《二》仮の花嫁であるうちは、お前や私がいた『あの世界』に戻れるのだ。
「気遣いは無用」と言われてはいても、そうはいかないとばかりに黒虎へのもてなしの準備をしている椿に、咲耶は一応、声をかけてきた。
コクコの眷属・雉草が椿の足もとにまとわりついて小言を言っていたが、椿は適当にあしらっているようだった。
咲耶の外出に、一瞬、心配そうな素振りを見せたが、ハクコの領域内──咲耶も範囲は把握している──であればとの苦言を呈して咲耶を送りだしてくれた。
「……綺麗な髪ですね。椿油とか使ってます? あれって、手に入れにくい物なんですかね?」
椿の言もあり、咲耶は百合子にハクコの領域内での散歩を提案した。百合子も異論はなかったらしく、二人して森のなかを散策、と、なったのだが。
話があるようなことを言っていたわりに黙々と咲耶の前を歩く百合子に、咲耶は堪り兼ねて他愛もない話題を振ってしまった。
百合子は、ちらりと咲耶を見やっただけで、また前に向き直る。くだらない話をするなと無言で釘を刺されたようで、咲耶はこっそり息をついた。
(やっぱり、この人、苦手だ……)
契りの儀の直前、百合子が咲耶にぴしゃりと言い放った出来事が思い返される。気のせいかもしれないが、咲耶は百合子から嫌われているように思えた。
「咲耶様」
落ち着いた響きの呼びかけは、犬貴のものだ。思わず咲耶は、ホッと息をついた。
「どちらへ行かれるのですか?」
咲耶たちが歩いている道から枝分かれした、ゆるやかに下って行く道を、犬貴は辿って来たようだ。両手には取っ手つきの桶、頭の上には水瓶を載せた、なかなか器用な格好をしていた。
(ああ、ハクの眷属が犬貴で良かった~っ)
猿助といい、雉草といい、無駄口が多かったり出しゃばりだったり。愛嬌はあるが、正直あまり配下として使える気がしない。
咲耶が彼らのことをよく知らないだけで、ひょっとしたら眷属としては、優秀なのかもしれないが。その点犬貴は多少の堅さはあるが、礼儀も振る舞いもわきまえていて、主としては申し分なく鼻が高い眷属だった。
「あのね、百合子さんと……花嫁同士の話をしながらの散歩ってことで、いいんですかね?」
「──ハクの眷属は、お前だけだったな」
同意を求める咲耶を完全に無視して、百合子が犬貴に問うた。桶と瓶を下ろし、犬貴はその場で片ひざをつく。
「左様にございますが」
何か? と、逆に見返された百合子が、ふっと笑った。美しいが、癇にさわる笑みに、咲耶は眉を寄せた。
「それが何を意味するのか、気づかずにいるのか? 主従ともに愚鈍だな」
「なっ……」
玲瓏な声音で告げられたあざけりに、咲耶はカッとなったが、犬貴は毛を逆立てうつむいただけで何も応えなかった。
「ちょっと! いまのは訂正してください! ハクにも犬貴にも、失礼じゃないですか!」
「──何も知らぬ小娘が、知ったふうな口を利くな」
低く押さえつけるように言いおいて、百合子は犬貴に目を向ける。
「よもや、気づかずにいるほどの阿呆ではあるまい。……花嫁がいることを、どう考えているのか。浅い考えのままでは『賜り物』も失うことになると、ハクに提言すべきはお前の役目ではないのか?」
うつむいていた犬貴の眼が、わずかのあいだ咲耶を映す。哀しい色を宿した瞳が伏せられ、やがて苦々しい声が咲耶の耳に届いた。
「……咲耶様。御前を失礼いたします」
言って、犬貴は桶と瓶を持ち上げ屋敷のほうへ足を向けた。垂れ下がった尾が犬貴の心情を表しているようで、咲耶は百合子を振り返った。
「どうして、あんなっ……。犬貴は賢いし、忠実だし……それに何より、ハクコのことを大事に想ってる良い眷属ですよ!? こんな風にバカにされる、意味が解りません!」
何事もなかったかのように、また歩きだした百合子を追いかけ、咲耶はいらだちをぶつけた。
侮辱されたまま、屋敷に戻って行く犬貴の後ろ姿が、やりきれなかった。
犬貴が自身だけでなくハクコを貶める発言をした百合子に対し、なんの反論もしなかったのは、彼女が黒虎の花嫁だからと言葉を控えたのではないことは、なんとなくだが咲耶にも伝わった。
おそらく百合子は、間違ったことを言ってはいないだろう。だが──。
(正論だからって、何を言っても赦されると思うなよっ)
