目に見えて動揺する犬貴が何やらおかしかったが、咲耶は笑わぬように気をつけて訊き返す。
「それって、犬貴みたいにハクの眷属になってくれるって、こと?」
「あー、そりゃダメだわ、ムリムリ」
答えたのは犬貴ではなく、赤虎毛の犬だった。暗がりで気づきにくかったが、左目には黒い革の眼帯をしている。咲耶の言葉に、おおげさに片方の前足を振ってみせた。
「言葉遣いに気をつけろ、痴れ者めッ! ……申し訳ございません、咲耶様」
「だーから、ムリだって言っただろ? コイツと同じようになんて、俺にはできねーな。
だろう? ハクの旦那」
「──先ほども言ったが、私の命はただひとつ。
咲耶を、何をさしおいても護り抜け。それ以外何も求めぬ。私をどう思おうがなんと呼ぼうが、お前たちの好きにするといい」
きっぱりとハクコが言うのを赤虎毛の犬の隻眼が面白そうにとらえ、咲耶に移った。無言で問われた気がして、咲耶もハクコに同意する。
「えーと。私も別に、どう呼んでくれても構わないかなぁ、なんて」
「しかし、それではけじめが……!」
「あ、でも私、犬貴にはいままで通り『咲耶様』って呼ばれたいけど……ダメ、かな? 犬貴にそう呼ばれるのは、好きだから」
今にも唸り声をあげそうな険しい顔つきでいた犬貴が、ピンと立った耳をわずかに伏せ、一瞬だけ固まった。直後、姿勢を正し、頭を下げる。
「……お望みとあらば、そのように致します、……咲耶様」
「柄にもなく照れてやがる。やだねぇ~」
隣の隻眼の犬が、からかうような声をあげた。今度こそ、犬貴が低く唸った。
「──貴様、表に出ろ。その腐った性根を叩き直してやる」
「おう、なんだ。やるってのか? いいぜ、ちょうど身体がなまってたからな、久々に……」
無意味な争いに発展しそうな虎毛犬たちに対し、あきれたようにハクコが息をつく。
咲耶にとっては見慣れたしぐさで何気ないものだったが、庭先にいた者たちには違った。瞬時に、場が凍りついたように、緊迫した雰囲気となる。
元の姿に戻っていたタヌキ耳の少年は、かしこまって座り直し、キジトラの猫は、びくっと身をすくめた。そして犬貴は我に返ったように姿勢を正し、赤虎毛の犬も罰悪そうに前に向き直った。
それを見届け、ハクコが口を開く。
「くだらぬ争いは、咲耶から『約定の名付け』を受けたあとにしろ。椿、筆と硯を」
冷たく言い放つと、廊下の端のほうに控えていた椿を振り返る。ハクコは、自らの懐から三枚の短冊を取り出し、咲耶に手渡した。
「これには呪が施してある。書いたら、私に寄越せ」
「……にぎやかになりますわね、姫さま」
咲耶の側に硯を置き筆を持たせながら、椿がくすっと笑ってみせる。咲耶は微笑みを返し、それからハクコに目を向けた。
「私が、名前をつけていいの?」
「そうだ。お前が名付けることによって、この者らのなかで、私よりお前の生命が優先される」
ハクコの言葉に、咲耶は気にかかっていたことを口にする。
「ちなみに、それは命令も?」
「そうだ」
ハクコからの肯定を受けて、咲耶は筆をすべらせた。
『人』に名をつけたことはないがこういった場合、直感的に決めたほうがいいだろうと、そのままを書く。
タヌキ耳の少年は、『たぬ吉』。
キジトラ白の猫は、『転々《てんてん》』。
赤虎毛の甲斐犬は、『犬朗』。
ハクコは咲耶から短冊を受け取ると、それぞれの名を呼び吹いて飛ばす。すると短冊は、その者の額にまで届いたとたん、吸い込まれるようにして消えてしまった。
不思議な光景に驚かなかったのはハクコと犬貴だけで、他の者は皆、息をのんだり自らの額を押さえたりと、落ち着きがなかった。やがてその興奮が鎮まり、咲耶は庭に集った眷属たちを見回す。
「ええと、じゃあ、改めて。
私は、松元咲耶。ハクと、あなた達の主です。さっき、ハクが言ったこと、少しだけ訂正させてね」
咲耶の言葉に、ハクコが反応する。それに気づかないふりをして、咲耶は先を続けた。
「ハクは、あなた達に何をさしおいても私を護れって、言っていたけど……正直、私は、そこまであなた達には望めない。
申し訳ないけど私には、今はそれほどの力もないし、気概もないから。あなた達の生命に、責任がもてない」
言って、咲耶は息をつく。自分の『小ささ』に、情けなくて涙がでそうだ。
「でも、これから先、あなた達に護ってもらえる価値のある存在には、なりたいと思ってる。だから」
顔を上げる。いまはまだ、頼りなくて神力も何もない存在だけど。
「あなた達のできる範囲で、私に力を貸して欲しい。そして、これから先の私を見て、あなた達が「何をさしおいても護り抜く価値がある」と思えた時は、そうしてくれると嬉しい」
もう一度、咲耶は、自分を見つめる眷属たちを見回した。
「今日から、よろしくね」
微笑む咲耶に、すべての眷属が頭を垂れる。
“主命”を受け入れるという、証として。