これが自分のことであったなら、咲耶は怒りを覚えなかっただろう。しかし、大事に想う者を傷つけられて、それでも黙っていられるほど咲耶は大人ではなかった。
「百合子さんは、犬貴に『何か』伝えたかったんですよね? 正確には、ハクコに。だけど、それってあんな風に、けなすように言わなきゃならないことなんですか!?」
瞬間、咲耶の身体が、真後ろにあった木の幹に叩きつけられた。衝撃と驚きで、息がつまる。さらには、咲耶ののどに、百合子のひじが突き付けられていた。
一瞬の出来事に理解が追いつくのが遅れたが、咲耶を今の体勢にしたのは、百合子の掌底による突きと、ひじによる押さえこみだった。
「──いずな、捕えろ」
短い語に反応するように、百合子のそで口からスルリと褐色の体毛に覆われた、おそらくイタチが現れた。俊敏な動きで瞬く間に咲耶の手首にまとわりつき、その身でもって無理やり後ろ手に両手首を拘束する。
「……お前は、私を、誰だと思っている?」
咲耶をのぞきこむ百合子の瞳には、怒りにも似た冷たい色の炎が見え隠れしていた。空いた一方の腕を上げ、手のひらを上向かせる。
「自分と同じ花嫁だと、勘違いしているのだろう?」
咲耶は唐突すぎる百合子の行動に、声もあげられなかった。なすがまま、百合子の語る言葉を聞いていた。
ふと、近づいた百合子の首筋にある『黒い痕』が、咲耶の目に入る。契りの儀で神獣から付けられる、証。「黒い神の獣は、破壊と死を」茜の言葉が、咲耶のなかでよみがえった。
「残念ながら、私とお前は同じ存在ではない。私とお前の役割が違うという程度の話ではなく──」
上向いた百合子の手指の爪が、咲耶の見ている前で肉食獣のように伸びて、とがる。
「仮の花嫁と、“神力”の遣える花嫁との、歴然とした違いだ」
咲耶の頬に、熱い痛みが走る。
真新しい紙で、うっかり手を切ってしまった時のような、一瞬のものだ。それは、百合子の爪先が、軽く触れた咲耶の頬を、切った痛みだった。
「解るか、この違いが。
今この瞬間、お前が本来の花嫁として在れば、お前の気の乱れだけでハクコの眷属がお前の異変をとらえ、この場にやって来たはずだ。また、お前がハクコを想うだけで、奴がお前を助けに来ることも。
──だが」
のどに置かれた百合子のひじに、ぐっと力が入り、咲耶は嘔吐きそうになる。
「私が今、お前ののどをつぶす。お前は、瀕死の状態となる。中途半端な仮の花嫁は、すぐには死ねない。苦しんで、もがくお前を終わらせてやるために、その首をへし折ってやろう。それで、死ねるはずだ」
そんな恐ろしいことを、実行する能力も気力も持ち合わせているのだと、百合子は言っていた。
(どうして百合子さんは、こんなことをするの──?)
咲耶の訴えかける思いに気づいたように、百合子は冷たく笑った。美しさと残酷さを秘めた眼差しが咲耶に注がれる。
「人が人を殺めるのに、納得できる理由があると思うな。それは大抵、身勝手な心に基づく愚かな行いだ。理不尽なものでしかない。
そして」
言うなり百合子の腕が外され、咲耶は急に取り込めた酸素にむせ返り、反射で涙があふれた。身体中から力が抜け、その場にくずれるようにして座りこむ。
「……お前がいるのは、そういう世界だ。理不尽な暴力がまかり通る、場所だ」
先ほどまでの口調からうって変わった百合子の声は、何かをあきらめたようにも聞こえる、力のない寂しい響きのものであった。
咳き込みながら、涙でにじんだ視界のまま見上げれば、百合子の顔が悲しみに満ちていた。
「今なら、まだ間に合う。仮の花嫁であるうちは、お前や──私がいた『あの世界』に戻れる」
咲耶は驚いて、百合子をまじまじと見た。ゆっくりと、うなずき返される。
「帰れるのだ。今なら、まだ。……親御は、健在か?」
声が出せない咲耶は黙って首を縦に振ってみせた。百合子の目が、細められる。
「ならば、なおさら帰ったほうがいい。お前がいなくなったことを、案じているはずだ」
その言葉は、咲耶の胸の奥底をえぐった。あえて触れずにいた部分に、土足で踏み込まれた気がした。
「ハクコの眷属が、あの犬だけでは、お前とハクコが同時に窮地に追い込まれたとき、あれはどちらを選ぶと思う?
お前は、あの者を賢いと言ったな? 私からすれば、賢さよりも情で動く性質に見えたが。理性よりも感情が優先される『賢い眷属』は、付き合いも浅く花嫁としても不完全なお前を、選ぶかな?」
百合子の問いかけは、容赦ない。答えの出ている問答に、意味はなかった。咲耶の……いや、ハクコの甘さを指摘しているのだ。
「解ったか? お前はこのまま『こちら』に居ても、意味がないどころか、無駄に命を落とす危険性をはらんでいるのだ。
親御が健在なら『あちら』に戻って、その庇護のもとにあるべきだ。お前が帰ると決めたなら、私と闘十郎が責任をもって──」
「帰れません!」
百合子の言葉をさえぎって、叫ぶように咲耶は言った。
のどはまだ痛く、胸のつかえが下りたわけではない。百合子の語る事実も、いまの咲耶には、変えようがないけれども──。
「私は……帰れません。まだハクに、名前を教えてあげられてない」
いらだったように、百合子はしゃがみこみ、咲耶をのぞきこんだ。肩に、手が置かれる。
「だから帰れると言っているのだ。お前が『こちら』に喚ばれたのは、不幸なこと。
契りの儀を前に逃亡していれば、殺されていただろうし、逃げずにいても、ハクコに“痕”を付けられる際、死んでいたかもしれぬのだ。そういう……理不尽な世界にいるのだぞ?」
咲耶の肩をゆさぶる百合子の必死の形相に、ようやく咲耶は、自分が百合子に嫌われていたのではなく、心配されていたのだと気づいた──咲耶よりも、ずっとずっと前に、この地に降りた花嫁。その、知識と経験からなる憂慮でもって。
百合子の真意に、咲耶は胸をうたれながらも、自分の想いを貫くために口を開く。
「でも、百合子さん……私は生きていて、あの人の名前を知っているんです」
咲耶の言葉に、百合子は信じられないといわんばかりに、首を左右に振った。
「それは、つまらない責任感がなせる自己欺瞞だ。名前を知っている? それが、なんだというのだ。
先ほども言ったが、これからお前に災厄が降り掛かっても、助けてもらえぬような事態に陥るかもしれぬのだぞ。それと引き換えにする価値が、あやつの名前にあるというのか?
実際お前はたやすく私の手に落ち、そしてハクコもその眷属も、お前を助けにくることはなかったではないか」
突きつけられる事実は、咲耶の心をわずかに苛む。誰にも助けてもらえずに、死ぬかもしれない──。
……自分の感覚は、麻痺しているのだろうか? それでも、咲耶の脳裏に浮かぶのは、白い幼い獣と生真面目な犬、年若い頑固な少女で。向けられた眼差しも言葉も、偽りのないものだと解るから──。
「私は、帰れません。というより……今日、いまさっき百合子さんに言われて、私、気づいちゃったんですけど」
泣きたいほど、愛しい感情。そんなものが、この短期間で自分のなかで育つとは、咲耶自身、思いもよらないことだった。
「帰れない……じゃなくて。私、どうやら、帰りたくないみたいなんです」
自然とこぼれ落ちる笑み。最初は、ハクコに求められるから残るのだと思っていた。けれども、いまは。
「私が、ハクに、真実の名前を教えてあげたい。ただ、そのために……帰りたくないんです」
「──愚かだな」
百合子の激情は去り、その瞳は、ふたたび冴えた静けさを取り戻していた。おもむろに立ち上がる百合子に、咲耶は思わず言った。
「百合子さんも……そうだったんじゃないですか? たぶん、美穂さんも」
帰れないから、この世界にいるのではなく。帰りたくない理由があるから、この世界にいる。だから、自分たちは花嫁でいるのだろう──。
「……いずな、戻れ」
咲耶に応えない百合子は、応えないことで咲耶の言葉を肯定していた。手もとに戻ったイタチを見せるように、百合子が言った。
「あとで、いずなに椿油を届けさせる」
──それが百合子流の、咲耶をこの世界に迎え入れるという、返答だった。